表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第3章「孫呉政権論」要約と感想

1節_孫呉政権の形成と「名士」(1)

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。

目標は、渡邉義浩氏の研究を、まず自分のなかに取りこむこと。史料を読むときに、ふまえたい。
あわよくば、渡邉義浩氏への反論を、くみたてたい。自分で原典史料を読んでいる人ならば、誰もが、反論のチャンスがあると思うのです。ただのファンにすぎなくても。
構成は渡邉氏の本のまま。タイトルの後ろの数字は、ページ数。

はじめに_217

孫呉政権は、相反する2つの見方がある。後進と先進だ。
後進をいうのは、宮川尚志と川勝義雄。江南豪族の土着性を、孫氏が武力を背景に開発したとする。

孫氏は、マルクス史家がつかう「開発領主」だとされた。

先進をいうのは、大川富士夫。政権をささえた江北の士大夫が、六朝貴族の原型だとする。
田余慶1991,1992は、孫呉を3つの時期に分けた。孫策が、江東の豪族を弾圧した時期。孫権が淮北の人だけじゃ政権をたもてず、江東の豪族の協力をあおいだ時期。顧雍と陸遜がトップにたち、いよいよ江東の政権になった時期。

石井仁1995は、将軍の序列を分析した。孫呉は、地方割拠でなく、天下統一を国是とする政権だと見た。

満田剛先生は、韋昭『呉書』を、孫呉が天下統一する前提で書かれた本だと指摘していた。石井氏の論文を、ぼくはまだ読んでいませんが、もし石井氏が、韋昭の演出に、はめられていたら面白い。笑


孫氏の台頭_218

孫堅が代々、呉に仕えたという記述は、韋昭の曲筆。だが県姓レベルの豪族だったはず。朱儁にスカウトされたから、会稽郡には武勇が知れていた。
孫堅が荊州で攻撃した王叡は、琅邪の王氏。張咨は、潁川の「知名」の士。孫堅はただの武官で、名士層とは、かかわりがない。
孫堅は、漢室擁護をとなえて、戦った。『呉録』で孫堅は、漢室を助けることを、堂々と宣言した。
孫堅軍は、淮水や泗水の精鋭をひきいたが、呉郡や会稽の豪族をひきいない。孫堅の時期につかえ、「呉志」に列伝がある呉郡や会稽の人は、朱治ひとりだけ。孫堅軍は、漢室復興の名分と、孫堅と心がむすびついだ譜代の集団だった。孫堅が死んだら、集団は瓦解した。
袁術が、孫堅軍を吸収した。
孫堅の故吏・桓階は、長沙太守・張羨に、曹操にくみすることを勧めた。桓階も、曹魏に参加した。

渡邉氏の孫堅像は、だいぶ歪んでいる。
「孫呉の初代なのに、呉郡と会稽の臣がいない」意外だろう!
「孫堅の死後、独立を保てず、袁術に吸収された」残念なことだ、、
「孫堅の故吏は、孫呉の敵の曹魏にうつった」裏切りじゃないか?
などと、三国鼎立を前提にして記述している。ちがう。孫堅は、長沙太守として荊州を縦断した、後漢&袁術の一部将なのです。一部将が活躍し、死んだだけだ。不自然や意外や異例は、ひとつもない。


孫呉の軍事制度として、世兵制・奉邑制がある。西欧中世の封建制度に似ているから、注目された。
だが、孫呉の特徴というには、あまりに適用範囲がせまい。奉邑制は初期だけで、すぐに奉爵制にかわった。
世兵とはべつの中央軍の存在が、明らかにされた。

渡邉氏は注釈する。
徐琨は、父の徐真が、孫堅と交友した。
徐琨が袁胤を討ち、丹楊太守になった。孫策は、徐琨の兵が多いのを警戒した。孫策は、徐琨と呉景を代えた。徐夫人伝がひく『江表伝』にある話だ。世兵制があれば、孫策が徐琨をうつすはずがない、と。
ぼくは世兵制を支持しないが、徐琨の例が世兵制を否定する材料になるとも思わない。後日、史料を読みましょう。

驃騎将軍の歩隲は、兵士の募集をとめられた。呂蒙は、後継者が幼少な部曲を、自分に合わせてもらうことを拒んだ。世兵制の実態は、部将への恩恵である。孫権が武将を優遇したから、孫権の死後に、国家の秩序がろくに整備されていないことがバレた。

渡邉氏はいう。「そろそろ名士の話をしてもいいですか」と。
孫堅は、呉郡や会稽の名士と、接点ゼロ。孫策は、名士を弾圧した。孫権の軍事制度は、武将を優遇した。しかし、こんな方法では、地域の支配は安定しないですよ。名士の協力が必須ですよと。

袁術と孫氏_224

『後漢紀』巻二六はいう。董卓は述べた。
「ただ二袁児さえ倒せば、天下は服すのに。孫堅は烏合だし、関東の諸侯は、論じる必要すらない」
この記述は例外として、史官は袁術につめたい。孫氏が袁術に駆使されたことに違和感を覚えるほど、袁術の扱いは乏しく記録は少ない

方詩銘はいう。何進は『後漢書』何進伝で、袁術を「気侠」と評した。袁術は、宦官を打倒するとき活躍した。遊侠の士に、曹操を襲わせた。袁術の性格は、何進の云うとおり「気侠」だ。だから孫堅ら「軽侠」と結びついた。しかし所詮は、袁術は匹夫の勇だった。深謀遠慮がないから、袁術は自滅した。

まえに上谷浩一氏の論文を見たとき、方詩銘氏が紹介されていた。論文の中身は、これだろねえ。読む気が、失せてきました。笑
でも、同時代に任侠だと形容された人を、網羅したい。袁術が任侠の人なら、それを妄想すべきだ。もし任侠でなく、史家の悪意?により、任侠の人だとウソを書かれているなら、逆にそこから、妄想することもできる。中国の歴史書は、失敗した人をけなすとき、原因を個人的な性格のせいにすることが多い。趨勢の分析いらずで、お手軽だから!


渡邉氏は、方詩銘に反論する。
袁術は、任侠的な習俗によって、捉えきれない。むしろ、任侠者が無視をするはずの「出自」を使い、勝ちあがろうとした。後漢の高級官僚であることが、即位の根拠になった。
下邳の陳珪とは、どちらも三公の子弟だから、仲がよかった。張範と張承の兄弟は、司徒の張歆の孫である。袁術は、三公の一族と価値観を共有し、勢力の基盤をつくろうとした。

とりあえず、三公の子弟で、後漢末にイキがいい人を、リストアップしてみるか。袁術が、接触したかも知れない。
この偏った交際方針にもとづくと、曹操もリストに入る資格があるなあ!

袁術の思惑に反し、陳珪も張承も、袁術への臣従を強要されたが、受け容れなかった。袁術の方針が「自己撞着」するからだ。
漢室を支える三公の家柄が、袁術の正統性だ。だが袁術は、漢室から簒奪するという。矛盾する。

以前にぼくは、書いたことがある。
袁術が、漢室から「簒奪」したのか、「禅譲」のロジックを整えたのか、史料からでは分からない。渡邉氏は、ただのイメージだけで「簒奪」と云っている。袁術は、悪者だから、簒奪にちがいない!と。論文に根拠が記されないから、ぼくには、これを指摘することができる。
范曄が袁術をけなすのは、勝手にやってもらえばいい。しかし後世の研究者まで、范曄の編集方針を、無批判に継承する必要はない。
(渡邉氏は吉川英治から入った。袁術をけなす心情は理解できる)笑
もし袁術に「禅譲」の名目があれば、曹操と同じである。曹操だって、漢室を助けるという名目で、四方を平定しておきながら、曹丕のとき「禅譲」を受けた。「自己撞着」じゃん!
はじめ前王朝の高官をやり、のちに自前の王朝をつくった人は、例外なく「自己撞着」に陥るものだ。中国史の、つねである。袁術が失敗した理由としては、説明が不充分だと思う。

孔融が許劭が、袁術を否定した理由も、自己撞着だろう。
先主伝で孔融は、袁術を墓の骨といった。劉繇伝がひく『漢紀』で、許劭は袁術をサイ狼だとコメントした。

孔融は北海、許劭は汝南の鑑定家です。
ぼくは疑問がある。なぜ袁紹は何顒グループに加入できて、袁術は名士の人脈から漏れたのか。袁紹がへりくだり、袁術が驕った、というキャラクターの問題は、史料から読みとれる。しかし、それだけか。
何顒グループの共通の目標は、董卓を討つこと。董卓に大ダメージを与えて、洛陽から追い出したのは、袁術と孫堅だ。支持されたと考えるほうが、自然だと思います。これは、ぼくの妄想ではないはず。
史料の袁術は、あまりにお友達が少ない。二袁の一角とは、思えない。ぎゃくに不自然だ。じつは、袁術を英雄だとコメントした「名士」予備軍が、いたのではないか。予備軍は、①主流になれずに没落したか、②袁術が失敗したあとに発言を撤回したか。ぼくは疑っています。
検証を。
①没落したと考える場合。史料に残らない、人脈ネットワークを、見つけねばならん。南陽あたり、あやしい。いま思いついた!
党錮のころ、南陽は党人の産地だった。洛陽にいた袁術は(予約せず)いきなり南陽に行き、董卓に対抗できた。南陽を中心に、袁術を支持するネットワークがあったのでは? 劉表政権で、劉表と距離をおいた「名士」たちは、もと袁術派だったとか。渡邉氏っぽい言い方をするなら、袁術は南陽名士の在地社会への規制力に期待した。笑
袁術と劉表は、荊州をめぐって争った。劉表は、蒯越や蔡瑁だけを味方にして、ほかを排除した。旧袁術派は、荊州にくすぶりながらも、劉表政権からもれた? しかし劉表に臣従しなくても、拠って立つ支配力を、南陽名士たちのネットワークは持っていた。
(名士を過大?評価する、渡邉氏っぽい話になりました。笑)
龐徳公や司馬徽は、袁術を支持したのではないか? 司馬徽や龐氏は、潁川出身だ。孫堅が董卓を追いはらったとき、袁術は潁川も支配していた。ここからは、妄想ですが。諸葛亮のおじは、袁術の配下だった。諸葛亮は、元チーム袁術だから、司馬徽や龐徳公を頼った。こう言える?
荊州の劉表派は、曹操にしたがった。袁術派=反劉表派は、次世代のホープ・諸葛亮に連れられて、蜀漢の高官についた。さすがに世代が違うから、カンタンにイコールで結べない。知ってます。しかし、渡邉氏みたいに、人脈をつなげる図を描けば、そうなる!
そういえば、諸葛亮の友人の崔州平は、三公の子弟だ。袁術を支える側に回ったせいで、荊州でヒマをしていたのかも?
『三国演義』で、司馬徽の人脈は、途中から登場する。膨大なネットワークなのに、劉備と出会うまで、表に出ない。言いたがりで、自己アピールが好きな名士にしては、不自然。のちの動きから見ても、出たがりが多い。司馬徽たちが集団で引きこもる理由は、袁術を絶賛するというオテツキが、あったからではないか?
つづいて、
②発言を撤回した場合。
渡邉氏がいうように、人物鑑定なんて、恣意的で分裂しがちなものだ。はじめ袁術はすごい!と褒めていた人も、自分の見る目のなさを隠したいから、あとから袁術の悪口を上書きしたはずだ。
占い師が正月に「今年の出来事」を10コ予言し、1コでも当たると「みごと的中!」と騒ぐ。外れた9コのことは、忘れるのが人情だ。人物鑑定家のコメントだって、同じ原理で選別されてないか?
満田剛先生は、劉表に対する好意的なコメントが史料にないことに着目し、旧劉表の臣が、口裏を合わせたと考えた。「劉表だけがバカだから、荊州が曹操さまに帰順するのが、遅れたのですよ」と。史料に残らないだけで、いくらでも想定できる現象だと思う。


袁術で騒いでしまった。次ページにつづく。
ちゃんと、孫呉政権論をやらないと。でも、けっきょく孫権と張昭が、せめぎあうだけの話なんだが(ネタバレ)