03) 益涼并幽交州
黄巾イレギュラーズ編『三国志の出身地でわかる法則』
光栄が95年にだした本です。
ふざけているかと思いきや、ぼくは良書だと思います。史料を熟読しているだけじゃ、気づけない切り口を、拾えたりします。
あとから読み返すため、要約し、感想をグレイの枠に書きます。
【蜀を支えきれない三流の益州人】
剣閣にまもられた天賦の地
地理的に小康。だから後漢末、三輔(長安周辺)や南陽(荊州北部)から、数万戸が流入した。江夏の李厳、王連、費観や、南郡の董和が流入した。
曹操が漢中を占拠したとき、黄権は言った。
「漢中を失えば、巴郡の力が弱まる。蜀の手足をもぎ取るに等しい」
もともと劉焉と劉璋政権は、東州兵の武力で支えられた。荊州の人士をつかった。梓潼の李権を殺すなど、益州の豪族を圧迫した。益州に根づいていなかった。
出世のできない三流の人々
目ぼしいのは、巴郡の甘寧と、蜀郡の張松だけ。内向きの土地だから、有能な人が出なかった。劉備政権で、益州人の地位が低いのは、諸葛亮が身内で囲んだからだけではない。
ほかは学者や、異民族の統治に関わった人がバラバラと。
益州には、ろくな人物がいなかったというのは、どうも納得がいきません。おそらく、蜀漢の出身地ごとの派閥を証拠に、反論すべきだろう。論文が多かろう。また後日。
【中華思想に文句をつける、涼州人】
フィクサー韓遂と、八百長の董卓
185年、辺章と韓遂が叛乱した。銅臭がする司徒の崔烈は、涼州の放棄を主張した。討伐軍は、董卓をのぞき、全滅させられた。
董卓は幼帝の代わりに政治をした。後漢では、よくあることだ。董卓の非は、外戚でなかったという一点のみ。董卓が権力を持てたのは、涼州の叛乱を鎮めたから。韓遂と董卓は、とも羌族につながるから、交友が重なっていた。八百長したのではないか。
涼州人は、他州と折り合いがわるい。董卓、姜維、賈詡は孤立した。西域に違和感をもつ、中原の人の偏見=中華思想のせいではなかったか。
【中原をみだすカントリーな并州人】
優秀なスカウトマン丁原
呂布と張遼は、騎馬戦の鉄人だった。
丁原がスカウトしたのが、呂布と張遼と張楊である。列伝があるのは3人だが、スカウトした人はもっと多かったはずだ。丁原は人材を中央におくり、官位につける親心があった。
排他的な并州軍団
呂布は、涼州の人がおおい董卓政権で、居心地が悪かった。華雄が負けたのも、呂布のサボタージュが原因だ。王允と呂布は、クーデターを起こした。
并州の悪だくみは、魏でもある。王允の甥・王淩と、五原の令孤愚は、司馬氏に反旗した。并州人は、信頼できる同郷人を誘って、作戦を練るのが好きである。
丁原は、執金吾でありながら、并州兵を率いた。丁原の死後、呂布が并州兵をついだ。并州人で、名前が分かっているのは、
張遼と五原の李粛、秦宜禄だけだが、他にもいただろう。魏続は呂布と縁続きだから、同郷か。
河内兵が、呂布軍にいた。丁原は騎都尉のとき、河内に駐屯した。張楊も河内太守。張楊は呂布に、河内兵を補充しただろう。郝萌と曹性が河内兵を率いた。呂布軍に叛いた。并州兵と、うまくいかなかったか。
郝萌が叛いたとき、首謀者は陳宮。陳宮が異郷人だから、呂布軍で居心地が悪かったか。
涼州や并州などの辺境になると、州のなかを分割して論じるまでもないのですね。人間の同郷意識って、いいかげんなものだなあ。
【義兄弟の誓いでむすばれた、幽州人】
呂布に辺境よばわりされた
北京が首都になったのは、元朝。隋の煬帝が運河をつくり、江南から物資を運べるようになった。それまでは、輸送困難な貧しい土地だった。
烏丸を移住させたから、漢人の役人との衝突が絶えない。半分は外国みたいな土地。冀州や青州から、税収を援助してもらった。
ただし幽州西部は、河北では戦略上の要地。光武帝は、上谷と漁陽を得たから、天下をとれた。名馬の産地で、匈奴と貿易でき、塩鉄をだす。公孫瓚がおさえた。易京は、洛陽に進出するため、冀州にくいこんだ拠点だったが。
快男子の張飛をうんだ、義侠の風
「趙燕悲歌の士」とよばれる任侠をだした。戦国の刺客・荊カは、燕の太子・丹に命じられて、始皇帝をねらった。燕人で、荊カの友人・田光も、始皇帝をねらった。
義兄弟は、劉備と張飛だけでない。公孫瓚は、占い師や商人と契った。韓当の子・韓ソウは、呉に叛くときに血をすすった。
幽州人のキャラは、張飛の武&酒に投影された。
徐栄は、呂布より剽悍だった。魏の孫礼は、文官のくせに、曹叡の車に近づく虎を斬ろうとした。簡雍は劉備に、禁酒令をいさめた。徐邈は、曹操の禁令を破って、酒を飲んだ。盧植は、1斗酒を飲んだ。
幽州人らしからぬ劉備
劉備は、幽州の同郷意識にこだわらなかった。
陳登は劉備を、陳紀、華歆、孔融と同列にあつかった。黄権は、劉備に家族を殺されたと聞いても、デマだと看破した。
劉備の祖先は、中山王だ。中山は、殷の子孫がのこり、商人らしい性格をもつ。辺境出身者は、攻勢につよいが、守勢はよわい。董卓、呂布、公孫瓚は、本拠に籠もって自滅した。だが劉備だけは、臨機応変である。商人の性格ゆえか。
【世界の果てを支配する、交州人】
隠居に最適な、ウルトラ辺境
交州は、『演義』の舞台にならない。
辺境だから、中央の争乱から逃れられる。劉焉は交州牧をのぞんだ。許靖、劉巴、薛綜は、交州に疎開した。劉備は魯粛に、蒼梧太守を頼るつもりだと話した。
のちに孫呉の流刑地となった。虞翻が流された。
現在の中国領とベトナム領に分かれる。南海、蒼梧、鬱林、合浦は中国領。交趾、九真、日南はベトナム。ベトナムのほうが、叛乱がおおい。40-43年、徴側・徴弐姉妹が叛乱した。馬援が平定した。192年、日南でチャンパが独立した。162年、ローマの使者が到着した。中心地は、交趾の竜編(ハノイ)だ。
士燮一族の繁栄
士燮は、王莽のときに疎開した漢人の子孫。226年に90歳で死ぬまで、40年間も交趾太守をした。孫権とむすび、益州のヨウガイを寝返らせた。
おわりに
後半は、本をまとめるだけになりましたが、、
徐州を淮水で分割する話、荊州と揚州を長江で分割する話が面白かった。水の影響はでかい。ぎゃくに、冀州のように広い州でも、陸路で結ばれていれば、同郷人としての意識は途切れない。
それから、中原に近ければ細かく分類し、中原から遠ざかれば大雑把になるのも面白い。たとえば前者では、潁川と汝南が対立する。後者では、呂布が并州すら、幽州をまとめてしまう。この本によれば、呂布は排他的な郷土意識の持ち主である。その呂布をして、「幽州人は仲間」と言わせてしまう。辺境の団結力は、すごいなあ。
すべての感情に「理由」や「目的」を設定するのは、強引です。しかし、この本を読んでいると、みな官界や乱世を、有利に渡りきるために、郷土意識を形成したような気がしてきました。100707