3節_死して後已む-諸葛亮の漢代的精神
三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。
はじめに_195
中国では、諸葛亮を法家とする。
林田慎之介1989は、諸葛亮を清流派知識人とする。荀彧や孔融とおなじだとする。
渡邉氏はいう。諸葛亮は、「儒教国家」の後漢が崩壊したことをうけ、法家の長所をまぜて、後漢の国教を改善した。
水魚の交わり_196
諸葛亮は、豪族の出身だ。司隷校尉の諸葛豊のあと、父は泰山丞だった。曹操の徐州虐殺により、故郷をおわれた。
時代は漢室を見放しつつあった。黄巾のスローガンがある。応ショウは、革命を是認した。仲長統は、漢の滅亡が必然だといった。李厳は諸葛亮に、劉禅に代われといった。
いっぽう何休『春秋公羊解コ』は、聖漢の正統性を主張した。諸葛亮も、漢の存続を支持した。
後漢は寛治だ。劉表も寛治だ。諸葛亮は、後漢とおなじ失敗をくり返す劉表には、期待しなかった。劉備に仕えた。
臥龍_198
荊州学は『春秋左氏伝』を中心においた。鄭玄に対抗した。尹黙伝にもみえる。
だが司馬徽がいうように、諸葛亮は実践の人だ。ただの学者と自分を区別し、理想を実現したかった。諸葛亮は、兵士の交替について、『春秋左氏伝』を手本として活用した。
泣いて馬謖を切る_200
法正は、後漢とおなじ寛治をもとめた。
諸葛亮は『春秋左氏伝』を根拠に、猛政を主張した。後漢の王符も、『春秋左氏伝』にもとづいて、猛政が必要だと述べている。諸葛亮は、恩赦しない。
諸葛亮は、蜀科をつくった。荊州出身者だけで、蜀科をつくった。ただ1人、寛治を主張した法正を、混ぜてあげたが。
荊州学が研究した『春秋左氏伝』の刑罰は、蜀科に結びついた。
器能を尽くせるに服す
益州の伝統は、蜀学だ。楊春卿にはじまるシン緯だ。蜀学は、荊州学とはちがう。諸葛亮が仲介したから、はじめて蜀学は、蜀漢に協力した。蜀漢がほろぶときは、その滅亡を予言しちゃったが。
2章の蜀漢政権論を読みおえて
よくも悪くも、蜀漢政権論は、諸葛亮に終始しましたね。笑
劉備の時代は、諸葛亮が芽をだす準備。
諸葛亮の死後は、諸葛亮と時代がはなれることが、いきなりイコールで、蜀漢の衰退だと解釈された。ちょっと乱暴かも?
「蜀志」は、まだあまり読めていないので、後日の課題。
諸葛亮の儒教改良については、字面どおり受けとります。基本的に後漢を継いだことを、確認しました。
つぎは、孫呉政権論です。孫権に終始します。笑
とりあえず、最後まで読めました。まとめます。100729