01) 魯粛と周瑜による曹操分析
総合三国志同盟のオフ会に参加させていただき、
池袋で、あの立間祥介先生より『資治通鑑』の講義を受けました。
10年4月です。2回目の出席です。
「総合三国志同盟」のイベントで、立間祥介先生に教わったこと
中華書局『資治通鑑』2090ページ。
建安13年11月から。
魯粛が孫権をおどして、赤壁開戦を炊きつける
孫権が、トイレに追いかけてきた魯粛にいう。
「卿欲何言」と。すなわち、「卿、何をか言わんと欲す」
「卿」は尊敬をこめる。尊敬しないなら「汝」だ。
文頭の「向」で「さきに」と読む。
意味は違いますが、「向使」で「たとへ」と仮定の接続詞。
「欲誤将軍」は「将軍をあやまらんと欲す」だ。魯粛曰く、張昭らは、孫権将軍の前途を、誤らせようとしている。
魯粛は「粛は」と発言した。
へりくだって自称するときは、名をいう。「粛は」と。逆に、他人を本名で呼ぶと、キツく呼びつけるニュアンス。他人が「亮は」と呼べば、「諸葛亮のやつめが」という憎しみが籠もる。
「当時の口語で、本当にこう言っていたのですか」と。
文語のマナーとして、こう書いてあるだけでは? 口語ではもっと別の言い方があったのでは? 口語は、文章に残らないから、誰にも分からないのでは? こう思ったのです。
立間先生の答えは「口語で言っていました」でした。
『三国演義』は、口語で書かれている。『演義』でも、こういう呼び方をしている。先生の根拠は『演義』です。
「迎操」で「操を迎へなば」です。
曹操に降伏したら、魯粛は「還りて郷党に付し」という。
役人になるのは、故郷の仲間からの推薦がいる。長老の評判を得たら、中央の役人に進める。魯粛は長老に認めてもらうため、いちど「還」ろうと言うのだ。
今さら故郷の徐州に還っても、まともな評価を得られるのは思えない。
だが、魯粛の詭弁についての反論を、立間先生に訴えても仕方ない。だから質問せず、黙っていましたが、なんか不満だ。笑
「品其名位」の「品」は、くらべる。日本語「品評会」は、この意。
魯粛が最低でも就けるのは、「下曹従事」という。
「曹」とは、役所。将軍の幕府には、「西曹」「東曹」がある。部局のこと。「下曹」で下っ端。「従事」とは、役人のこと。
魯粛が乗れる「トク車」は、牛車。高貴な人はクルマに乗り、それ未満の人は牛車にのる。
「官吏」は日本語で1つの言葉だが、もとは違う。「官」は、天子に直接任命される。州牧、太守、県令、県丞まで。
「吏」とは、天子から任命されない役人。胥吏という。
魯粛は曹操に降伏しても、「交遊士林」できる。
「士」は、役人になるために、学問をした人。当時は学問をすれば、必ず役人になる。
「林」は、あつまる場所。
「累官」は、「官をかさねて」。
「故」は、もとより、ことさらに、依然として。
「欲安所帰乎」で、「いずくにきするところをほっするか」となる。
魯粛のアドバイスを聞き、孫権がいう。
「衆人持議」で「衆人、議を持すること」。
孫権の一人称は「孤」だ。諸侯の一人称。
魯粛は大計を「廊開」してくれた。「廊」は、ひろい、ひろげる。この熟語は、同じ意味の漢字を、2つ並べたものだ。
『資治通鑑』によれば、曹操に抵抗を説いたのは、はじめに魯粛、つぎに周瑜である。
周瑜が呼び戻されて、天下を説く
ときに周瑜は「受使」。「使をうけて」もしくは「使いせしめられて」。
胡三省の注釈。周瑜はこのとき、すでに鄱陽に行っていたのか、行く途中だったのか、分からない。『演義』では、鄱陽湖で水練をしたことになっている。そのほうが話が通るから、改変された。
周瑜がいるのは「番陽湖」。「番」には「ハ」の音があった。
鄱陽湖は、淡水の湖でいちばん大きい。飛行機で上空を飛ぶと、下方の視界が、すべて湖面になる。洞庭湖は、2番目に大きい。
「相」は、丞相のこと。曹操は208年8月、丞相に昇った。胡三省は、音に注釈をつける。「相」を、第1声で読めば「ともに」という意味。第4声で読めば、「大臣」の意味だ。
大学時代の中国語の勉強は、完全な徒労ではなかった。笑
「兼杖父兄之烈」かねてより、父兄の烈により。「杖」は、たよる、よる、ひきついでいる。「烈」は、目覚しい業績のこと。
「江東」は、長江の東だから、中流を指す。また「江南」と言えば、長江の南、下流だ。長江は下流に到ると、東西に流れるから、「江南」という言い方になる。
「兵精」は「兵はくわしく」だ。よく訓練できている。
「楽業」は「業にたのしむ」だ。任務に満足しており、二心のないこと。
周瑜曰く、曹操は天下を「横行」する。人間は縦に歩くものだ。わざわざ横に歩くのは、ほしいままに、勝手なことをしている。
「而可迎之邪」は「しかしてこれを、むかうべけんや」となる。「迎」は、降伏する。
「請為将軍」。ひとつ言わしてもらえば、と発話するときに、「請」という。
「籌」は、考えること。もとは、『易経』にもとづく占いで、筮竹を数えること。転じて、よく検討することになった。
馬超と韓遂がいるのは「カンセイ」。中国に「カンサイ」はない。函谷関の西のこと。函谷関は、長安の守り。いまの「陜西省」とは、もと陜県の西のこと。陜県に、函谷関があった。
「関西」「関東」を言い出したのは、周代から。函谷関の内側に、都があったから。ゆえに、さきに「関西」ができて、のちに「関東」ができた。関西に都を置いたのは、周、秦、前漢。
でも先生は、都市が先に建設されたのはどっちか、をお答えになっていたように思います。そりゃ西でしょうね。。
「舎」は「捨」に同じ。
「衡」は、はかり。「争衡」で、天下を争う。
「呉越」は、蘇州と紹興。呉は孫堅の本拠地であり、会稽は孫策が平定した。会稽は、今日の「会計」に同じ。春秋時代、ここの山で諸侯が軍議をしたから、会稽山と呼ばれた。
「盛寒」とは、11月。冬のさかり。10月から12月が冬で、そのピークなのだから、11月だ。
「中国」とは、河南省。
「士」は、下士官以上。小隊長以上。「卒」は軍勢。
「江湖」は、長江と洞庭湖。
北京では、冬にリップクリームなしで5分も歩けば、唇が割れる。そんな乾燥した北方から遠征すれば、「水土」が合うわけがない。
曹操軍は、伝染病でなく、寄生虫にやられた。出土したミイラが、日本住血虫に感染していた。