表紙 > 旅行他 > 「総合三国志同盟」のイベントで、立間祥介先生に教わったこと

03) 徐州人が同盟をつくる

総合三国志同盟のオフ会に参加させていただき、
池袋で、あの立間祥介先生の『資治通鑑』の講義を受けました。

魯粛が劉備を説得する

魯粛は劉備に対して、孫権の旨(考え)を、宣(の)べた。
孫権の考えとは、「殷勤之意」を致すことだ。つまり、劉備と一緒に働きたいという、へり下った気持ちを伝えた。

「殷勤」を読むと、インギン。
日本語でおなじみ?のインギンを漢字で書くと、「慇懃」です。ていねいなこと。いまの魯粛の描写も、同じ意味です。
『蒼天航路』の原案は、イ・ハギン氏でした。無関係。
ちなみに日常、意味がよく分からない「慇懃無礼」とは、ていねいな態度を取りながら、心の底は尊大で、相手を見下していること。

余談ですが、、
立間先生の講義が終わった後、受講者の方が話していました。
「殷」は、周が前代の王朝を呼んだ文字だ。おとしめたニュアンスがあるのではないか?と。

「殷」とは、充実して盛んなこと、多いこと。
字典を見る範囲では、悪いニュアンスは込められていない。
『資治通鑑』の数行前で、魯粛が孫権に「われら揚州の士民は、殷富です」と言っているが、問題はなさそう。紂王の暴虐を連想して、顔色をサッと変じ、魯粛の口を塞ぐ必要はない。


魯粛の説得を受け、
劉備は「欲往投之」と言った。蒼梧太守の呉巨を頼るから、ほっといてくれ、という有名なセリフです。
「ゆきて、これにとうぜんとほっす」と読み下す、立間先生の朗読に、理由も分からず感銘を覚えて、ひらがなでメモってしまった (笑)

魯粛が、孫権の素晴らしさを謳い、劉備を誘った。
魯粛は孫権を、討虜将軍と呼ぶ。曹操から任命された官位だ。

これは、孫堅の破虜将軍と、孫策の討逆将軍を混ぜた将軍号。
大阪で山口久和先生の講義を聞き、「孫破虜・討逆伝」と50回くらい聞いていたから、覚えていた。

魯粛に語らせれば、呉巨なんて「偏在遠郡」だから、すぐに曹操に併呑されてしまう。劉備さんが頼る価値のない男ですよ、と。

「偏る」の用法が面白いですね。
後漢でフロンティアだと見下された揚州は、魯粛のなかでは、立派な都会のつもりだ。交州を田舎だと、悪口を言う。
じつは交州は、越南から見たら先進地域で、憧れの的だったとか。

劉備は魯粛の話を聞いて「甚だ悦んだ」。

諸葛亮と魯粛が、お友達になる

諸葛亮と魯粛が会った。

同じ徐州出身者です。

魯粛が、私は子瑜(諸葛瑾)の友だと自己紹介したから、諸葛亮と魯粛は「定交」した。

「交わりを定める」って、どうやるんだろう。
現代日本人が、「あなたと私は友達だよね」と口にするのは、どうもウソくさい。桃園で酒を飲まないにしても、どんな交流の作法があったのか、知りたいです。

諸葛瑾は、乱を避けて江東にきて、孫権の長史になった。長史とは、文官のトップを指す。

1ページ目で出てきた「西域長史」と同じだ。のちに張昭も「長史」として登場しますが、トップが複数いるのって、おかしいです。
立間先生に質問すればよかった。いや、自分で調べればいいか・・・

諸葛瑾が避けようとした乱とは、立間先生の読み方では、曹操が徐州を虐殺した事件。

ぼくはもっと広い意味で、中原が戦乱つづきだから・・・と読むものと思っていた。諸葛瑾が移住したトリガーが、曹操の虐殺なら、諸葛瑾のキャラが分かりやすくなるのだが。


劉備と魯粛は、樊口に「住」した。とどまった、の意。

『晋書』を読むと、軍が移動するときに、頻繁に「住」す。
まさか住み着いたわけじゃないが、訳し方に困っていた。以後、自信を持って「とどまった」と訳せる。

立間先生は、地図を見ながら、講義をされています。樊口は、荊州と揚州の境目である。

劉備が揚州に入ったら、孫権に従属したことになる。同盟としての体裁を保つには、これ以上は東へ行けなかったのかな。
またこれ以上に西へ行けば、曹操に踏み潰される。

劉備がいる樊口の鄂県は、蘇東坡が赤壁賦を書いた場所。立間先生の言い方をそのまま記すと、
「対岸を赤壁に見立てて、賦を作った地」

蘇東坡が「間違えた」とは、先生は仰らなかった。


『三国演義』と『資治通鑑』では、魯粛と劉備が合流するストーリーのボリュームや、訪れる土地の順序が違う。
『三国演義』では、先に柴桑に行くが、『資治通鑑』では先に樊口に来ている。こういう違いがある。

ちゃんと聞き取れませんでした。
っていうか『三国演義』を読み直せば分かることだが。


諸葛亮は、孫権に会いに行った。
孫権がいるのは、柴桑。鄱陽湖が長江に流れこむ地。いまの九江市。
孫権が開戦を決めるシーンに、つづきます。

いま気づいたが、劉備と孫権は動かず、魯粛と諸葛亮という徐州人だけが行き来して、同盟を作ったんですねえ。