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189年秋:宦官全滅、董卓廃立

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

189年7月:袁紹が何太后を脅すため、董卓を招く

秋7月、渤海王の劉協を、陳留王とした。
司徒の丁宮がやめた。
ふたたび袁紹は、何進にいった。
外戚の竇武は宦官に殺されました。作戦が漏れたからです。何進将軍の兄弟は、強い兵がいます。天下のために、宦官を除きましょう」
何進は、何太后に、中常侍たちを殺そうと言った。何太后は、何進をゆるさず。
「漢室はむかしから宦官がいる。宦官を廃さない」
何太后の母・舞陽君と何苗は、宦官からワイロを得ていた。何進はこれを知り、宦官を誅したいと思った。袁紹は、何進にいった。
「四方から軍隊を招き、何太后をおどしましょう
何進は、賛成した。
主簿をつとめる広陵の陳琳は、何進をいさめた。

陳琳のいさめ文句は、省略。

典軍校尉の曹操は、笑った。
「宦官は古代からいるものだ。宦官を除きたければ、1人の獄吏に、元凶を捕らえさせれば充分だ。どうして何進は、地方から軍隊を招くのか。何進は失敗するぞ」と。

曹操をほめるために、作られた逸話では?


かつて中平6年、霊帝は董卓を少府にまねいた。董卓は、胡族の平定にいそがしいと言い、霊帝に応じなかった。霊帝が死ぬとき、董卓を并州牧とした。董卓の兵を取りあげ、皇甫嵩にうつした。董卓は、兵の異動をこばんだ。
皇甫嵩の従子の皇甫レキは、皇甫嵩に云った。
「董卓は強くて、逆心がある。処刑すべきだ」
皇甫嵩は云った。
「董卓を、勝手に殺せない。朝廷に裁いてもらえ」

董卓は河東にいて、洛陽の事変を見ていた。何進は、董卓を洛陽に召した。侍御史の鄭泰は、何進をいさめた。尚書の盧植も、何進に反対した。何進が聞かないので、鄭泰は官位をすてて逃げた。鄭泰は、荀攸に云った。「何進さまは、救えない人だ」
何進の大将軍府掾の王匡、騎都尉の鮑信は、どちらも泰山郡の人だ。何進は、王匡と鮑信に命じ、故郷で兵をあつめさせた。何進は、東郡太守の橋瑁を召し、成コウにとどめた。
武猛都尉の丁原は、数千人をひきいて、河内をせめた。丁原は、孟津を焼いた。丁原が城中を、火で照らした。

董卓は、何進に呼ばれたので、上書した。
中常侍の張讓らは、政治を濁らせた。むかし商鞅は、君主のそばの悪を追いはらった。洛陽を清めよう」
何太后は、まだ宦官ごろしを許さない。何苗は、何進に云った。
「むかし南陽で貧しかった。妹が皇后になったおかげで、富んだ。恩のある宦官を、攻めてはいけない」

何苗は「国家のこと」と言っているが、宦官とイコールだろう。

董卓は、メン池にきた。何進は董卓をうたがった。何進は、諌議大夫のチュウ邵をいかせ、董卓をストップさせた。董卓は何進を聞かない。チュウ邵が怒ったので、董卓は夕陽亭にもどった。チュウ邵は、チュウコウの孫である。

袁紹は、何進が作戦を変えるのを懼れた。袁紹は、何進をおどした。
「すでに何進さまの作戦は、あらわです。早く実行しないと、竇武と同じ失敗をしますよ」
何進は、袁紹を司隷校尉にし、仮節と専断権をあたえた。従事中郎の王允は、河南尹になった。袁紹は、洛陽あたりの武官を監察した。董卓に、入洛をうながした。

袁紹の「司隷校尉」としての活躍、くわしい。出典は何進伝?

何進は、平楽観に入った。
宦官は、何太后にあやまった。張讓の子の婦人は、何太后の妹である。張讓は、子の婦人にむけて叩頭した。
「何太后のために働けたら、ミゾに落ちても死んでもいい!」
子の婦人は、舞陽君に云った。「宦官たちを復職させましょう」

189年8月:宦官をみな殺す

8月戊辰、何進は長楽宮に入った。何進は太后に、宦官たちを殺そうと云った。中常侍の張讓、段珪たちは、太后に云った。
「何進は、霊帝の葬儀をサボッた。何進は、竇武のように殺されることを心配したのです。いま数十人を伏せて、何進を召しましょう」
何進は張讓に、呼び出された。何進は、出かけた。尚方監の渠穆は、剣をぬき、何進を嘉徳殿で殺した。
張讓は、もと太尉の樊陵を、司隷校尉にした。少府の許相を、河南尹にした。

司隷校尉は袁紹、河南尹は王允でした。宦官は、何進派を追放した。

尚書は「何進が何太后を殺そうとしたから、誅殺した」と発表した。何進の部曲の張璋 は、何進が殺されたと聞き、宮殿に入って門を閉じた。
虎賁中郎将の袁術と、王匡は、宮門をやぶって入った。宦官たちは、門を守った。日暮れ、袁術は青サ門を焼いた。袁術は「張讓よ、出てこい」と云った。
張讓は、何太后に云った。
何進の兵が謀反し、門を焼き、尚書門を攻めました」
何太后は、劉弁と劉協をつれた。役人たちは、北宮ににげた。尚書の盧植は、武器をもって段珪を睨みつけた。段珪は懼れた。何太后は、袁術から逃げのびた。

袁紹と、おじの袁隗は、詔を偽造した。樊陵と許相を召して、殺した。袁紹と何苗は、兵をひきい、朱雀門の下にいた。袁紹は、趙忠らを捕らえて斬った。
ふだんから呉匡は、何進にさからう何苗を、怨んでいた。何苗が宦官と通じていると疑った。呉匡は、軍にいった。
「何進さまを殺したのは、車騎将軍の何苗である」
みな何進のカタキを取りたいと思っていた。みな涙を流し、董卓の弟で奉車校尉をつとめる董旻とともに、何苗を殺した。何苗の死体を、庭にすてた。
袁紹は北宮門をとじた。宦官を捕らえ、老若にかかわらず殺した。2000余人が殺された。ひげがない人が、間違えて殺された。袁紹は、真南の端門にのぼり、宮殿をせめた。
庚午、張讓と段珪らは、劉弁と劉協をつれて、数十人で穀門をぬけた。夜に、小平津にきた。6つの璽はない。公卿もない。ただ尚書の盧植と、河南中部掾のビン貢だけが、夜に河上についた。ビン貢は声をはげまし、張讓をせめた。
「張讓は死ね。お前を殺して、数人を切り殺すぞ」
張讓は怖くなり、劉弁に叩頭した。
「私たちは死にますが、皇帝陛下はご自愛を」
張讓は、黄河に身投げした。ビン貢は、劉弁たちを助けた。民家の屋根がない車に、劉弁を載せた。ホタルを頼り、南にいった。
辛未、劉弁は1人で馬にのり、劉協はビン貢と同乗した。
董卓は、洛陽の西、顕陽苑にきた。劉弁は泣くだけ。
公卿は、董卓に「兵を引き返せ」と云った。董卓は、公卿に云った。
「あなたたちは、大臣なのに、王室を正せず、皇帝をさまよわせた。兵を返さないぞ」
劉協が口を挟んだ。董卓は大いに喜んだ。董卓は、劉協を育てた董太后と同族である。劉弁から、劉協にかえる気持ちを抱いた。

劉弁は宮殿にもどり、大赦した。光熹をやめて、昭寧と改元した。伝国璽を失ったが、のこり5つは戻った。丁原は執金吾になった。騎都尉の鮑信は、泰山の兵を集めて、戻った。

鮑信は、何進に命じられた。ちゃんと伏線が回収された!

鮑信は、袁紹に云った。
「董卓は強い。董卓には、異志がある。早く除かねば」
袁紹は董卓を畏れて、鮑信に応えない。鮑信は、泰山の兵を連れて、山東に帰った。

董卓は3000足らずだ。4、5日の夜ごとに兵を出し、くり返し洛陽に入城した。西から増援がきたように見せた。董卓は、何進と何苗の兵を吸収した。丁原の部曲をつとめる五原の呂布は、丁原を殺した。丁原の兵も、董卓が吸収した。董卓は、大いに盛んである。
雨が降らないから、司空の劉弘をやめ、董卓が司空に。
はじめ蔡邕は、光和元年に朔方へ飛ばされていたが、大赦でもどった。五原太守の王智は、王甫の弟である。蔡邕を誹謗したから、蔡邕は江海(揚州)に亡命した。12年後、董卓が蔡邕の名を聞いて、ムリに呼び寄せた。蔡邕は、侍中になった。

王甫は宦官。王智は、呂布の故郷の太守だから、丁原の上司か? 蔡邕もまた、董卓に仕えるのを渋ったのだね。


董卓は袁紹に云った。
「皇帝は、賢明でなければいけない。劉協を立てたい。劉協でなければ、劉氏の種は、途絶えるだろうね」
袁紹は、剣を引き寄せた。袁紹は、官位を捨てて、節を東門にかけて、冀州に逃げた。

189年9月:袁隗が、劉弁から璽をはがす

9月癸酉、董卓は伊尹と霍光をふまえ、皇帝の交代をはかった。尚書の盧植が反対した。董卓は盧植を殺せと云ったが、蔡邕と議郎の彭伯がとめた。盧植は免官された。
太傅の袁隗が、結論をだした。甲戌、董卓は崇徳前殿で、何太后をおどした。劉弁を弘農王とし、劉協を皇帝にした。袁隗は、劉弁の帝璽をとき、劉協にうつした。

袁隗が、劉弁から剥奪した? 出典はどこだろう?

何太后は、永楽宮にうつった。大赦し、昭寧をやめて、永漢と改元した。
丙子、董卓は何太后を毒殺した。公卿以下は、喪に服さず。何苗の棺をあばき、死体を切り、道にすてた。何苗の母、舞陽君を殺して、死体を庭にすてた。

公卿以下の子弟を、議郎にして、宦官の仕事をさせた。
乙酉、太尉の劉虞を大司馬とし、襄賁侯とした。董卓は太尉となり、前将軍をかねた。斧節をもち、ビ侯となった。
丙戌、太中太傅の楊彪を、司空とした。
甲午、豫州牧の黄琬を、司徒とした。董卓は、竇武と陳蕃をはじめ、党人の爵位を戻した。党人の子孫をもちいた。
6月から9月まで、雨が降らない。冬につづく。