02) 夜の周瑜と、暇な劉備
総合三国志同盟のオフ会に参加させていただき、
池袋で、あの立間祥介先生より『資治通鑑』の講義を受けました。
中華書局『資治通鑑』2091ページ。
周瑜の発言のつづき。
まだ続く、昼の周瑜の説得
「数」は、いくつかのもの。数々のもの。
「冒行」は「おかし、おこなう」。
「禽」は、とらえる。手取りにする。手偏をつけても、同じ。中国語では、発音が同じならば、漢字を代用させる。
周瑜がほしい兵は、数万。5~6万である。
「進住」は「すすみて、とどまり」と。むかし日本には、進駐軍というのがいた。アメリカの占領軍である。
周瑜が進駐したい夏口とは、武漢である。夏水が長江に合流する。
胡三省が注釈する。このとき、3つの夏口があった。
合流地点を中心に、北に漢口、西に武昌、南に漢陽。
さらに言えば、地形の考証に、ぼくはあまり興味がない。省略します。
「保」は、たもつ、保障する、約束する。
孫権が机を斬って、決断する
「欲自立久矣」で「ジリュウせんと欲するを久しき」。曹操が、自分の国を建てようと思ってから、長い年月が経っている。
「尚存」は「なほ、そんす」。
孫権は周瑜を「君」と呼ぶ。「卿」と同じで、敬語だ。
「刀」は、片側に刃がついている。斬るためのもの。「剣」は、両側に刃がついている。突くためのもの。
また諸刃の剣が危ない理由は、振りかぶると自分が切れるかららしい。使い方を間違っている。剣は、突いて使いましょう。
孫権が斬ったのは「前なる奏(をのせる)案(つくえ)」だ。
「罷会」は「会、やむ」。
周瑜が孫権を夜に訪問し、ダメ押す
周瑜が「復」=また孫権に見えた。
ぼくは『江表伝』を信じていないので、内容は、どっちでもいい。。
「水歩」とは、水軍と陸軍。「料」は、はかる。
「甚無謂也」で「はなはだ、いわれなきなり」
「校」は、引き比べること。校正は、原稿と活字を、引き比べる。
「久疲」で「ひさしくして、つかる」
「所得表衆」は、得しところの劉表の軍勢。
「狐疑」は、キツネのようにビクビクすること。心服してない。
「七八万耳」は、「7、8万なり」と読める。
曹操を倒すために「瑜得精兵」。精兵を得ねば、と読む。
孫権は周瑜を「公瑾」と呼んだ。同輩に対する呼び方である。孫権は君主だから、「瑜」と呼び捨てていい。
「賛孤」は、孤を賛する。
「難卒合」。にわかに、はやばやに、合わせるのは難しい。
「倶弁」で、ともに、そなえてある。
「為卿後援」は、2つの読み方がある。「卿の後援をなさん」もしくは「卿のために、後援せん」だ。どちらでもいい。
周瑜と程普が、左右の都督になった。
もともとは、右が尊くて、左が卑しい。日本でも、中国と同じで文官が優位だから、朝廷では右が上位である。「左遷」とは、悪いほうに追いやること。
しかし、例外がある。軍事は不吉なことだ。だから、不吉な左が、戦争では上席となる。皇帝から見て、左側に軍人が整列し、右側に文人が整列する。
秦漢は軍事国家だから、左が上だ。
いま左都督になった周瑜が、程普の上に置かれたことを意味する。『演義』では、程普は周瑜の下につくことを嫌い、息子を出陣させた。
先生の『演義』の翻訳を読んでいないことが、丸バレである。
そのころ、手持ち無沙汰の劉備さんは
「日」は、日々、毎日のように。
劉備がいる「樊口」は、柴桑の上流。樊水が、長江に合流するところ。柴桑とは、九江郡。
「邏吏」は、見回りと、下役人。
「水次」は、水際。長江のきわ。
「候望」で、待って遠くを見ている。
周瑜が、劉備にいう。「不可得委署」と。
「いしょするを、うべからず」と読む。
「委」は、捨てること。仕事を捨ててくることは、できない。
劉備が周瑜に聞く。「戦卒有幾」=「せんそつ、いくばくありや」
「儻」は、もしも。「若」に同じ。
劉備は孫権と同格である。しかし劉備が屈して会いに来るなら、周瑜が時間を割いてあげてもいい。
王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝
周瑜が劉備にいう。「過之」これをよぎれ。今回は見送って、お話するのは、別の機会にすればいいだろう、と。
劉備は周瑜に来いと言われ、「愧喜」した。はずかしがり、同時によろこんだ。
『資治通鑑』は省略したが、劉備と周瑜の交渉については、先主伝に続きがある。諸葛亮が、追いついてくる。今回はここまで。
おわりに
次回で、立間先生の講義は、最終回だそうです。
読む予定の文章が、けっこう短い。ということは、脱線をたくさんして頂けそうな予感です。楽しみです。最終回も池袋、5月29日。
愛知から東京って、遠いのだが、、どうしよう。100424