4)出鎮の天才
曹叡をなかばダマして、遼東に攻めてきた司馬懿さんです。
司馬懿の5択
司馬懿と公孫淵の戦闘の推移については、あちこちの本で紹介されているので、省略です。
ついに公孫淵が、
「人質を送るから、助けてくれ」
降伏を申し出た。使者に、司馬懿は言った。
「軍事には、5つの重要なことがある。戦うことができれば、戦え。戦えなければ、守れ。守れなければ、逃げろ。逃げられなければ、降れ。降れなければ、死ね。キミたちは降る気がないのだから、死ぬしかないのだ」
ぼくはこの冷酷な言葉が、とても好きです。アリの這い出る隙間もないほどの、ロジックです。結婚式で、
「人生には3つの坂が」
とか、つまらんことを演説するより、司馬懿の5ヶ条をやってほしい。
本領は「守り」の臣
分量の多さに怖気づかず「宣帝紀」を読むと、『演義』で司馬懿が見せなかった横顔が知れる。それは、
「地方経営のエキスパート」
だ。いかに地方を効率よく富ませ、いかに少ない労力で外敵の侵攻をいなすか。これに成功した逸話が、けっこう多い。皮肉なことに、司馬懿が嫌いだった父や兄から受け継いだ性質だ。司馬氏は「世々二千石」の家柄だと言われており、司馬懿はその鬼子である。
おそらく儒教の名家ぶりを苦々しく思った司馬懿が、いちばん司馬氏の要件を満たしている。もっとも司馬氏らしい。
241年、孫呉の朱然が樊城を包囲した。群臣は、
「奴らは遠征してきているので、放置すれば勝手に疲れるでしょう」
と楽観したが、司馬懿は、反対した。
「わが国が攻められているのにボケッとしていれば、辺境の民が不安に感じる。出兵して、撃退すべきだ」
暑気にやられてしまわぬよう、司馬懿は軽騎で速攻した。だが朱然はビクともしない。いったん司馬懿は兵を休ませ、精鋭を選びなおし、再攻撃するポーズを示した。朱然は逃げ出した。司馬懿は追撃して、1万人を斬首&捕縛した。
緩急をつけて脅し、大きな戦果を得た例だ。
242年、群臣たちは頭を抱えた。
「諸葛恪が皖城を守っていて、孫呉との国境の民が不安がっている。諸葛恪を討ちたい。だが攻城戦は犠牲がデカくなるなあ・・・」
司馬懿が、解決策を示した。
「心配はいりません。赤壁でダメージを受けたように、孫呉は水戦が得意です。もし諸葛恪が城から出て、水戦に持ち込んだら、敵は城の防御力を活かせません。もし諸葛恪が城に籠もるなら、水戦は発生しません。どちらにしろ、わが魏に有利なのです」
翌年、司馬懿が出撃すると、諸葛恪は城を捨てて逃げた。戦闘をする前から、諸葛恪は打ち手を失った・・・
人間にとって重要なのは、
「現実がどうであるか、ではなく、現実をどう認識するか」
だと言います。諸葛恪はたんに皖城に居続けただけなのに、司馬懿にパラダイムを操作されて、勝手に不利だと思い込んだ。
最小の費用で、最大の成果を。司馬懿は、上手い経営者です。
諸葛恪は頭でっかちだから、威勢で脅すより、彼の認知を歪めるのが有効。そこまで見通した作戦だったなら、なおすごい。
ここまで来て気づくのは、
諸葛亮との戦いは、司馬懿の中では、ワン・オブ・ゼムでしかなかったこと。司馬懿側の文脈は見落とされがちだが、彼は諸葛亮に対してのみ、天才的な防御力を発揮したのではない。
司馬懿は、つねに国境の守備に長けた。できるだけ国力を使わず、領民や領土(すなわち生産力)を奪われず、敵を追い返せる功臣だった。
皇帝からの人気者
司馬懿は曹丕、曹叡から、絶大の信頼を得た。曹丕は、
「皇帝の重労働を、2人で分担しよう。私が東に行くなら、キミに西を任せる。私が西なら、キミは東だ。くれぐれも遠慮するんじゃないぞ」
と司馬懿に言った。
曹丕も曹叡も、死に際に司馬懿に後事を託した。
・・・なぜ司馬懿は、皇帝からの人気が高いか。
2つの原因があるだろう。まず、司馬懿が有能だから。次に、司馬懿が皇帝権力を脅かさないから。もし簒奪のリスクがある男ならば、権力を与えすぎると危険である。だから、全面の信頼を置かない。
司馬懿の安全性は、前段で書いたように、彼の本性が「地方に出鎮する臣」だからだ。宮廷内で権力抗争をやって、謀略を駆使した寝技に、腕前を発揮するようなことはない。
皇帝権力と衝突せず、棲み分けができるから、重宝された。
曹叡の死と、中央官
さて、話は前後しましたが、司馬懿が公孫淵を討つために襄平に着いたとき、夢を見た。明帝(曹叡)が現れて、
「私の顔を見ろ」
と命じた。司馬懿が覗き込むと、明帝の顔の感じがいつもと違ったので、不吉に思った。夢は他人から見えないので(当たり前)、なぜ「宣帝紀」にこんな話が入っているのだろうか。司馬懿が周囲に語ったのか、歴史家が勝手に挿入したのか。『晋書』の信頼度からすれば、後者だな。
司馬懿が公孫淵を討ち終わると、
「洛陽に戻らなくて良い。そのまま関中の守りに入れ」
と勅命を受けた。だが次の3日間に、5つの勅命を受けた。
「私は死にそうである。早く洛陽に戻ってきてほしい。正門から入れば、到着が遅くなってしまう。裏口からでいい。とにかく早く復命せよ」
このとき洛陽では、孫資と劉放が、明帝の遺言を操っています。次の政権担当者を、自分たちの都合のいい人物にするため、皇帝の遺志を捻じ曲げています。こういう宮廷政治の機微は、司馬懿がもっとも苦手とするところ。司馬懿は地方にいて、
「将軍は臨機応変に戦うため、君命に従わないこともあるんだ」
という『孫子』の教義よろしく、自分の頭だけに頼って行動するのが得意だ。短期間に乱発された詔勅に、司馬懿は、かなり混乱したに違いない。
洛陽に帰還。
明帝は涙を流して、
「死ぬことは、仕方ない。だが、司馬懿の顔を見ずに死ぬのは、辛かった。私が死んだ後は、曹爽とともに斉王(曹芳)を輔佐してくれ」
と頼み、息絶えた。
――侍中兼持節兼都督中外諸軍兼録尚書事。
司馬懿が就任した官位だ。いちいちこれら官名の職掌と、秦代からの推移を説明するには、ぼくの教養が足りないわけですが・・・司馬懿にとって重要なのは、これが極めて枢要な中央官だということだ。
不得意だ!
少し昔話をします。
224年、司馬懿は曹丕から、給事中と録尚書事を与えられた。司馬懿は、わざわざ断った。司馬懿は地方の大任なら断らない。むしろ率先して着任する。一方で、中央の仕事は断る。そういう人だ。
曹丕は、
「司馬懿よ、キミに栄誉を与えるために、中央官を授けるのではない。私と、憂いを分かち合ってほしいのだ」
と説得をした。
このとき曹丕は、孫呉の征伐を計画している。中央をカラにするから、許昌を司馬懿に守ってほしかった。皇帝が地方に出るのだから、中央官と言っても、皇帝と密着して仕事をするわけじゃない。そこに妥協点を見出したのか(これはぼくの推測)、司馬懿は中央の仕事を受けた。
わざわざ曹芳即位から15年も遡った話をしたが、なんとこれ以降、司馬懿は中央の仕事をしていない。それほど、中央の仕事はイヤなんだ。