01) 後漢の地理と天文
総合三国志同盟のオフ会に参加させていただき、
池袋で、あの立間祥介先生より『資治通鑑』の講義を受けました。
ええっと・・・立間先生の講義を聴きましたと、いまこれを書きながらも、いまだに現実味がない。小説でも書いているような気持ちになるが、そうではありません。事実です。
赤壁の戦いを読もうという講義の、第7回から初参加。
先生が講義の中で仰ったことを、ここにメモしておきます。
講義のはじまり
ぼくが聞いたのは、
「冬、十月、癸未朔、日有食之」
からです。西暦を付ければ、208年10月の記事からです。
講義は、曹操の支配領域がいかに広いか、という説明からスタート。後漢の地理について、教わりました。
次回までに、必ず塗って行かねば。
曹操の領土について
まず西北に、西域長史部。
西域長史部は、敦煌から西の地域。東西の幅は、後漢の本土と同じぐらい広い。長史というのは、文官のトップのこと。
日本では西域を「さいいき」と読む。「さい」とは呉音。仏教の用語は、漢字を呉音で読む。
仏教の理想郷は「西方浄土」で、「さいほう」と呼ばれてきた。三蔵法師がお経を探しに行った方角も、「さい」である。その慣例から、後漢の地方区画も「さいいき」である。
もちろん「せいいき」と、漢音で読んでも、間違いではない。
東へ移り、涼州と并州があり、
つぎは、司隷校尉部。
校尉とは、高級武官のこと。首都の洛陽と、副都の長安を含むから、王朝の直轄地。司隷州とか、司州と呼ばれることもある。
冀州があり、幽州。
幽州とは「くらい」州という意味。北京から平壌まで。
青州は、山東半島。荊州を曹操(朝廷)に返還した、劉琮が任ぜられたのが、この青州の刺史でした。
つぎは豫州。
劉備が陶謙から、豫州刺史に任命された。そのため劉備のことを「劉豫州」と呼ぶ。社長が退職しても、周囲から「社長」と呼ばれるのと同じだ。しかし陶謙が勝手に言い出したことで、天子の承認を得ていたわけではない。
のちに曹操(天子)から、劉備は豫州牧にしてもらった。
徐州があり、最後に荊州。
荊州は、劉琮が牧の官印を、曹操(朝廷)に返還した。そのため、208年10月の時点で、曹操の領土だ。
曹操が迫っている土地
曹操に属さないのは、3州。
西は益州で、劉璋が治める。東は揚州で、孫権が治める。南の交州で、荊州の商人が往復している。
劉表が南方の経営に色気を見せたとき、この道を使おうとした。士燮や孫権も、荊州から陸路で、交州を伺ったらしい。
208年10月時点で、曹操は江陵に迫る。
荊州の北の襄陽は、すでに曹操が収めた。
後漢の、襄陽と樊城をセットにした言い方なのか、現代中国の地名に置き換えて仰っているのか、言葉を聴いただけでは分かりません。
暦のはなし
「朔」は、ツイタチ。「朔」とは「くらい」ことで、北方の地域を指すときも使う漢字。
幽州も朔北も、同じ「くらい」という意味があったとは。結びつけて捉えたことがありませんでした。
なぜツイタチが「くらい」かと言えば、新月だからだ。立間先生が、講義の中では言い及んでいませんでしたが。
ちなみに15日は「望(望日)」という。
いま自分の手書きメモを見て気づいたが、「朔」の下に「王」を書き足すと、「望」とそっくりだ。乱視がひどくなったかと思った。
『説文解字』とか、白川静とかを読めば、由来が分かるかも?
日食の記録は、首都での観測に基づいて書かれる。山崩れは、地方の地名で記されるが、天体については、首都が中心である。
後漢は広いから、観測する地域によって、日が欠けたり欠けなかったりするのでしょう。
天文を記録するのは、司馬遷が担当した仕事だ。
地理や天文から話が始まるなんて、とても「正史っぽい」ですね。まあ教材の『資治通鑑』がその順序で書かれているわけですが。
次回から、語釈を抜書きしていきます。