表紙 > 読書録 > 『三国志の出身地でわかる法則』要約と感想

01) 司隷、豫冀兗州

黄巾イレギュラーズ編『三国志の出身地でわかる法則』
光栄が95年にだした本です。
ふざけているかと思いきや、ぼくは良書だと思います。史料を熟読しているだけじゃ、気づけない切り口を、拾えたりします。
あとから読み返すため、要約し、感想をグレイの枠に書きます。

【煮ても焼いても食えない、司隷の人々】

西は乱暴者、東はズル賢い

おなじ司隷でも、長安と洛陽は、文武の両極。長安は西方につながり、咸陽にちかい。素朴な文化を継承する。長安は、人口が多くない。前漢は国家権力をつかい、強制的に山東の人を移住させた。

董卓さんが長安に遷都するときも、関中へ強制移住させた。董卓は、前漢に倣ったのか? 前漢の政策の裏づけを、ぼくは取っていないが。

対する洛陽は、商業と文化が発展した。後漢は、軍事よりも経済に重点をおいて、洛陽に都した。董卓は、軍事を再評価し、長安に戻した。

故郷を捨てた人は、劉備の仲間

法正、孟光、郤正、関羽、馬超は、戦乱で故郷を去った。故郷への土着性がうすい。故郷を離れると、地縁と血縁をうしなう。圧倒的に、仕官に不利である。
挽回するため、どうするか。自分とおなじく故郷を離れた主人に仕え、地縁のなさを克服する。主人と擬似的な血縁関係をむすび、血縁のなさを克服する。彼らは、劉備に仕えた。

劉備政権がもつ「その他の人々」という側面を、吟味したい。


商魂たくましい人は、故郷に残った

司馬氏、賈氏、揚氏は、故郷にのこった。後漢から、荘園経済で既得権をたくわえた豪族だ。中央に進出し、地縁と血縁が保障されるなら、皇帝の姓はなんでもいい。ギマン的な禅譲劇が成功した理由だ。

漢魏晋は、皇帝の氏が違えど、母体は共通だと。これを証明するためには、どんな情報を集めればいいのだろうか。

自分だけ利益を得るのが、都会人の習性だ。司馬氏は、魏の屯田の収入をネコババし、晋の建国とともに屯田を廃止した。
もともと屯田を提唱した韓浩も、司隷出身だ。商才がたくましい。

儒教精神と商人根性

学者がおおい。馬融、杜預、孟光、郤正ら。
筋を通した義士がおおい。楊彪、金瑋は、後漢に殉じた。毋丘倹は、魏に殉じた。徐晃は、同郷の関羽を攻める苦しさから「国家のことだ」と言い訳した。
ぎゃくに学問や義理を捨て、利得に走った人もいる。司馬氏は、同郷の毋丘倹を殺した。賈充は、司馬氏に味方した。


【天下国家を論じる、豫州の人々】

最新トレンドの発信者

夏王朝は潁川郡から起きた。だが豫州は、まとまりに欠ける。春秋戦国より、分裂してきた。宋と楚、陳と蔡、魏が入り乱れた。今日も4つの省に分かれている。
曹操が196年に献帝を迎えてから、豫州は急速に安定。淮南の三叛まで、武力衝突の舞台にならない。

天下取りに欠かせない、有能な人材

後漢のとき、豫州は政治家を生まない。許慎だけ。
反転して後漢末、汝南の陳蕃、潁川の李膺・杜密・陳寔がでた。南陽の何顒が潜伏し、曹操・袁紹・荀彧を評した。荀彧は、郷論で人材を推薦。袁術は、陳国の何夔や袁カンを招いた。

『資治通鑑』を読んだとき、袁術がらみで、「魏志」何夔伝を読もうと思ったのに、未着手。いかんなあ。

官渡のとき、袁紹が劉備をつかい、豫州をおびやかした。袁氏ゆかりが、豫州におおい。曹操は、何夔や陳羣を県令として、鎮撫した。

袁紹は、郭図らを用いた。郭図らは、豫州に帰りたがり、派閥抗争をつくった。袁紹の敗因は、故郷からはなれた冀州を本拠にしたことだ。

石井仁氏の指摘「袁紹は光武帝をマネた」の印象がつよすぎ、袁紹は自ら選びとって、冀州に行ったと考えてしまう。だが当初は、苦肉の策だったはずだ。故郷のそばが有利に決まっている。
袁紹の「仕方なく冀州へ」という部分に、焦点をあてたい。



【自己の信念を曲げない、冀州の人々】

黄巾賊と袁紹の本拠地

『漢書』地理志では、田畑の質が中の中だが、税金は上の上だった。豊かだった。戸数は少ないが、一家の人数が多かった。袁紹が根拠地に欲しがった理由だ。
黄巾の主戦場は、信都、鉅鹿、甘陵。いずれも冀州。下曲、広宗、東光も、冀州にちかい。
太行山脈は、張燕の地。張燕は、黄巾も袁紹も寄せ付けなかった。袁紹が張燕に対抗できたのは、呂布を手に入れたときだけ。

沮授と田豊の直言癖

沮授と田豊は、曹操を過小評価せず、袁紹に直言した。どちらも融通がきかない。
崔林は、幽州刺史となり、現地の権力者・北中郎将の呉質と衝突した。左遷された。従兄の崔琰は、二袁のどちらにも味方せず、投獄された。曹操の怒りを買って、死を賜った。
「徳行高く、清廉潔白」という集団が、冀州にいる。張泰は、大鴻臚になった。ケイ顒、張センも、袁紹や曹操にしたがわず。

頑固は、冀州だけの特徴なんだろうか。他者の手を借りなくても、自立できるだけの国力が、プライドを生むのだろうか。
冀州系の人士は、袁紹軍の中核だ。袁紹をついだ曹操軍でも、横滑りして、中核となった? 中核だから、偉そうなのか?


趙雲も冀州気質の持ち主

趙雲は、夷陵にいく劉備を諌めた。張郃は、曹操をあなどるなと袁紹に云った。おもねりやウソがない人材だ。

趙雲と張郃を、沮授や田豊に並べたのは、すごい。話が膨らみそう。

武術派は冀州の北にかたまる。ほぼ袁紹に従った。だが趙雲だけは「消去法により、公孫瓚さんにお仕えします」と云った。趙雲も冀州人だ。お世辞を言わない人だ。
耿武は韓馥に、冀州の国力をアピールし、降伏を止めた。沮授と田豊は、袁紹に南征をいさめた。袁紹は、冀州を兵站とだけ見なし、人の特性を見誤ったから、負けた。
徐州を攻めた孫権、荊州を攻めた劉備、涼州を攻めた姜維のように、故郷に帰るための戦役は、すべて失敗した。冀州を離れず、外征に慎重だった冀州人は、手堅かった。

「臣下の帰郷戦争」は、成功しない。たしかに、言われてみれば!
こんなことを言ったら、元も子もないが。あんな広い大陸が、統一されることのほうが、不自然なんだ。故郷に籠もり、小さくまとまって独立していれば、安全なのに。「故郷に帰りたい」という原動力をもとに、三国の合戦を整理したら、面白いかも。



【覇道を突き進むダークな兗州人】

曹操と結びつく法家の精神

『三国志』に列伝のある80%が、曹操に仕えた。衛ジ、鮑信、陳宮、程昱、毛カイ、高柔、董昭は、二流の曹操を、英雄と見なした。豫州出身の曹操に、兗州の人が結びついたのは、なぜか。
190年に董卓を攻めた山東諸侯は、半数が兗州の関係者だ。だが、5年のうちに全滅した。東郡太守の橋瑁、兗州刺史の劉岱、泰山出身の鮑信、山陽太守の袁遺、陳留郡の孔チュウ、東平国の張邈と張超ら。
山陽郡の劉表だけは生き延びたが、兗州人では、伊籍ぐらいしか劉表に従わず。

兗州が反董卓の主力。190年代前半に全滅。ふたつの属性を、ぼくは「兗州」という枠で捉えていなかった。

戦乱で荒廃した兗州は、法家の気質になった。強情で社交性に欠けた。満寵、于禁、陳宮、臧覇の父、高柔、王観、鮑勛、毛カイは、いずれも厳格に法を執行しようとした。

カゲのうすい于禁と典韋

「魏志」第17は、魏の五虎将軍のような列伝。兗州の楽進と于禁は、ほか3人(張遼、徐晃、張郃)に比べると華がない。兗州の典韋も、ひとりだけ爵位やおくり名がない。
兗州の人は、扱いがわるい。列伝の掲載順では、毛カイがトップだが、カゲがうすい。兗州の程昱は、荀彧の指揮にもとづき、東阿を守っただけ。官渡のとき、程昱は見捨てられた。
カゲがうすい理由は、豫州人脈が台頭したからだ。

はじめの根拠地の現地人vs天下に名声ある豫州の人材。この曹操軍の対立構図は、袁紹と同じである。袁紹は、冀州を人を妨げて、転んだ。曹操は、兗州人を押さえ込むことに成功した。
袁紹伝にみえる派閥対立は、曹操の下でもあったかも? 曹操の下で起きたケンカを、投影したものかも?


陳宮と董昭の陰謀

兗州人は、他州の人間と仲良くしない。李典と楽進は、張遼と仲がわるい。満寵は、荀彧と孔融をきらった。兗州人の巻き返しが、陳宮の叛乱と、董昭の陰謀だ。
陳宮は、曹操のために兗州を平定したのに、豫州の荀彧の風下に置かれた。嫉妬したから、曹操に背いた。
曹操を魏公にしたのは、董昭だ。荀彧を、寿春につれ出し、殺すことに加わったか。曹操を魏公に任命したチ慮も、怪しい。許都(豫州)の献帝から、権力を奪うことに、兗州人が暗躍したか。

ちょっと無理やりかな。でも、董昭vs荀彧というのは、面白い。


つぎは、お待ちかね?の徐州です。