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02) 徐青荊揚州

黄巾イレギュラーズ編『三国志の出身地でわかる法則』
光栄が95年にだした本です。
ふざけているかと思いきや、ぼくは良書だと思います。史料を熟読しているだけじゃ、気づけない切り口を、拾えたりします。
あとから読み返すため、要約し、感想をグレイの枠に書きます。

【三国に散った、頭脳明晰な徐州人】

諸葛亮をそだてた斉の文化

徐州は、4つに分けられる。①琅邪と東カン、②東海と下邳、③彭城、④臨淮と広陵だ。
人材で重要なのは、諸葛氏が出た①琅邪。琅邪は、斉の文化圏。呉の徐盛も琅邪だ。

袁術の下に、琅邪の人が多いことを、忘れてはいけない。

琅邪は、徐福の伝説がある。于吉も出た。諸葛亮が、神仙みたいな活躍をするのは、琅邪出身だからだ。
東晋の丞相・王導も、琅邪出身である。3世紀から6世紀の漢人社会は、琅邪郡の人が握っていた。

陳登の故郷は、魯=徐州の中心地

②東海と下邳は、魯の文化圏。ケチで人を陥れる。『漢書』地理志によれば、前漢には、東海の宰相がおおい。
麋竺は、ケチで蓄財し、劉備を助けた。劉虞や王朗は、三公である。前漢以来の、宰相を生む気風にかなう人。
下邳の陳珪&陳登の父子、従兄の陳瑀は、徐州南部の実力者。孫策と呂布と、勢力を三分した。

袁術は無視されてしまうのであります。

東海と下邳は、呉に人材を輩出していない。後漢の治所は、東海の郯県だった。劉備と呂布は、下邳に根拠を置いた。徐州の中心は、東海と下邳にあったことが分かる。

「孫呉で徐州人は一大勢力」と云いつつ、徐州すべてが、孫呉に流入したのではない。注意が必要ですね。


彭城の偏狭な人、張昭

③彭城は、項羽が首都にした。宋の文化圏に属す。のちに楚に併合された。『漢書』地理志で、彭城の人は、偏狭で身勝手とされる。張昭が典型例である。

孫呉を支えた、魯粛と張郃

④臨淮と広陵は、淮水の南だ。広陵は、呉楚七国の乱で、呉王の劉ビが、首都にした。淮陰は、韓信の出身地。
魯粛の出身地・東城は、項羽が虞氏と別れて、奮戦したところ。魯粛は、子守唄代わりに、項羽の最期を聞いたか。
臨淮から魯粛と歩隲がでた。広陵から、張紘と呂岱や、秦松と陳表がでた。いずれも曹操の虐殺を逃れた。

孫策を蹴って、広陵に帰った変わり者もいる。陳矯と徐宣だ。広陵太守の陳登に仕え、孫策を防いだ。曹操の下で出世した。だが、2人の仲は悪かった。

陳矯と徐宣は、完全にノーマーク。やらねば!


孫呉政権における徐州閥

上記4つの区分を越え、仲がよかった。諸葛瑾、厳畯、歩隲、魯粛は友人である。これら親交の中心に、諸葛瑾がいる。諸葛亮以上に、徳があったのかも知れない。
魯粛の後任は、厳畯。歩隲の後任は、おなじ広陵の呂岱。徐州閥が、官位をたらい回しにした。中国は、言語・風俗・習慣・食物・文化が、地域で異なる。同一地方出身者で固まるのは、無理がない。
呂蒙は、豫州出身だ。徐州閥に圧迫され、孫権が徐州を攻めようとすると、呂蒙は反対した。

のちに南朝では、淮水を国境としたが、徐州あたりだけ北に、国土が突出した。南朝のように水運を使えば、孫呉が徐州を兼ねることは、可能だったか。

おもしろい指摘です。徐州を攻めるか、荊州を攻めるか。おそらく、どちらも同様に難しく、同様に成功しやすかったのだろう。荊州には劉備がいるから、徐州を攻める話が目立たないが。

徐州では、曹操への叛乱が記録されない。記録から省かれただけか。徐州には人が残っていなかったか。謎のままだ。


【戦乱を傍観する、道徳的な青州人】

鄭玄をはじめ、学問が好きな土地柄

東=青龍、というわけで青州という。海路で幽州につながる。かつて山東半島の一部は、幽州だった。邴原、管寧、王烈は、海路で遼東に逃げた。
かつて斉の文化圏。「稷下の学」をはぐくんだ。鄭玄、孫乾、邴原、国淵、豫州刺史の王基、華歆、王脩、太史慈。「魏志」第11は、8人中4人が、青州出身。

「学問をした」という側面を強調しているが。筋金入りの学者は少数だよね。孫乾とか太史慈とか、たしかに学歴はあるが、十人並みだ。


英雄的人材は、太史慈のみ

劉岱と劉繇は小粒。世渡り上手は華歆。孫呉に仕えた青州人は、太史慈、是儀、滕胤がいる。劉繇を頼って揚州にきて、孫権に合流した。
太史慈は、孔融や劉備でなく、劉繇に仕えたのは、同郷人だから。


【数で勝負する小粒な荊州人】

三国志中盤以降の舞台

関羽の死んだ後も、江陵(南郡)や西陵(南郡)で、魏呉の戦闘があった。水運で呉蜀につらなる地だから。なお南陽郡だけは、ずっと魏に帰属した。
長江以北は帝王の資本、以南な旧楚の野蛮な地。

荊州を長江で2つに切る、というは、重要な発想。

南陽郡、南郡、江夏郡からは、智謀の人が。武陵、長沙、桂陽、零陵からは武人が多くでている。

魏延と楊儀の激情

楚人は、剽悍で激しやすい。長沙の劉封は警戒された。義陽の鄧芝は驕慢だった。義陽の魏延と、襄陽の楊儀は、激情で対立した。『演義』黄忠は、老骨をからかわれて怒るが、いかにも楚人らしい。
荊州人士のうち、呉に仕えた人は少ない。黄蓋と、武陵の潘濬のみ。潘濬は蜀からの投降者だ。呉が世襲制をとり、外から人を受け入れる余地がなかったから。

そうなのか? そうなのか?



【私益をまもる、したたかな揚州人】

長江の南北でおおちがい

長江の北は、九江と廬江。早くから拓けた。
九江の寿春は、戦国の楚が都し、前漢の淮南国も首都とした。『淮南子』が作られた。九江の合肥は、呉が抜くことができなかった。
廬江は、周瑜の故郷。廬江の濡須口は、魏が抜くことができなかった。廬江は、魏呉で分割された。魏は六安、呉は皖県に治所をおいた。六安は、鯨布が首都をおいたところ。
長江の南は、銅山と海塩がとれる。呉郡と会稽郡はライバル。丹楊と豫章はフロンティア。

周瑜ら、長江の北の人たち

長江の北は、魏に劉曄、蒋済、蒋幹、胡質をだした。呉に周瑜、蒋欽、周泰をだした。陳武と丁奉も、廬江出身。末期の王蕃も廬江。
周瑜の子孫は、冷遇された。長江の北の人は、孫呉では派閥を築けなかった。

顧雍、陸遜ら、呉を支えた江南人

『世説新語』はいう。張は文、朱は武、陸は忠、顧は篤厚。
同じ『世説新語』は、会稽出身で呉郡太守の賀邵のセリフを載せる。会稽の鶏(賀邵)が啼けば、呉児(呉の豪族)を殺しかねないよと。
東晋になっても、呉の四姓の子孫は健在だった。

つぎは益州や涼州です。辺境に移ってきました。