表紙 > 旅行他 > 「総合三国志同盟」のイベントで、立間祥介先生に教わったこと

02) 魯粛が喋り、魯粛が走る

総合三国志同盟のオフ会に参加させていただき、
池袋で、あの立間祥介先生の『資治通鑑』の講義を受けました。

魯粛が孫権を説得する

「初」とは、それより前、もともと、の意。

どれだけ時間軸を遡るか分からないから、いつも困らされる漢字です。パソコンのように、すでに書いた文の途中に、カンタンに加筆&挿入できないから、発明された書き方だと思う。

「国」とは、州のこと。江戸時代に、1つの藩を「国」と言ったのと同じ。中国全土ではない。

余談ですが「藩」は、藩屏に由来し、中国史の用語です。王の周りを、衛星のように諸侯がお守り申し上げる・・・という図式を想像すると、日本史のイメージが変わる!
また「県」も中国史に由来し、滅びて直轄化された弱小都市のこと。日本地図のイメージが変わる! 国土平定戦争の爪あとが (笑)


魯粛は孫権に、揚州が「江山険固だ」と言った。
荊州を流れる長江、三峡のあたりは、岩礁のせいで多くの船が沈んだ。1949年に、中国は軍の爆撃機をつかって、岩礁を砕いた。今では、5万トンの船でさえ、重慶を行き来することができる。

知りませんでした。張飛の頭のカタチをした魚は、20世紀の爆弾により、絶滅させられていた。

長江は流れがキツいので、陸から船を綱で引いた。
ビン江から運河を引いて、荊州は水が豊富。重慶の周りは、棚田が作られている。
揚州と接する、荊州の東もまた、山で険しい。

魯粛曰く、劉琦と劉琮は「不協」だ。
「きょうせず」と読んでもいいし、「かなわず」と読んでもいい。2人は母親が違うから、仲が良くない。

「かなわず」と読むとき、ニュアンスがいろいろです。匹敵するという「敵う」、適応するという「適う」、カムトゥルーの「叶う」があるが、ここの「協う」は、また違う。
いま気づいたが、曹操が擁する後漢皇帝は「劉協」さんだ。魯粛は、劉協の正統を否定するため、ワザと諱を犯したか。陳寿に遡ってチェックせねば。翻訳を読んでいると気づかないことです。

魯粛曰く、荊州の諸将は「おのおの彼此あり」。
「ひし」つまり、カレとコレ。劉琦と劉琮の2派に分裂して、競っていることを表す。

魯粛曰く、劉備が荊州軍と「心を協せ」れば・・・
立間先生は、「あわせ」と読まれていたと思います。

また「協」と言っている。どれだけ劉協に無礼を働けば、魯粛さんは気が済むのでしょうか。別の漢字でも同じ意味が言えるのに、わざと「協」を使っているようだ。
おかげで、いろんな訓読のバリエーションを味わえましたが。


魯粛曰く、劉備は「梟雄」だ。
「梟」とはフクロウで、肉食の鳥だ。「雄」とは、猛々しいことを表す。梟雄とは、単なる英雄ではない。警戒すべき、武力のある大将というニュアンスだ。

戦さが下手な君子・・・という劉備評はウソだと分かる。


「奉命」するとは、伝言を持って出かけること。孫権の思惑を受けて、魯粛は荊州に旅立ちたい。
魯粛が孫権に言う。もし劉備と「克諧」できたなら、天下が定まるでしょうと。「克諧」とは、仲良くなること。

自信のない漢字なので、字典を引いてみた。
意味は、「やわらぐ」「やわらげる」、調和して「かなう」、デコボコをなくして「ととのえる」、調子よく「たわむれる」です。
魯粛が不敬を連発している、「協」と同義語だと分かります。


そういうわけで、

『資治通鑑』の本文を省略しまくってますが、三国ファンの皆さんがご存知の、あの展開です。

魯粛は荊州に「弔問」に出かけることになりました。

魯粛が、劉備を追いかける

魯粛は、夏口に到った。
夏口とは、いまの武漢市。長江のいちばん大きな支流・漢水が合流する地点。漢水は、夏水とも言われるので、その注ぎ口を夏口という。

「曹操が已に荊州に向かった
魯粛は夏口で、曹操の動きを知りました。
ここの「已」とは、すでに。オノレやヘビとは違う。

余談です。漢文を読んでると、日本語の文に変なクセがつく。
ぼくは、文頭に「はじめ」と書いたり、「すでに」と書いたりして、時系列をごまかしてしまう (笑)

曹操が狙った荊州とは、南郡の江陵のこと。

ひとつ上の行政区画で呼んでしまうほど、江陵は荊州の重要拠点だったことが分かると思う。
愛知県を指して、名古屋と言うようなものだ。


魯粛は、昼夜兼行で、荊州の南郡に向かった。「晨夜」とは、朝と夜。もしくは、朝早くから、夜遅くまで。

「晨」は、会意&形声文字。二枚貝が開いて、ぺらぺらと震える舌を出した様子を描いた、象形文字。
また、日+シンで、日がふるい立って動き始めること。シンとは「震」「振」に通じる。
辞書を引いても、魯粛が一睡もせずに駆けたのか、よく分からない。朝早くから夜遅くまでなら、深夜は寝られるしねえ。


「比至南郡」で、魯粛が南郡にいたるころ。時間ぴったり、ちょうどそのタイミングで。
南郡とは、襄陽より南、長江に到るまでの地域。南郡太守がいるのが、江陵。江陵は、物資の集積地。
ちなみに夏口(武漢)から、南郡の江陵は、沼沢地帯。長江の水量が増すと、たちまち水浸しになる。のちに赤壁で敗れた曹操は、ここを陸路で逃げることになる。

劉備が南に逃げてしまったので、魯粛は「径迎之」した。つまり、ただちにこれ(劉備)を追いかけた。

「径」とは、回り道せず、真っ直ぐのびた小道。派生して、ただちに、すぐに、という意味になった。
旁(つくり)のケイは、真っ直ぐの縦糸を表す。

魯粛と劉備は、当陽の長坂で「会」した。
・・・次回、魯粛が劉備を口説きます。