表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第2章「蜀漢政権論」要約と感想

2節_蜀漢政権の支配と益州社会

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


劉焉・劉璋政権の構造_166

劉焉は、東州兵をつかった。狩野直禎1958は、三輔を「東州」と呼ぶのはおかしいので、南陽郡の兵だとする。賈龍が馬相を平定してはじめて、劉焉は入蜀できた。東州兵は、劉焉が入蜀したあとに形成されたと理解すべきだ。
福井重雅1979は、後漢で「東州」とは、青州や徐州を指すから、東州兵は黄河下流が出身だとした。南陽や三輔は、青州や徐州からの通り道だと。渡邉氏は、この話を採らない。

福井氏は、旧斉の文化圏を、重視する人だ。何でもかんでも、旧斉に結びつけたのだろう。

後漢の南陽は、張曼成に乱された。三輔は、ズイムシと涼州の賊に荒らされた。劉焉が、益州で10万の東州兵を編成できたのは、避難民が多かったからだろう。

南陽と汝南と潁川は、セットで黄巾に荒らされた。この地域を、つなげて治める支部?が、黄巾にあったのだろう。彼らの残党を、袁術が編成し、、なんて話はできないだろうか。渡邉氏の論文と関係ないな。笑


益州人士は、益州を安定させるため、劉焉を受容した。董扶が官位を去ったのは、天子気取りの劉焉への、抗議だ。
非益州人士は、劉焉との個人的をむすんだ。呂常、呉懿、龐羲らだ。

ここまでが、渡邉氏が得意な、名士です。

本貫が分からない人がいる。楊懐や高沛だ。みな武官なので、東州兵の指揮官だろう。
ほかに、張魯がいた。宗教王国をつくる。

劉備の入蜀と益州人士の動向_170

劉璋のしたで、東州兵と益州豪族が対立した。益州の名士は、益州を安定させるため、劉備を迎えた。劉備も、益州の名士がもつ社会的規制力に期待して、もちいた。許靖、黄権、厳顔らである。

このあたり、渡邉氏らしい議論です。

劉備に抵抗したのは、東州兵のほかには、寒門である単家だ。張任、王累、鄭度らである。益州の在地社会に、勢力がない人たちだ。

諸葛亮の益州支配政策_173

諸葛亮にとって益州は、天下統一のための拠点だ。安住する政策はやらない。黄権と彭ヨウだけ用いたが、益州人士を冷遇した。諸葛亮が益州人士に冷たいのは、劉備に対抗するためだ

でました! 前ページにも出てきた。これに対する論文は、いっぱい出ていると思う。たとえば、これを読みました。
上谷浩一「蜀漢政権論-近年の諸説をめぐって-」を要約

劉備の死後は、諸葛亮が、益州人士に対抗する必要がなくなった。益州人士を用いた。蜀漢は、諸葛亮による人物評価が、そのまま官職に反映されるようになった。諸葛亮がつよい。劉禅は、諸葛亮とせめぎあうことはない。
諸葛亮が、姜維の人柄をコメントした。益州の張裔と、荊州の蒋琬にむけて、「姜維は、益州の李邵と、荊州の馬良に匹敵する」と述べた。諸葛亮は、益州と荊州を融合させた、蜀漢名士社会をつくった。

諸葛亮は、益州名士と競合しない、経済政策をした。南征して、物資や兵員をあつめた。

諸葛亮の北伐_178

北伐のころ、諸葛亮も属する襄陽グループの名士は少ない。馬良が死に、龐統が死に、徐庶は曹魏につかえた。補うために馬謖を抜擢したが、失敗した。
軍事力は、君主権力の源泉だ。信頼関係があるときだけ、君主は名士に軍事をあずける孫権は周瑜に、軍事をあずけた。劉備は諸葛亮に、軍事をあずけなかった。劉禅から諸葛亮は、軍事権をあずかった。

このあたり、ぼくはあまり納得できません。周瑜についても、個別に考えたい。劉備と諸葛亮についても、ムリがあるように思います。


「名士」社会の分裂と蜀漢政権の滅亡

蒋琬と費イは、益州に土着した政権として、存続をはかった。益州の馬忠が、平尚書事になった。このころ、諸葛亮がつくった蜀漢名士社会が存続していた。蒋琬と費イは、諸葛亮からの評価をよりどころに、政権を安定させた。
姜維が外征ばかりするから、益州の学者がそむいた。吉川忠夫1984によれば、益州学者がシン緯を研究し、漢に代わるのは魏だと暴露した。益州の張翼は、姜維に同行させられつつ、外征に反対した。陳シと黄皓が台頭した。
益州名士が、蜀漢に離反した。諸葛亮がつくった、蜀漢名士社会が機能しなくなり、蜀漢はほろびた。

2節を要約しおえて

諸葛亮がつくった「蜀漢名士社会」がキーワード。
ぼくは、2つ疑問がありました。

渡邉氏は、劉備の生前、諸葛亮を過大評価しすぎである。
渡邉氏は、諸葛亮を荊州人士のトップに想定して、劉備と対決したと考えた。諸葛亮の官位が低いのは、劉備とせめぎあったからだと。これは、諸葛亮の官位の低さを騒ぎ立てているにも関わらず、ぎゃくに、諸葛亮の影響を高く見積もりすぎている。
どういうことか。
諸葛亮は、法正や劉備の死後、政権でトップになる。この結果からさかのぼり、法正や劉備の生前も、諸葛亮は、政権でトップになるべきカゲの影響力があったと想定していないか。
「諸葛亮は、丞相の実力があるのに、軍師将軍に甘んじている。劉備に押さえ込まれたにちがいない」
という論法である。
結果からさかのぼり、時系列を混同するのは、やってはいけないことだ。諸葛亮は若い。法正の生前の諸葛亮は、劉備に押さえ込まれなくても、劉備の臣下でトップでない。荊州の代表者ですら、ないかも知れない。それでいいじゃん。

渡邉氏は、三国志のファンだと、あとがきで述べる。「神算鬼謀の天才軍師」だと、さすがに学術論文で主張はしなかろう。しかし、諸葛亮への崇拝と期待が、論文の底に流れているように感じます。諸葛亮バンザイは、心情的に、ぼくも理解するのですが。笑


「蜀漢名士社会」の終焉も、ぼくはちがうと思う。
諸葛亮のすぐ下の世代は、諸葛亮から直接コメントをもらっている。諸葛亮から、数十年へだったった世代は、諸葛亮から、直接コメントをもらっていない。なぜなら、諸葛亮の存命中は、まだ幼かったから。諸葛亮からのコメントがないのは、当たり前である。
「時間が過ぎただけ」以上の何事でもないことを、学説として書き立てるのは、いまいち納得できません。

「蜀中毒」と呼ばれたらしい、渡邉氏の諸葛亮論につづきます。