01) 司馬懿と邪馬台国の関係
岡田英弘『倭国の時代』文藝春秋社1976
を読みました。
中国ではなく、日本古代史の本なんですが、
三国ファンでも楽しめると思います。
気になった内容だけを抜粋し、感想をはさみます。
このページの目的
①邪馬台国と司馬懿の密接な関係をみる
②日本人が「本紀」のパロディを作った過程をみる
③三国時代や両晋と並行した日本史をみる
1章、日本古代史へのアプローチ
日本古代史は、当時の世界史(アジア史)の中で捉えるべきだ。現代の中国、朝鮮、日本の個別の国家が、成立する前である。とくに中国史との関係で、日本史を捉えるべきだ。
論文レジュメ:西嶋定生『中国史を学ぶということ』
東南アジアの『マレー年代記』は、天孫降臨から始まる神話がある。内容は『日本書紀』と、ほぼ同じである。
『マレー年代記』は、16世紀に成立した本だから、同時代の他史料と比較することができる。まるで事実と違う。『日本書紀』もまた、事実と違うだろう。神話の典型的なパタンを描いただけだ。
『隋書』には、600年と609年に、日本から男王が使者を遣ったと書いてある。『日本書紀』では、女帝・推古天皇の時代のはずで、食い違う。推古天皇の記録ですら、『日本書紀』はあやふやだ。
歴史書は「ひとつの時代が終わった」と考えたとき、作られる。
さきの『マレー年代記』は、ポルトガルにマラッカを陥落させられたときに作られた。『日本書紀』は、7世紀の白村江の戦いを動機にして書かれた。
『マレー年代記』がそうであるように、歴史書が作られた時代の状況は、よく伝える。歴史書が描いた、対象の時代の状況は、分らない。
2章『魏志倭人伝』とは何か
『魏志倭人伝』は孤立した記録だ。3世紀の中国を知らねば、どういう偏向がある記録なのか分らない。
『魏志倭人伝』は、晋朝の帝室の権力の起源を説明するために、書かれたものだ。
3世紀の中国では、文字を書ける人が極少だった。文字を書くことは、政治の最大の武器だった。例えば、始皇帝が文字を統一したのは、コミュニケーション手段の国有化だった。班固が『漢書』を、私人として執筆するのは、国家に対する叛逆だった。
そんな背景だから『魏志倭人伝』が、政治的な狙いなく、後世に伝えられるわけがない。
『三国志』で外国を記すのは「烏丸・鮮卑・東夷伝」ただ1つだ。魏と正式な国交を持った国は、西域に多い。ゼン善、亀玆、于テン、大月氏。しかし西域の諸国には、列伝がない。
理由は、東方を平定して、烏丸・鮮卑・東夷との国交を開いたのが、司馬懿の功績だからだ。司馬氏が公孫淵を討ったことを褒めるため、『三国志』には東方諸国の列伝だけがある。
陳寿を引き立てたのは、1つ年上の張華だ。
張華は、幽州や烏丸を担当した。張華は、東方の現地に赴任したから、事情に詳しいはずである。その張華の子分・陳寿が、知識を得て「烏丸・鮮卑・東夷伝」を書いた。
倭国の地理は、邪馬台国論争が示すとおり、ワケが分からない。なぜか。陳寿が邪馬台国を、孫呉の裏手に位置させるため、わざと地理を撹乱しているからだ。
「司馬懿が遼東を討ったおかげで、孫呉の背後を抑えた。魏晋にとって、今後の戦いが大いに有利になる」
という陳寿の操作だ。
西晋が全土統一した後なら、わざわざ会稽郡の後ろに、邪馬台国を運ばなくてよい。
倭国の戸数が多いのは、司馬懿の手柄を大きく見せるためだ。数字を真に受けて、日本の古代史の参考としてはいけない。
「邪馬台国が遠くて大きいのは、大月氏国と対等に見せるためだ」
と読んだことがあります。西域を担当し、大月氏と交渉を持っていたのは、司馬懿のライバル・曹爽である。曹爽よりちっぽけな東方諸国の担当では、司馬懿がショボくなる。
(=司馬懿が曹爽に競り負けていたことの証明になる)