表紙 > 読書録 > 松岡栄志「孫盛伝 ある六朝人の軌跡」でプロの訳&注を学ぶ

02) 『晋書』はゴミクズか?

松岡栄志「孫盛伝 ある六朝人の軌跡」
(伊藤漱平編『中国の古典文学』東京大学出版会1981)

を読みました。

歴史書を改竄せよ

【列伝のあらすじ】
孫盛は、上司の桓温が敗北した戦いを、きっちりと記した。桓温は、孫盛の子を脅して、書き換えろと命令した。だが孫盛は拒んだ。子供たちは、桓温を恐れて、こっそり孫盛が書いた歴史を改竄した。
子供たちによる改竄を、孫盛は察知していた。孫盛は歴史書を、前燕の慕容雋にプレゼントした。国外に送られた、オリジナル版の歴史書は、後年に東晋に戻ってきた。2つの版を比べると、まるで違った。

いちばん面白いところです!
孫盛が歴史書を送りつけた慕容雋は、桓温を破った人です。勝者ならば、誇りに思って、自分が活躍した記録を保管してくれるはずだ。孫盛が、オリジナルの著作を後世に伝える作戦は、成功しました。


【翻訳の気づき】
「関君門戸」は「君の一族にとって、ゆゆしきことになる」だ。関わる、という動詞の意味のとり方が難しいですね。
「子孫班白」で「子供たちが白髪頭になった」
「稽首」は、もっとも重い敬礼。

【解説より】
『隋書』経籍志によれば、孫盛の著作は2つだ。
 『魏氏春秋』20巻
 『晋陽秋』32巻、訖哀帝。
「訖」は「おわる」だから、哀帝が在位した361-365年まで、孫盛が生きていたことが分かる。

孫盛の生年を探るのが、著者・松岡氏の関心のようです。

『晋陽秋』は、『春秋』をマネた編年体だった。「春」の字がないのは、簡文帝の鄭太后の諱が、「阿春」だったためだろう。

歴史書を枉げる話では『左伝』の襄公25年の伝が有名だ。
ある歴史家は「崔杼が主君を殺した」と書いた。崔氏の不評を買って、歴史家は殺された。だが歴史家の弟が、同じことを書いた。また殺された。3人目の弟も、同じことを書いた。崔氏は根負けして、主殺しの記述を認めた・・・

関連する故事を引っ張り出すのも、翻訳者の務めか・・・
春秋戦国時代に、めっきりくらいのが、ぼくの課題です。

『晋書』を再評価する

列伝は以上です。
著者の松岡氏が、孫盛の列伝を読んで「論定しうる」のは、つぎの2点だけだそうだ。
 1.孫盛の生年は300年ごろだろう
 2.『晋書』は『世説新語』の単なるコピーではない

1つ目、孫盛の生年について。
生年を算出する根拠は2つだ。まず孫盛が、10歳のときに渡江したこと。つぎに哀帝で「訖る」という『晋陽秋』を、72歳で死んだ孫盛が書いたこと。少なくとも哀帝の末年まで、孫盛は生きていたハズだから、逆算すればよい、と。

ぼくは疑問です。著者が考えたように、『晋陽秋』に哀帝の時代の末年まで、書いてあるとは限らない。哀帝の即位まで書いて、コロッと死んだかも知れない。それでも「哀帝で訖る」となる。
・・・こう考えれば、孫盛の生年は、遡るでしょう。まあ哀帝の在位は足かけ5年だから、大きくはブレないが。
また『晋陽秋』を書き終えてから、孫盛がどれだけ生きていたかも、検証しようがない。これ以上は、無意味な空想バトルだ。


2つ目、『晋書』の評価について
著者が攻撃しているのは、盛唐の批評家・劉知幾『史通』だ。
劉知幾は、
「『晋書』は、ろくでもない本である。ウソばっかの『世説新語』を鵜呑みにして、引用しているからだ。『世説新語』に間違いがあることは、梁の劉峻が解き明かして、すでに注釈している。この注釈を踏まえず、『世説新語』の本文を書き写したのだから、『晋書』はゴミクズである」
と言いました。

ゴミクズとは、ぼくが勝手にアレンジしました。
原文は「なんと厚顔なことか」と言ってる。

いま松岡氏が、孫盛の列伝の文章の元ネタを探した。すると『晋書』は、劉峻の附註もふくめて検討し、『世説新語』の本文と附註を、取捨選択したことが証明された。ただ本文を丸写ししただけでは、ないことが分かった。
劉知幾による辛口コメントは、言い過ぎだった、と。

どちらにせよ、300年前に書かれた小説集&小説への考察を、こね回しただけなんだ。附註を取捨選択したことが、どれだけ偉いのか。そんなこと、ぼくでもやっている (笑)
フィールドワークした『史記』とか、ほぼ同時代の人が書いた『漢書』『三国志』とかと比べたら、やはり『晋書』はゴミクズだ。
個人的には『晋書』が好きですが。


最後に、松岡氏は言っています。
『晋書』の編者たちは、『世説新語』の逸話に、人間の歴史を見出したから、列伝に多く引用したのだと。

キレイにまとめた風ですが、何を言いたいか不明!
『晋書』孫盛伝は、『世説新語』の寄せ集めに過ぎなかった。だから『世説新語』を肯定しておかないと、この論文そのものが死んでしまう。そういう自己保存の本能が働いたんじゃないかなあ。

おわりに

裴松之は、孫盛の著作をたくさん引用した。三国ファンにとって、孫盛はかなりの重要人物です。だが孫盛は、『晋書』の列伝が、驚くほど貧弱でした。
後世のぼくたちは、孫盛を知るために、裴松之の注から、彼の著作をつなぎ合わせてみる必要がありますね。列伝への望みが絶たれた今 (笑)、それをやりましょう。
また『漢晋春秋』を書いた習鑿歯も、桓温に従軍して、成漢を滅ぼすのを手伝っている。習鑿歯と孫盛の比較もまた、東晋の歴史家を知る手がかりになるでしょうね。

以前に、習鑿歯の列伝を訳しました。
『晋書』列伝52、蜀漢正統論の習鑿歯伝を翻訳

ぼくは英雄よりも、歴史家に興味があります。100213