01) 三国志論は、日本人論だ
安野光雅、半藤一利『三国志談義』平凡社2009
の読書メモです。
このページの目的
目的:太平洋戦争を生きた世代が、三国志をどのように楽しんだか、メモを取りつつ確認すること。
この本は、画家の安野氏(1926年生まれ)と、作家の半藤氏(1930年生まれ)という、2人の文化人の対談です。
ぼくより50歳以上も年上の2人が、いちおう三国志について喋る席を設けたものの、確信犯的に脱線しまくるだけの本です。
ぼくは読書の前に覚悟していました。そして本ページを読まれる皆さんにも、ご理解して頂きたいことがあります。それは・・・
「三国志についての知識は、1つも増えない」
という、かなりショックな事実です。
まるで2人のおじいさんの対談に同席させてもらい、気になったフレーズを1つ2つを、脈絡なく書きなぐったようなページになる予定です。一貫した流れがなくて恐縮ですが、本編へどうぞ。
1章、現地探訪、遺跡への旅
日本の地図を中国の地図に重ね、「簡単に行ける」と判断するのは間違い。「赤壁からは、荊州も武漢三鎮も、遠くて道がひどい」
15歳のころ吉川英治を読むと、文字を追っかけるだけでスポーツのように面白かった。
中国語は敵性言語だから、学ばなかった。漢詩は、読み下し文で読んだほうが、じーんとくる。「ふぁーふぁー」読む必要はない。
「半藤(話者の名)病篤かりき」と言い、教練をサボった。
◆三国志の前半の史跡より
黄河は源流から9回屈折し、屈折するたびに千里を流れる。
渭水も黄河も大きすぎて、見ても区別が付かない。
鉅鹿は、褶曲のはげしい石灰岩の山。骸骨がうようよありそうな景色。鉅鹿は、秦の章カンが項羽に敗れた場所。
日本では総大将より、参謀を重視する。だから、会社でやたらに会議する。戦う前の軍議が面白い。
宦官はエジプトにもある。韓国までは伝ったが、宦官をつくる文化が、海のおかげで日本に渡ってこなくて、よかった。
◆三国志の後半の史跡より
日中戦争のとき、洛陽にある龍門の石窟が、両軍が砲撃する中間地点に入った。日中双方が諒解して、違う場所に移って、ドカンドカンを再開した。洛陽は日本が占領した。「いい話」だ。
洛陽の関帝廟は極彩色で、彫刻的に見て「どうかな」と思う。白帝城にある、託孤の蝋人形は、リアルすぎて気持ち悪い。
日中戦争のとき、はぐれた日本兵(駒田信二)が、地元人に助けられた。「日本ってどこだ」「なんでここに来たのか」「いつの戦争だ」「どこが戦っているのか」と聞かれた。広い中国では、前線以外の人は、戦争を知らない。
吉村作治さんがエジプトを「おせっかい」にも掘るのは、なぜか。古代エジプトから見れば、現代エジプト人も、現代の日本人も同じ距離だからだ。国境は新しく決めたもの。三国志論は、日本人論でもある。
『三国演義』は14世紀に書かれたもの。中国人はこうであったら良いなあ、という願望が反映されている。
赤壁の岸壁に「赤壁」と書いてある。ライン川の岩に日本語で「ローレライの岩」と書いてあり、がっかりする。
漢中にはトキがいる。佐渡島のトキは漢中産だ。
三国志は平気で人を殺す。だが日本の『太平記』も、何十万の兵が激突する。小説は「白髪三千丈」になる。