02) 仁徳天皇が初代である
岡田英弘『倭国の時代』文藝春秋社1976
を読みました。
気になった内容だけを抜粋し、感想をはさみます。
3章『日本書紀』の構造
『日本書紀』の特徴は、以下の3つだ。
①初代神武から16代の応神まで、架空の歴史である
②17代の仁徳が、もとは初代として描かれた
③24代の顕宗と、27代の継体は、新王朝の初代
『日本書紀』が書かれた目的は何か。
天武天皇や、3人の女帝(持統、元明、元正)が、自分たちの皇位継承を正当化するためだ。まだ確立しない父子相続を、皇后や女帝というツールを媒介にして、実現するためだ。
中国史を知ってから『日本書紀』を読むと、驚くことがある。中国の故事が、まるで引用されていないことだ。本紀なんて記述スタイルを使ってるから、よほど中国の史書に学んだだろうに。
白村江で中国と敵対し、「日本だけの歴史」を創作したんだろう。
大化の改新のドラマは、カッコいい。だが中臣鎌足は、宮中の使用人だ。中臣鎌足は、中国の宦官のような存在だった。
蘇我入鹿を暗殺するのは、成功しそうだ。
中臣鎌足の功績が、華々しくかかれるのは、なぜか。中臣鎌足の曾孫・聖武天皇を飾るためである。
『日本書紀』には、5つの王家が登場する。
35代の舒明天皇より後が、天武天皇が属する「現代史」の王朝である。当事者が生きているから、ウソを書くことが出来ない。
だがそれ以前は、中国の歴史書を切り貼りして、創作したものだ。
4章、初代の倭国大王・仁徳天皇
仁徳天皇より前は、兄弟相続が1件もないフィクションである。古いほど偽作しやすいから、ウソである。
仁徳天皇が登場する直前には、神功皇后がいる。
神功皇后の記録は、香椎宮の海神の伝説を、取り込んだものだ。香椎宮は九州にあり、白村江の戦いに勝つため、新興&信仰された神様だ。
神功天皇の実在を否定する根拠は、
○神功皇后は上陸せず、海上にずっといる
○皇后の記録には、海や魚族の霊験譚、海人が住む地名ばかり
○皇后は、住吉三神という海神との関わりが深い
○夫の応神天皇は、『書紀』に主人公の逸話がない架空の人
○皇居や陵墓の位置が、『書紀』の記録や遺跡がない
実在した初代の仁徳天皇は、神功皇后の話と繋がっていない。
仁徳天皇は『日本書紀』で、皇居や陵墓の位置が明記されている。難波に高津宮を作った。
「民家から、炊煙が立っていない。都づくりを休め」
と仁徳天皇が言ったのは、有名な聖人君子のエピソードだ。儒教的な名君として、仁徳天皇が描かれている。
これこそ(岡田氏曰く)仁徳天皇が、はじめて首都を建設した天皇であるという、根拠である。
仁徳天皇は、前の応神天皇と違って、自身を主人公とするエピソードを多く『日本書紀』に持つ。影が濃い。
『宋書』で、倭の五王が登場する。最初の王は、421年に朝貢した。五王は、建国した歴史を、中国皇帝に報告している。
「祖父や父たちは、甲冑をまとって遠征し・・・」
倭の五王は、仁徳天皇が始祖である王朝の王たちだと考えれば、年代が合う。
五胡十六国の1つとして、倭の五王をカウントしたくなる。
5章、大和朝廷は実在しなかった
初代の神武天皇は、東征して、大和に都したらしい。
岡田氏の名文があるので、引用します。
「困ったことに、われわれはどうも、太古の紫雲たなびく『大和朝廷』の詩的なイメージに弱いようで、2000年代の現在でさえ、その実在をまるで疑う余地のないものと頭から決めてかかり」
『日本書紀』が作られた天武天皇の時期、大和に都した。いま都がある位置を権威づけるため、大和朝廷を創作した。もともと奈良盆地にあった古墳を、天皇陵だと割り当てた。
架空の天皇たちの記述は、祭祀や、外国の史料にルーツを見つけられる。ストーリーに重複もある。地名の起源の説明を除くと、あらすじが残らない天皇もいる。
そもそも神武天皇が、新しい地名「日向」から始まるのに、12代の景行天皇が、古い地名「熊襲」で闘うのは、おかしい。
神武天皇の東征は、天武天皇の壬申の乱のパロディである。ヤマトタケルは、天武天皇を投影した人物だ。戦闘行動や、ゆかりのある地名が重なる。
神武天皇が南九州から統一戦争を出発するのは、なぜか。ちょうど天武天皇のころ、南九州を平定したからだ。祖先が同根だというエピソードを作れば、民族を同化しやすい。
始終こんな調子で『日本書紀』は、7世紀の現代史でしかない。
次回、中国&日本の古代史を関連づけて、概観できます。お徳用!