04) 柴桑のオフィスで議論する
総合三国志同盟のオフ会に参加させていただき、
池袋で、あの立間祥介先生の『資治通鑑』の講義を受けました。
諸葛亮が、孫権をたきつける
諸葛亮は、孫権に言う。
劉備は、「漢南の衆」を収めた。つまり、漢水の南、荊州の軍勢を手に入れたという意味。立間先生曰く、これはウソ。
いま曹操は、大難をガイイ(刈り取って取り除く)して、略(ほぼ)全土を平定した。
劉備は立派な将軍なのに、「用武之地」がなかった。つまり、本気を出すチャンスがなかった。
本気を出さなかったから負けた、なんて言い分に、説得力があると思っているのだろうか。
もし孫権さんが呉越の地を保ち、中原に対抗する気がないなら、さっさと「按兵束甲」して「北面」しちゃえよ、と諸葛亮は言った。
越とは会稽郡で、蘇州。紹興酒の産地。
三国時代、上海はまだない。都市がないだけでなく、土地がない。長江が砂を運んできて、陸地が形成されている途中だ。
「兵を按じて、甲を束ねる」とは、兵を大人しくさせて、武具を荷造りし、曹操に差し出すことを言う。
諸葛亮が見抜くことには、孫権は内側に「猶豫之計」がある。つまり、開戦しようか降服しようか、迷っている。
孫権から、諸葛亮への質問
孫権が諸葛亮に聞いた。
「もし君の言のごとくんば、劉豫州、なんぞ之(曹操)につかえんを遂げざるや」
諸葛亮は、田横の故事で説明した。
立間先生よると、読み方は「デンコウ」だそうです。
田横は、斉の皇族ではなく、ただの壮士だった。だが、斉に殉じた。田横は劉邦に呼びつけられたが、長安に到る前に自殺した。渤海の島にいた500人の田横の同志も、自害した。
まして冑(系=皇族)の劉備が、漢のために頑張らないでどうするか。ミスったら「天」の定めだから、死んでも仕方ない。
このことが気になり立間先生に質問しましたが「そういう説もあります」というお答え。
まあ田横が王族でないと偽り、自説の根拠にしているのは、立間先生ではなくて諸葛亮だから、これ以上追究しても仕方ないのですが (笑)
ぼくはかつて、田横について、書いたことがあります。
田横を知り、諸葛亮を知る。
孫権は勃然として(顔色を変えて)、人に制を受けるのはイヤだと言った。でも孫権は、劉備の力量を信用できない。
諸葛亮は、関羽が精兵「萬人」を率いていると言った。漢文では「一」を省略することが多いそうです。つまり関羽が率いているのは「一萬人」です。
曹操は軽騎で、一昼夜で300余里を駆けて、疲れている。後漢の里とは500メートル弱。
初心者に質問され、恰好がつかなくなったら、「魏晋短里説においては」と見栄を切って、逃げ切ろう。
遠征軍の弱さを、諸葛亮は弩に例えた。弩は、日本では「いしゆみ」という。足で引っ張る。弩は、10センチの短い矢も使う。
『資治通鑑』で、ここに付いている胡三省の注釈で、「前書」とは、漢書のことである。『後漢書』という本はあるが、『前漢書』という本はない。
諸葛亮が『兵法』を引用した。
孫武は遠征軍について「必欠上将軍」と言った。百里を駆けて、戦利を得ようとすると、筆頭の大将を殺されてしまう。進軍が早すぎて、供の兵が揃わないからだ。
大抵は大将がベストな馬に乗っているから、こんなドジなことが起きる。でも、大将がダメ馬に乗るのも、規律が乱れそうだし・・・
諸葛亮は言う。
もし曹操を迎撃したら、曹操は北に帰るはずです。
曹操が帰る北とは、鄴である。許は、後漢の皇帝を置いてあるだけで、曹操の本拠地ではないから。
曹操を帰したら、「鼎足之形成」となるでしょう。
曹操から孫権への手紙
「近者」と書いて、「近く」と読む。
「辞」は、後漢皇帝の命令書。
「方」は、「まさに」。まさに呉にて会猟せん!
「旌」は軍旗で、「キ」は指揮のために振る旗。
曹操の書状を読み、孫権の臣下は「響震」した。ガタガタふるえる音が、ひびくほどに、ビビッたのだ。
張昭は「曹公は、豺狼だ」と言い出した。
張昭は、曹操に恐れ入っているから、呼び捨てにしない。「曹操さま」と言うに等しい。
しかし同じセリフで、張昭が「いま操は」と言い換える。立間先生の指摘だが、張昭は途中で、曹操に対する態度が変わっている。
次回、講義メモの最終回です。孫権が「断」じます。