03) 天子になりたい勘違い男
「呉志」巻6より、太史慈をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
丹楊太守を名乗って、自立する
慈當與繇俱奔豫章,而遁於蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守。是時,策已平定宣城以東,惟涇以西六縣未服。慈因進住涇縣,立屯府,大為山越所附。
太史慈は、劉繇とともに、豫章に逃げた。だが太史慈は、劉繇から離れ、蕪湖に逃げた。山中にまぎれこみ、丹楊太守を称した。
太史慈は、劉繇を守る義務を、おこたった。不忠だ。どこが名士か。
目をギラつかせて、チャンスを狙っている人だ。劉繇が重く用いなかったことに、無理はない。もし劉繇が太史慈を大将軍にしたら、すぐに独立したはずだ。なんの成算がなくとも。斥候は適役だった。
このとき孫策は、すでに宣城より東を、平定していた。ただ涇県の西6県が、孫策に服さない。太史慈は涇県にゆき、役所を立てた。山越は、おおいに太史慈に従った。
太史慈の強さは、小さく見積もるべきだ。割拠を狙ったのは事実だろうが「大為山越所附」はウソくさい。山越=朝廷が頭数を把握できない、非納税者。こいつらが、多いか少ないかなんて、分からない。
陳寿は太史慈に、「群雄」の体裁を整えただけだ。
策躬自攻討,遂見囚執。策即解縛,捉其手曰:「甯識神亭時邪?若卿爾時得我雲何?」慈曰:「未可量也。」策大笑曰:「今日之事,當與卿共之。」
孫策は、みずから太史慈を討ち、生け捕った。孫策は、縄をとき、太史慈の手をとった。
「神亭のときのことを覚えているか。もしお前が私を捉えたら、お前は私を、どのように扱っただろうね」
太史慈は「まだ考えるべき問題ではない」と答えた。
しかし「未」は、いつか太史慈が孫策を捕らえる前提の言葉だろう。「可」は、適切の助動詞だと思う。まったく太史慈は、恐れ入っていない。
孫策は大笑いした。「これからは、一緒に戦おう」
孫策は、太史慈が物怖じしないから、大笑いした。胆力を見て、協力者になれと云ったのでは? 立場を逆転させた言葉遊びに、ちくま訳は引っぱられ過ぎていると思う。孫策なら、もっと直截的なはず。
ここで『呉歴』『江表伝』の裴注がある。しかし本文と食い違う。陳寿の本文を元ネタにした、二次創作にしか見えない。ありそうに文飾しただけだ。混乱させられる。はぶきます。
孫策の部将として、劉表を食い止める
即署門下督,還吳授兵,拜折沖中郎將。後劉繇亡於豫章,士眾萬餘人未有所附,策命慈往撫安焉。左右皆曰:「慈必北去不還。」策曰:「子義舍我,當複與誰?」餞送昌門,把腕別曰:「何時能還?」答曰:「不過六十日。」果如期而反。
ただちに太史慈は、門下督となった。
呉郡にもどり、兵を授けられた。折沖中郎將となった。のちに(197年)劉繇は、豫章で死んだ。劉繇の兵士と民衆、1万余人は、行き場がない。孫策は、これを味方につけろと、太史慈に命じた。
左右の人は「太史慈は、北にゆきます。還らない」と云った。
孫策は云った。
「太史慈が私を捨てて、誰と生きていくのか?」
孫策は、太史慈を昌門で見送った。孫策は、太史慈の手をとった。
「どれだけ時間があれば、還ってこれるか」
「60日かなりません」果たして太史慈は、期日内にもどった。
ただ面白いのは、劉繇-華歆-太史慈が、みな同郷だというセリフ。華歆は、劉繇のスムーズな後継者であることが分かる。
青州の人が、揚州に食い込んでいるのは、陶謙のせいか。陶謙は、徐州人の趙昱や王朗に、南方を任せた。連動しているのだろうか。
さて。期日を自己申告させ、区切ったのは、雇用主・孫策が、被雇用者を使いこなすのが上手いことを表す。
劉表從子磐,驍勇,數為寇於艾、西安諸縣。策於是分海昬、建昌左右六縣,以慈為建昌都尉,治海昬,並督諸將拒磐。磐絕跡不復為寇。
劉表の從子・劉磐は、驍勇のある人。しばしば、艾県や西安県などを寇した。ここにおいて孫策は、海昬県や建昌県などの周囲6県を分けて、太史慈を建昌都尉とした。治所は海昬県。太史慈に、劉磐を防がせた。劉磐は、攻めてこなくなった。
太史慈の死に際のセリフは、効果的な本音
慈長七尺七寸,美須髯,猿臂善射,弦不虛發。嘗從策討麻保賊,賊於屯裏緣樓上行詈,以手持樓棼,慈引弓射之,矢貫手著棼,圍外萬人莫不稱善。其妙如此。曹公聞其名,遺慈書,以篋封之,發省無所道,而但貯當歸。孫權統事,以慈能制磐,遂委南方之事。年四十一,建安十一年卒。
太史慈は、弓が上手かった。建安11年、41歳で死んだ。
吳書曰:慈臨亡,歎息曰:「丈夫生世,當帶七尺之劍,以升天子之階。今所志未從,奈何而死乎!」權甚悼惜之。子享,官至越騎校尉。吳書曰:享字元複,曆尚書、吳郡太守。
太史慈は死ぬ前に「男なら天子を目指してナンボだ」と嘆いた。
おわりに
『呉書』が伝える、太史慈の死ぬ前のセリフは、彼らしい。
ぼくは太史慈を、袁術を知るために重要でないかと、着目した。「呉志」が群雄として扱うからだ。
だが、必要なかった。
その場限りのメリットのために、暴走するだけの小隊長だった。名士たちに相手にされないわけです。100530