表紙 > 人物伝 > 司馬懿伝/下「魏臣としての敗北者」

6)息子たちの変質

宮廷政治は苦手な司馬懿。彼は地方の現場を見て、
「三国の、鼎立ぐらいが、ちょうどいい」
と川柳を呼んでいた。国力が弱っているから、天下統一はまだ早い。司馬氏が皇帝になるなど、考えてもいなかった。

後悔のない隠居

曹爽は、何晏・鄧颺・丁謐ら、名前の漢字の難しさを競った友人たちと、中央政治を壟断した。曹爽は、制度を勝手にコロコロ変えたが、司馬懿は口を挟むことができなかった。
きっと、尚書のルートを奪われてしまったので、打ち手がないのだ。

247年5月、
「私は体調がすぐれないので、引退させてもらう」
と司馬懿は申し出た。『晋書』には、

曹爽は、司馬懿の病気が重いと思ったから、皇帝(曹芳)をないがしろにする行動を取るようになった。

と書かれているが、割り引いて読むべきでしょう。
曹爽の印象が悪いのは、司馬氏を正当化するためでもある。曹爽は、曹氏・夏侯氏ら、宗室の権力を固めようと動いている。べつに王朝を滅ぼそうとして、無茶をやっているのではない。

司馬懿が退いたのは、これ以上曹爽と張り合ったところで、国家にメリットをもたらさないと思ったからだろう。
魏に仕えた名士たちは、政治の主導権を世襲していない。
荀彧の子は、荀彧の死に様が悪かったから、ひっそりしている。九品中正を定めた陳羣の子は、そこそこに出世しているが、朝廷の第一ではない。司馬懿の子たちは、高位に昇ることが出来るだろうが、脇役に終わるだろう。名士の間で、持ち回りで皇帝を助けるのが、場の空気だ。
むしろ司馬懿は、偉くなりすぎたことを、反省したくらいだろう。

ボケ芝居の目的

曹爽の息がかかった李勝が、司馬懿に見舞いにきた。超有名なエピソードだから、細かく引用しないけれど、司馬懿が死病にかかった老人を演じて、 李勝を欺いた。「司馬懿が芝居した」というエピソードは、中国ではスルーされたが、日本のファンを感涙させた。
「司馬懿は、もう死ぬでしょう。警戒は必要ありません」
と、曹爽は報告を受けた。
結果から手繰れば、
「司馬懿は、いずれ曹爽をクーデターで倒すつもりだった。だから油断をさせるため、わざと耄碌したふりをした」
という解釈になるのだが、ぼくは違うと思う。
――保身のため、司馬氏の家を守るため、演技をした。
こっちじゃないか。
司馬懿は、宮廷の陰湿な政治が苦手だ。曹爽の周りには、怪しげなブレーンが、良からぬことを企んでくる。下手をすると、司馬氏を族殺する口実を、でっち上げてくるかも知れない。皇帝の命令系統が握られているのだから、そのリスクは現実味を帯びる。
その謀略を、防げるか。
残念ながら、司馬懿の能力&立場&余命では、無理である。だったら、ひたすら無害のふりをするしかない。反撃の計画があろうがなかろうが、演じなければならない。
次に書くが、司馬懿はクーデターなど起こしたくなかった。

クーデターの首謀者

充分に人生に満足した司馬懿だが、穏やかに死なせてはくれなかった。なぜなら、長男の司馬師が、クーデターを計画したからだ。

クーデターをやったのは、司馬懿だとされる。確かに司馬懿は、戦闘に出馬している。だが司馬懿には、リスクを犯してまで、クーデターを行なう必然性を感じられない。不得意な宮廷で事変を起こしてまで、得なければならないものはない。印綬1つの在り処で、勝ち負けが逆転してしまうような種類の戦いを、司馬懿は好まない。
唯一の可能性は、
「曹爽に滅ぼされるくらいなら、返り討ちにする」
という自棄っぱちの自己防衛だ。すなわち、猫に襲いかかる窮鼠の行いだ。しかし曹爽は、司馬懿への警戒心を解いていた。警戒心を解かせるための芝居も、成功した。もう何もしなくても良いじゃん。

司馬懿は、曹爽の屋敷の前を取った。楼の上の守兵は、司馬懿をロックオンして矢を構えた。しかし同僚に、
「まだ(曹爽と司馬氏の)どちらが勝つか分からないぞ」
と制止されたから、矢を撃たなかった。何度も矢を構えたが、そのたびに同僚に止められたので、ついに矢は放たれなかった。

危ないよ!
『晋書』は、司馬懿に天命があり、やがて勝利することを示したかったのでしょう。無名の射手が、命を奪うことを思いとどまるようなオーラを、司馬懿が持っていたのだと言いたいか。
これが文筆家の演出だとしても(っていうか演出だろう)、戦争にハプニングは付き物だから、同じような危険があったかも知れない。
クーデターは、城攻めや野戦みたいに、大々的な幕営を張らない。近距離の市街戦だ。思わぬ方向から、狙撃される危険性は、高い。分かっていても、防げない。歴戦の司馬懿が、それを知らなかったとは思えない。
司馬懿は、首謀者ではない。

現状に不満を感じていたのは、司馬師だ。
「魏では、名士の2代目は、活躍をできない。そんなこと、あってたまるか!権力の中枢にいるのは、いつも司馬氏でなければならない」
司馬師の伝記「景帝紀」には、

司馬懿は、司馬師だけにクーデターの計画を打ち明けた。弟の司馬昭には、隠していた。

と書いてある。
これだと、どちらがクーデターを言い出したか、分からない。本人たちしか知らない。司馬氏の私兵から協力を得るため、司馬師が言いだしっぺを父に設定した、とも解釈できる。だから、ぼくが首謀者を司馬師だと結論しても、『晋書』と矛盾しません。
司馬師は、どこで養っていたか分からない死士3000人を、このクーデターで繰り出した。司馬懿はこれに驚き、後から、
「やりおったな・・・」
と呆れた。いちばんやる気があった人は誰か、一目瞭然に分かるエピソードだと思う。

宮廷闘争の政治家

司馬師の死士3000人について、もう1つ。
司馬懿は3000人を勘定に入れなくても、勝てると読んでいた。だから決戦の火蓋を落とすことに、ストップをかけなかった。だが、司馬師は3000人を投入して、より確固たる成功を目指した。
――宮廷闘争のセンスで、司馬懿は司馬師に大きく劣る。
と言えないか。
読みの甘さも証左の1つなんだけど、3000人の存在を知らなかった司馬懿は、致命的に弱い。恐らく同じ敷地に住んでいるのに、司馬師は3000人を隠し通した。テーブル・マジシャンのような腕前である。
もし司馬師と司馬懿で市街戦をやっていたら、司馬懿は惨敗するだろう。

司馬氏の変質は、司馬師だけじゃなく、弟の司馬昭にも起きていた。司馬昭は、のちに皇帝・曹髦を殺した成済のような無頼を、洛陽で飼っている。
曹髦と対峙したとき、賈充が、
「司馬昭さまが、日頃お前らのような連中に飯を食わしているのは、今日のような日のためであるぞ」
と言い、皇帝殺害の背中を押した。
洛陽で暗躍する、小回りの利く暗器のような人を、司馬懿の子たちは重視した。晋王朝の基礎を築いたのは、司馬懿ではなく、子供たちだ。