02) 陳倉の包囲戦、史料集め
郝昭に関する『三国志』の史料を集めました。
諸葛亮の北伐、明帝紀より
(太和二年冬)十二月,諸葛亮圍陳倉,曹真遣將軍費曜等拒之。
太和二年(228年)12月、諸葛亮は、陳倉城を囲んだ。曹真は、将軍の費曜をおくって、諸葛亮を防がせた。
同年12月、ついに郝昭が登場するわけですが、、あまりに素っ気ない!
小説で「大軍、来!」の呼び声とともに登場し、主人公たちの命を助けてくれる援軍とは、費曜のことである。
この明帝紀についている裴注が、郝昭について、もっとも詳しい。
魏略曰:先是,使將軍郝昭築陳倉城;會亮至,圍昭,不能拔。
魏略がいう。郝昭に命じて、陳倉城を築かせた。
原文で「築」とある。新規に建設したのではないが、けっこう手直しが必要だったのでしょう。小説では、土木工事をがんばっていたが、時間が足りなかった。ちくま訳では「造築させた」となっている。
たまたま諸葛亮がきた。
しかし小説では、偶然ではない。魏側の作戦にまんまと引っかかり、諸葛亮が陳倉に来たことになる。わずかな弱兵を陳倉におき、陳倉をエサに、諸葛亮を釣ったとする。諸葛亮を殺すためだ。郝昭は、さしずめイケニエ。
ちくま訳は「會」を「おりしも」と訳してあった。
諸葛亮は、郝昭を囲んだ。陳倉城を抜けなかった。
□宇記がいう。陳倉には、上下に2城があった。2城は、連なった。上城は、秦の文公が築いた。下城は、このとき郝昭が築いた。後漢の興平2年、樊稠が韓遂を破り、陳倉にきた。この陳倉城とは、上城のことだ。
ぼくは思う。小説の切り札、二重の城壁は、これにヒントを得たのだろう。史料では、上下に連なるとあるが、小説では、入れ子の構造にした。城壁を突破した蜀軍が、もう1つの城壁を発見して、絶望する物語にした。
ここから、郝昭その人に関する、魏略の注釈です。
昭字伯道,太原人,為人雄壯,少入軍為部曲督,數有戰功,為雜號將軍,遂鎮守河西十餘年,民夷畏服。
郝昭は、あざなを伯道という。太原の人。雄壮で戦功があり、部曲督となった。
雑号将軍となった。
小説の作者は分かって書いただろうが、雑号将軍とは、将軍号の呼び名ではない。分類である。だから郝昭は「雑号将軍」という位には就いていない。しかし史料に、これ以上書いていないのだから、具体的な号は不明。雑号将軍と呼ぶしかない。苦しいなあ。
作中で「湯池将軍」と呼ばれるが、どうやら創作。郝昭に与えられた「雑号」が、「湯池」だという作者の妄想は、読んでいて楽しい。
黄河の西を、10年余り守った。
亮圍陳倉,使昭鄉人靳詳於城外遙說之,昭於樓上應詳曰:「魏家科法,卿所練也;我之為人,卿所知也。我受國恩多而門戶重,卿無可言者,但有必死耳。卿還謝諸葛,便可攻也。」詳以昭語告亮,亮又使詳重說昭,言人兵不敵,無為空自破滅。昭謂詳曰:「前言已定矣 。我識卿耳,箭不識也。」詳乃去。
諸葛亮が、同郷の靳詳をつかって、城外から郝昭を説得させた。
ぼくは以前、『晋書』の載記を訳しました。前趙の劉聡の外戚が、靳氏でした。作者が、前趙を踏まえているかは不明。
『晋書』載記の劉聡伝を訳し、胡漢融合の可能性を探る
郝昭は、答えた。
「魏朝の法律を、キミは知っているだろう。私の性格も、キミは知っているだろう。私は蜀に降らない。諸葛亮に伝えてこい」
もともと史料で郝昭が言った「魏家科法」って、中身はなに?
靳詳は、ふたたび郝昭に説いた。郝昭は、靳詳を射た。
「オレは、同郷のキミを知っている。だが、矢はキミを知らないぞ」
小説では「内通者」の章。陳倉城内に、蜀に通じた人がいた。内通者が諸葛亮に、城内の情報を漏らした。靳詳は、その情報を引っさげ、ふたたび郝昭を説得にきた。矢のくだりは、史料と同じだった。
亮自以有眾數萬,而昭兵才千餘人,又度東救未能便到,乃進兵攻昭,起雲梯沖車以臨城。昭於是以火箭逆射其雲梯,梯然,梯上人皆燒死。昭又以繩連石磨壓其沖車,沖車折。亮乃更為井闌百尺以射城中,以土丸填塹,欲直攀城,昭又於內築重牆。亮又為地突,欲踴出於城裏,昭又於城內穿地橫截之。晝夜相攻拒二十餘日,亮無計,救至,引退。
諸葛亮は数万で、郝昭は千余人だ。
魏朝の援軍は、まだ来ない。
攻城兵器で、諸葛亮は陳倉城を攻めた。郝昭は、城壁を2重にして、諸葛亮を防いだ。
ここに2重の城壁の話がある。すでにひいた『三国志集解』の記述、上下2つの城があったとは、現地調査を踏まえた注釈だろう。上下なのか、内外の2重構造なのか。ここ21世紀の日本からは、何とも言えない。笑
20日余りで、諸葛亮は撤退した。
章でいえば「落城」です。タイトルは、いかにも陳倉城が落ちたようだが、ちがう。諸葛亮の心の城が、落ちたのだ。城攻めを、物理的な争いから、心理的なガマン合戦に解釈しなおしたところが、この小説の特徴。
詔嘉昭善守,賜爵列侯。及還,帝引見慰勞之,顧謂中書令孫資曰:「卿鄉里乃有爾曹快人,為將灼如此,朕複何憂乎?」仍欲大用之。會病亡,遺令戒其子凱曰:「吾為將,知將不可為也。吾數發塚,取其木以為攻戰具,又知厚葬無益於死者也。汝必斂以時服。且人生有處所耳,死複何在耶?今去本墓遠,東西南北,在汝而已。」
曹叡は、郝昭をほめ、列侯とした。曹叡は、中書令の孫資に言った。
「孫資の同郷人には、いい軍人がいる。私は安心できる」
郝昭は病死した。郝凱に遺言した。
郝昭は病気となり、最後の戦場となる陳倉で、息子を初陣させた。こういう小説の設定は、妄想の産物である。笑
「お前は将軍になるな。私は墓を掘り、戦争につかった。厚く弔っても、死者の利益にはならない。墓を、掘り返されるだけだ。ここは故郷から遠いが、お前の好きな場所に、オレを埋めてくれ」
張郃伝から膨らむ、二重のイケニエ
この小説は、二重構造が好きです。陳倉の城壁は、内外で二重でした。読者が映像を見られないのをいいことに、郝昭がつくった内側の城壁を、作者は隠し続けました。
同じ二重構造が「陳倉の位置づけ」についても、語られる。
はじめ郝昭は、陳倉の外の繁陽亭という小さな村を、イケニエにして切り捨てた。しかしマクロに見れば、陳倉城そのものが、諸葛亮を釣り出すためのイケニエだった。張郃の精鋭を荊州に移して、わざと手薄にした、オトリだった。
作者が史料を読み、独自に推測した、魏朝の大戦略です。関連する史料・張郃伝も、チェックしておきましょう。
司馬宣王治水軍於荊州,欲順沔入江伐吳,詔郃督關中諸軍往受節度。至荊州,會冬水淺,大船不得行,乃還屯方城。諸葛亮複出,急攻陳倉,帝驛馬召郃到京都。帝自幸河南城,置酒送郃,遣南北軍士三萬及分遣武衛、虎賁使衛郃,因問郃曰:「遲將軍到,亮得無已得陳倉乎!」郃知亮縣軍無穀,不能久攻,對曰:「比臣未到,亮已走矣;屈指計亮糧不至十日。」郃晨夜進至南鄭,亮退。詔郃還京都,拜征西車騎將軍。
司馬懿は、荊州の水軍を率いる。荊州から、呉を攻めたい。張郃を、関中から荊州に移して、司馬懿にプラスした。だが川が浅いので、大きな船を動かせない。張郃は、荊州から方城に戻った。
張郃が、荊州で何もしなかったことから、作者が妄想した。
諸葛亮は、ふたたび出撃し、きびしく陳倉を攻めた。曹叡は、張郃を洛陽に召した。曹叡は、張郃に聞いた。
「張郃さんが遅れたら、諸葛亮は陳倉を得てしまうのでは?」
張郃は、曹叡に答えた。
「いいえ。私が着くより前に、諸葛亮は敗走しているでしょう。諸葛亮は、10日分も、兵糧を持っておりません」
張郃の言うとおり、諸葛亮は撤退した。
「蜀志」で見る、陳倉の戦い
後主伝がいう。
(建興六年)冬,複出散關,圍陳倉,糧盡退。魏將王雙率軍追亮,亮與戰,破之,斬雙,還漢中。
228年冬、諸葛亮は、ふたたび散関から出て、陳倉を囲んだ。兵糧が尽きて、退いた。魏将の王双が、追撃した。諸葛亮は、王双を斬った。諸葛亮は、漢中に戻った。
小説で王双は、前半でさんざん主人公を不快にさせた。しかし死ぬ場面は、回想シーンで出てくるだけだ。王双の死は、魏側の史料にない話だ。主人公にすれば、伝聞なんだ。
諸葛亮伝でも、見ておきましょう。
冬,亮複出散關,圍陳倉,曹真拒之,亮糧盡而還。魏將王雙率騎追亮,亮與戰,破之,斬雙。
魏の大将が曹真だと書かれるだけで、内容は後主伝と同じだ。
おわりに
当たり前ですが「史料と違うから、ダメだ」ではない。
むしろ、どうやって史料のスキマを補い、妄想を組み立てるのか、お手本にしたいと思ったから、このページを造りました。
今さらですが、河原谷創次郎『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を未読の方は、いちど見てみてください。楽しめます。100606