02) 部下は1人、孫策と組討
「呉志」巻6より、太史慈をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
劉備をだまして、援軍を引きだす
遂到平原,說備曰:「慈,東萊之鄙人也,與孔北海親非骨肉,比非鄉黨,特以名志相好,有分災共患之義。今管亥暴亂,北海被圍,孤窮無援,危在旦夕。以君有仁義之名,能救人之急,故北海區區,延頸恃仰,使慈冒白刃,突重圍,從萬死之中自讬於君,惟君所以存之。」
太史慈は、平原に到った。劉備に説いた。
「孔融さんは、私と同郷でないのに、仲良くしてくれた。いま黄巾に包囲された。今にも負けそうだ。劉備さんは、仁義があると有名だ。孔融さんを救ってくれ。劉備さんにしか、頼めないことだ」
備斂容答曰:「孔北海知世間有劉備邪!」即遣精兵三千人隨慈。賊聞兵至,解圍散走。融既得濟,益奇貴慈,曰:「卿吾之少友也。」事畢,還啟其母,母曰:「我喜汝有以報孔北海也。」
劉備は、顔つきを変えた。
「孔融さんが、世のなかに劉備がいると、ご存知だったか!」
公孫瓚が、青州に影響をキープするために、傭兵を貸し出しているに過ぎない。孔融は、それを分かっている。太史慈も、おそらく分かっている。
劉備は精兵3000を、太史慈につけた。
ぼくは思う。黄巾賊でなく、歴史書の読者を驚かすためだ。笑
黄巾賊は、囲みをといた。孔融は助かったので、ますます太史慈を貴んだ。孔融は太史慈を「歳の若い友人」と呼んだ。
でも今回の太史慈は、孔融の命を救った。これは事実。孔融は、太史慈の人柄は嫌っても、そりゃ「友」というでしょうよ。
太史慈は、母に報告した。母は、孔融への恩返しを喜んだ。
ぼくは思う。史書にある内容を否定しなくても、太史慈が名士の振る舞いをしていないと、説明できたと思います。大局の中を、個人的な武勇に頼ってフラフラして、たまたま名が売れてしまっただけ。
劉繇が太史慈を斥候にしたのは、適材適所だ
揚州刺史劉繇與慈同郡,慈自遼東還,未與相見,暫渡江到曲阿見繇,未去,會孫策至。
揚州刺史の劉繇は、太史慈と同郡の出身だ。太史慈が遼東からもどっても、太史慈と会わなかった。
劉繇は194年に揚州に行く。同郡内にいて、劉繇が太史慈を無視したのは、193年ごろかな。孔融のエピソードと、時間があう。
太史慈は、長江を渡って、曲阿で劉繇に会った。
まだ劉繇と会う前に、孫策が劉繇を攻めた。
或勸繇可以慈為大將軍,繇曰:「我若用子義,許子將不當笑我邪?」但使慈偵視輕重。
ある人は劉繇に「太史慈を大将軍にせよ」と勧めた。
劉繇は云った。
「もし私が太史慈を用いたら、許劭に笑われないか」
劉繇は太史慈を、ただの斥候にした。
太史慈は、なんの手柄も持たず、おそらく兵も率いず、ふらふら南に流れてきた。「同郷の劉繇に使ってもらおう」という、甘ったれた転職姿勢が、見え透いている。呂布や劉備でも、兵を率いて、転職先を探していたのに。(だから彼らは、食糧に困るのだが)
時獨與一騎卒遇策。策從騎十三,皆韓當、宋謙、黃蓋輩也。慈便前鬥,正與策對。策刺慈馬,而攬得慈項上手戟,慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴,於是解散。
太史慈は1騎だけを連れて、偵察をした。
孫策と遭遇した。孫策は13騎を従える。韓當、宋謙、黄蓋らが、孫策に従う。
太史慈と孫策は、向き合った。孫策は、太史慈の馬を刺した。孫策は、太史慈がくびに付けていた、手戟をうばった。太史慈は、孫策のかぶとを奪った。
両軍の兵騎が来たから、一騎打ちをやめた。
次回、丹楊太守を名乗って自立します。