表紙 > 人物伝 > 孫策の家族を拉致し、袁術を裏切らせようとした朱治伝

02) 孫策の家族を人質にする

「呉志」巻11より、朱治をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

巻11は、朱治、朱然、呂範、朱桓です。孫氏の創業を支えた人たちの1つ。このうち、190年代に記述があるのは、朱治と呂範だけです。


袁術を見捨て、長安の朝廷とつながる

會堅薨,治扶翼策,依就袁術。

孫堅が死ぬと、朱治は孫策をたすけた。袁術をたよった。

徐州の出兵の意図は、やはり袁術のためだった。それが、裏づけられたと思う。孫堅が死んで、朱治は陶謙に仕えていない。


後知術政德不立,乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春,辟治為掾,遷吳郡都尉。

のちに朱治は、袁術が政徳を立てられないと知った。朱治は孫策に、江東にもどり、故郷のあたりを平定するよう勧めた。

袁術の根拠地・寿春は、長江の西北。呉郡や丹楊郡は、長江の東南。
孫策は、ただちに朱治に従っていないことに注意。

ときに太傅の馬日磾は、寿春にいた。馬日磾は、朱治を太傅の掾とした。朱治を、呉郡都尉とした。

馬日磾は、長安政権のさしがね。袁術のつくった人事配置を、わざと壊すようなことをしてくる。


是時吳景已在丹楊,而策為術攻廬江,於是劉繇恐為袁、孫所並,遂構嫌隙。

このとき、呉景が丹楊にいた。

丹楊において: 袁術の呉景 vs 劉協の朱治

しかも孫策は、袁術のために廬江を攻めた。

なにが「しかも」か。劉協-馬日磾-劉繇-朱治のラインから見て、呉景と孫策は、どちらもジャマなのだ。つまり、朱治が孫策を長安側に抱きこもうとしたのに、孫策が云うことを聞かなかったことが分かる。

ここにおいて劉繇は、袁術と孫策に、併呑されてしまうことを恐れた。劉繇ら長安側は、袁術と対立するようになった。

劉繇と袁術、どちらが先に手を出したのか、分かりにくい。はじめ呉景たちは、劉繇を「迎」えたのだから。
ぼくは、劉繇ら長安側が、先に手を出したと思う。
呉景は、丹楊に「いるだけ」で憎まれた。孫策は(長安側ではない)廬江の陸康を攻めて、「強いだけ」で憎まれた。劉繇ら長安側が、かってに妄想して、袁術に敵意をいだいたようだ。


孫策の家族を人質に、劉繇への寝返りをすすめる

而策家門盡在州下,治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟,所以供奉輔護,甚有恩紀。

孫策の家門は、すべて袁術の寿春にいる。朱治は人を寿春にやった。孫策の母・呉氏や、孫権ら兄弟を、劉繇の曲阿に移動させた。孫策の家族を、朱治は大切に保護した。

「州下」を、ちくまは、劉繇の曲阿とする。ちがう。朱治は呉景と孫策の家族を、寿春からラチして、曲阿に移したのだ。
「呉景と孫策よ。お前の家族は、人質にとった。袁術でなく、劉繇に味方しろ。ほら家族は、幸せそうに曲阿で暮らしているぞ」と。
ちくまだと「孫策の家族を、曲阿から移して保護した」となる。朱治は劉繇を支持しているのに、なんでわざわざ、孫策の家族を、ほかに移すものか。あ、でも『集解』も「州下」を曲阿にしてる。いまだに、正統の議論をしなきゃ、ならんのか。笑
「正統な揚州刺史は、袁術でなく劉繇。揚州の州治は、もともと寿春だった。だがいま、仮にでも劉繇がいる曲阿こそ、州治なのだ。州下=寿春と読むなんて、逆賊にくみする、やり方だ」とかね。
どちらの意味にも取れる語順で書いた、陳寿が悪いのだが。


治從錢唐欲進到吳,吳郡太守許貢拒之於由拳,治與戰,大破之。

朱治は銭唐から、呉郡に進もうとした。

分かりにくいが、前行とのあいだで、劉繇が曲阿から、孫策に追い出されている。せっかく朱治が人質とした、孫策の家族は、曲阿をでて阜陵に移った。馬日磾も、お亡くなりになった。
朱治の移動は、劉繇をあきらめ、袁術&孫策に従ったものか。

呉郡太守の許貢は、朱治を拒んだ。朱治と許貢は、由拳で戦った。朱治は、おおいに許貢を破った。

許貢を呉郡太守にしたのは、劉繇? 曹操?


貢南就山賊嚴白虎,治遂入郡,領太守事。策既走劉繇,東定會稽。

許貢は南へゆき、山賊の厳白虎をたよった。
朱治は、呉郡に入った。呉郡太守の仕事をした。

『集解』が云う。呉郡を平定したのは、朱治の功績である。のちに孫策は、許貢の食客に殺された。カタキ討ちの火種を作ってしまった。
ぼくは思う。朱治-孫策が、一蓮托生だと呉郡で思われていたんだね。朱治は「袁術を捨て、劉繇に従え」と云った。孫策は、従わなかった。だがいま、和解している。朱治が、袁術にもどった証拠だ。

孫策は、すでに劉繇を追い出し、東へ会稽を平定した。

朱治は、孫策と連携している。ぼくは孫策の会稽平定は、袁術に手柄を認めてもらうための、単独行動だと思う。
その孫策の背後を固めている朱治は、袁術の呉郡太守に等しい。朱治は、袁術がキライだ。気持ち的には「孫策の臣」だが、自分で太守になれない孫策が、朱治に太守の仕事を任せる権限はない。
のち202年に孫権が上表し、朱治を呉郡太守とする。つまり孫権が上表するまで、朱治は、正式な呉郡太守であってはならない。ただしこれは「呉志」の都合だ。おそらく袁術の名で、呉郡太守の称号をもらっていただろう。名のってもいたはず。対抗馬がいないのに「領太守事」で留まるのは、不自然だ。政治をやりにくい。
劉繇を追い出した前後関係が分かりにくい。「既」は、範囲が広いからなあ。漢文で困らされることの1つ。


權年十五,治舉為孝廉。後策薨,治與張昭等共尊奉權。

孫権が15歳のとき、朱治が孝廉にあげた。

盧弼がいう。孫権は、呉郡の富春県の人だ。ゆえに朱治は、呉郡から孝廉にあげたのだ。

のちに孫策が死んだ。朱治と張昭は、ともに孫権を君主とした。

盧弼がいう。朱治は呉郡、孫策は会稽を治めていた。朱治と孫策は、対等の立場だ。だが朱治は、孫堅と孫策にしたがい、長年戦ってきた。だから孫権を立てたのだ。
これ以降、むかしやりました。 孫権が絶対服従のオヤジ殿、朱治伝
マッキントッシュ、ファイアフォックスだと、改行されないらしいです。ごめんなさい。ぼちぼち直します。


袁術を嫌った朱治は、孫権の独立に協力するのでした。袁術以外の君主なら、だいたい誰でも良かったようであり。
劉繇がコケたとき、どれだけショックを受け、どれだけ気まずかったか。孫策に、わざわざ会稽を遠征させたのは、朱治だったかも知れない。袁術と会いたくないから、とか、それだけの理由で。100528