表紙 > 人物伝 > 司馬懿伝/下「魏臣としての敗北者」

3)公孫淵への飛ばっちり

ここから、2009年7月に考えたことです。

公孫淵を攻めた真意

司馬懿の矛盾した行動が、ますますファン心理を掻きたてます。何の話かと言えば、

「司馬懿は諸葛亮に対して、徹底的な持久戦をした。だが公孫淵に対しては、危なっかしいほどの急襲をした。真逆だ!別人みたいだ!」

という語り口です。

『演義』のせいで、司馬懿は引きこもり軍師のイメージが強いけど、攻めるときは攻める。司馬懿の相反する行動を説明するとき、

「状況に合わせ、柔軟に戦法を選べた。司馬懿は有能だ」

なんて済ませがちだが、あまりに面白みがない。ぼくは、司馬懿が公孫淵を攻めたことを、

――曹叡(明帝)への諫言

と捉えたいと思います。

司馬懿は、曹叡が持っている天下に対する認識を修正し、魏の財政を好転させようとしたんだと思う。「宣帝紀」に即して、見ていこうと思います。

曹叡の誤解

まず前提を確認。 司馬懿が叩きなおそうとした曹叡の認識とは、

「魏は統一王朝として、立派に完成している」

です。

三国ファンは、蜀漢と孫呉が踏ん張っていることを、史実よりも強く感じてしまいがちだ。まるで天下が三分しているかのような、イリュージョンを見ている人も多い。

だが魏は、少なくとも後漢の統治が行き届いた範囲は、すでに手元に収めている。孫呉は、後漢のときは逆賊や異民族が暴れていた地に、拠って立っている。そもそも度外なんだ。蜀漢は、もともと地理的に切り離されやすかった。新漢戦争のとき、公孫述が割拠したせいで、益州の人士が後漢政権に合流するには、数十年の時間がかかった。

雑に表現するなら、

「呉蜀がなくても、天下統一は成る」

のです。だから曹叡は、諸葛亮が陣没して静かになると、浪費活動を始めた。皇帝として権威づけるため、国力を再生産しないモニュメントに大金をつぎ込んだ。

「私は統一政権の皇帝だ。不可能はない」

てな具合です。曹叡の浪費行動は、決して異常ではない。理由不明の狂気ではない。中華にありがちな、平均的な統一王朝の皇帝の行動だ。

 

「これはマズいな・・・」

と、誰よりも強く責任を感じたのは、司馬懿だろう。司馬懿の中では、魏は「外敵のない安定王朝」ではない。っていうか、事実として外敵はいる。魏のために、司馬懿は心配した。

司馬懿その人は、魏に忠実だ。いわゆる社稷の臣だ。子や孫の行動から、司馬懿の思惑まで、歪めて解釈してはいけない。「宣帝紀」で司馬懿は、産業振興をたびたび進言し、魏の国庫の心配をしている。

 

このころ、曹叡に諫言を試みて、免官されたり殺されたりしたマイナーな気骨の士たちは、確かにいた。だが曹叡は、方針を転換しない。

司馬懿は、作戦を練った。

「もし私が諌めても、ダメだろうな。その場では反省した素振りをなさるだろうが、根本的に解決しない。魏は今でも発展途上で、非常時なみの警戒&倹約が必要だと、知ってもらわねばならん」

司馬懿が考えた諫言の変則的なスタイルは、公孫淵を攻めることだった。ぼくはそう思う。

遠征前の「教育」

目的が諫言だったことを、明らかにしたい。まず、

――司馬懿が、公孫淵を討ちにいく必要性があったか。

を考えてみる。ぼくはノーだと思う。

曹叡のころ、魏は北伐に熱心だ。鮮卑を討ち、公孫淵を討ち、高句麗を討ち、邪馬台国との国交が開通する。この文脈で捉えたとき、東北方面を征圧することは、国策に適っている。しかし一連の作戦は、

「圧倒的な強者が、弱者を掃討する」

というデモンストレイションみたいなものだ。決戦ではない。その証拠に、多くの人数を派遣していない。

 

237年、毌丘倹が公孫淵を攻めあぐねた。公孫淵は増長して、

「燕王」

を名乗った。年号は、

「紹漢」

とした。漢を継ぐという意味だ。董卓ノ乱のころに逆戻りしたような、センスのない名乗りである。魏王朝の正統は、こんな小悪党のアジテーションで揺らぐわけがない。

さらに、軍事的なバランスという立場から発言すれば、

「ああ燕王で、紹漢ね。で、それが何か?」

という程度の事件だ。孫権と結びつく動きもあるようだが、実をあげていない。公孫淵など、毌丘倹に攻め続けさせれば充分だ。しかしわざわざ、重鎮の司馬懿が遠征をすることになった。どうもおかしい。明帝の詔でさえ、

「司馬懿さんに行ってもらうほどの敵ではないが・・・」

なんて書いてある。このおかしさを理解するためには、公孫淵を討つという目的とは別の意図が働いたと考えれば、整合する。

 

曹叡は、遠征に行くという司馬懿に質問した。

「公孫淵は、どんな作戦だろうか」

司馬懿は答えた。

「公孫淵にとっての上策は、城を捨てて逃げること。中策は、地の利を生かして守ること。下策は、ただ城を守ること」

「公孫淵は、上中下のどれで来るかな」

「中と下。つまり、地の利を活かしつつ、城を守ります

 

怜悧な司馬懿の回答に、フッと光るものを感じてしまう。だが2度読めば、司馬懿が、死ぬほどつまらない一般論しか述べていないことが分かる。

そもそも、魏と敵対し、いちどは魏将の毌丘倹を下した公孫淵が、上策(戦わずに降伏する)を選ぶわけがない。それなのに、なぜ司馬懿は、あり得ないアホな選択肢を述べて、わざわざ却下して見せたのか。

「曹叡を教育するため」

だと、ぼくは思います。

弛緩しまくった曹叡の天下認識では、敵は自然と降伏してくるものだ。辺境の軍閥たちは、中原の皇帝の徳を慕って、ゆらゆらと靡くもの。儒教の世界では、そう定義されている(笑)

「明帝さまの希望的観測は、甘すぎますよ。現実はそうではありません!公孫淵は、普通に防御の構えを崩さない外敵なんですよ!」

と、司馬懿は念を押したいんだ。

司馬懿は「宣帝紀」によれば、間髪を入れず、

「明帝さまは宮殿の建設に熱心ですね。しかし、建設と公孫淵討伐と並行して行なえば、財政が破綻します。私が遠征でお金を使ってしまうので、宮殿の建設はストップして下さい。国家の危機を乗り越えねばなりません」

と諌めた。こっちが主題でしょう。

戦争は政治の一手段だと、誰かが言った。司馬懿は戦争を、諫言の一手段として使った。

 

「遠征は、1年で済ませます」

司馬懿は明帝に、カッコいい約束をした。

もともと財政を改善するために、遠征を行なうのです。明帝の認識修正に成功しても、遠征でダラダラと空費してしまえば、本末転倒だ。 司馬懿が、ちょっとゴリ押ししてでも公孫淵を斬ったのは、国庫節約のためだ。

拙速な戦い方が、兵法に適わないこともないが、二次的なことだ。強調しすぎてはいけない。