表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

189年冬:反董卓包囲網のはじまり

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

189年10月:於夫羅がはじかれた

冬10月、乙巳、霊思皇后をほうむった。
白波賊が、河東郡をせめた。

『考異』がいう。匈奴は、霊帝が死んでから、叛乱した。のちに於夫羅が、白波とむすんだ。時期があやしい。

董卓は牛輔をやり、白波賊をうった。はじめ南単于の於夫羅は、匈奴の国人に父を殺された。須卜骨都が単于に立てられた。於夫羅は霊帝が死んだとき、数千騎をひきいて、白波賊とむすんだ。諸郡でぬすんだ。於夫羅は兵をもどしたが、匈奴の国人は、於夫羅を受け入れない。於夫羅は、河東郡の平陽にいた。

匈奴で窓際になった於夫羅が、のちに袁術と結びます。

1年して須卜が死んだ。匈奴の老王たちが、政治を代行した。

189年11月:董卓が相国になる

11月、董卓が相国に。蕭何と同じだ。
賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿。

189年12月:韓馥が袁紹に、挙兵をゆるす

12月戊戌、司徒の黄琬を太尉とした。司徒の楊彪を、司徒とした。光禄勲の荀爽を、司空にした。
はじめ尚書をつとめる武威の周ヒツと、城門校尉をつとめる汝南の伍瓊は、董卓に名士を招かせた。董卓は、尚書の鄭泰、長史の何顒らを招いた。荀爽、陳紀、韓融、申屠バンが召された。
荀爽は、平原相になった。宛陵にきて、光禄勲になった。3日で司空となった。荀爽は無官から、93日で司空になった。
陳紀は、五官中郎将になった。韓融は大鴻ロになった。陳紀は、陳寔の子である。韓融は、韓韶の子である。荀爽らは、みな董卓の暴をおそれ、着任してしまった。申屠バンだけは、笑って董卓を断った。申屠バンは、70余歳で寿命を終えた。

尚書の韓馥を、冀州牧にした。侍中の劉岱を、兗州刺史にした。陳留の孔チュウを、豫州刺史にした。東平の張邈を、陳留太守にした。潁川の張咨を、南陽太守にした。

孫堅に殺される南陽太守は、このとき任命された!

董卓は、子飼の部将を、せいぜい将校にしただけだ。

永漢をやめて、中平6年にもどした。
董卓は、性質が残忍だ。「オレの顔相は、この上なく貴い」と云った。侍御史の擾龍宗は、剣をおびて董卓にのぞんだ。このころ董卓は、洛陽で盗んだ財物であふれた。妻子を奪った。
袁紹がにげた。
周ヒツや伍瓊は、董卓に云った。
「皇帝の取り替えは、人臣ができないことです。袁紹は、ビビッて逃げただけ。他志はありません。袁紹は、4世三公です。門生故吏がおおい。もし袁紹と敵対すれば、山東は董卓さまの領土でなくなります。袁紹を郡太守にしてやれば、心配はなくなるでしょう」
董卓は袁紹を、渤海太守にした。
袁術を後将軍にした。曹操をギョウ騎校尉にした。
しかし袁術は董卓を畏れ、南陽に逃げた。曹操は姓名をかえ、中牟ににげた。中牟の亭長は、指名手配の曹操だと気づいたが、曹操を逃がした。曹操は陳留で、私財をはたいて5000を集めた。

袁紹は、渤海にいる。冀州牧の韓馥は、兵を動かさない。
東郡太守の橋瑁は、三公の命令だと偽り、董卓を討てと呼びかけた。使者は韓馥に「袁氏を助けるか、董氏を助けるか」二択を迫った。治中従事の劉子恵は、韓馥に云った。
「兵は凶事だ。軽々しく動いてはいけません。他の州郡の動きを見て、強いほうを助ければよい。冀州は強いから、存在感がデカい」

韓馥は「臆病」でなく、ズルく形勢を見ていたらしい。

韓馥は、劉子恵を入れた。韓馥は袁紹に、挙兵をゆるした。

韓馥は冀州牧で、袁紹は渤海太守。つまり韓馥が袁紹の上司なんだ。見落としそうな視点ですね。
『考異』がいう。袁紹が盟主になっても、韓馥は冀州の兵に、動くことを禁じた。兵糧だけを、袁紹に供給した。


190年につづきます。100513