表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第2章「蜀漢政権論」要約と感想

1節_劉備集団と荊州「名士」

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。

目標は、渡邉義浩氏の研究を、まず自分のなかに取りこむこと。史料を読むときに、ふまえたい。
あわよくば、渡邉義浩氏への反論を、くみたてたい。自分で原典史料を読んでいる人ならば、誰もが、反論のチャンスがあると思うのです。ただのファンにすぎなくても。
構成は渡邉氏の本のまま。タイトルの後ろの数字は、ページ数。

はじめに_141

『華陽国志』はいう。蜀漢政権では、荊州出身者が要職を占めた。
この指摘に対して先行研究は、時期と出身地を手がかりに、政権の性質を論じた。渡邉氏はこの議論に、名士と君主のせめぎあいを、あたらしく持ちこむ。劉備と諸葛亮の対立など。

先行研究の紹介は、引用しませんでした。気になったら、論文そのものを見返せばいいかな、と。手抜きですみません。


荊州客居以前の劉備と家臣_143

擬制血縁的な任侠精神。主従が「兄弟」と表現されるのは、曹操や孫権のところにはない。曹操は、宗族が中核になったが、劉備には宗族が欠けている。関羽と張飛がおぎなった。
劉備は公孫瓚のように、名士を撥ねつけたのではない。孔融に救援をもとめられ、よろこんだ。陳羣や陳登をまねいた。陳登は劉備を「王覇の略」と評価したが、とどまらず。陳登が、本貫を捨ててまでしたがう魅力が、劉備になかった。

陳登、あいかわらず、よく分からんやつです。

任侠と商業の集団に、儒教の名士はなじまない。

劉表政権と荊州「名士」社会_146

劉表は、蔡瑁と蒯越の規制力のうえに、成り立った。

長男の劉琦が生まれたのって、いつだろう。もしかして劉表が、荊州に赴任して、蔡瑁をたよる前だろうか。劉琦の母、行方不明である。笑

劉表には、外来の名士がいた。王粲、邯鄲淳、隗キ、傅巽だ。のちに曹操にしたがい、荊州学にもとづく名声を得た。
劉表をきらい、襄陽を去った名士がいる。和コウ、裴潛、杜襲だ。劉表に対して、マイナス評価の発言をした。

「魏志」の人。劉表のまえ、袁術との係わりを持たなかったのかなあ。妄想の余地あり。荊州にいたとは、知らなかった。

襄陽にいても、劉表と交わらない名士がいる。司馬徽、龐徳公だ。劉備は、これに接近した。

諸葛亮と三顧の礼_149

劉備が三顧したのは、『通鑑』献帝紀注によれば、徐庶を重んじたから。諸葛亮は、徐州琅邪でなく、荊州に名声がある。諸葛亮は、荊州人士を、劉備に送りこんだ。
だが諸葛亮は、法正の死後にしか、最高位にならない。

蜀漢政権の成立と荊州人士の優越_153

蜀漢では、益州在住の荊州人士も、優位だった。李厳、董和、費イらだ。諸葛亮が、引きあげた。
劉備は、益州の彭ヨウ、三輔の法正、呉懿、孟達らをもちいた。劉備は、荊州人士をもちいる諸葛亮と、せめぎあった

これが渡邉氏の特徴です。諸葛亮と劉備を、物語にあるような、手放しの信頼関係だとはしない。対立&抗争関係にする。

夷陵で劉備は、君主権力の基盤となる、軍事力を壊滅させた。劉備は諸葛亮に「劉禅に代われ」と遺言した。王夫之のいう、「乱命」だ。諸葛亮への牽制だ。

1節を要約しおえて

論文の内容がないのではなく、今まで読んだことがあったから、サイトが短くなりました。
「劉備と諸葛亮がせめぎあった」
この一文で、もう満足してしまうお話。劉備の死後については、つぎの節につづきます。ぼくの思いつきの反論も、書いてみました。