表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第3章「孫呉政権論」要約と感想

1節_孫呉政権の形成と「名士」(2)

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


袁術と孫氏_226

前回、袁術で盛り上がったので、論文の節が進んでいません。もうすぐ袁術が終わるので、トーンダウンして、あらい要約にもどります。

袁術政権は、軍事行動のおおくを、孫堅と孫策に依存した。孫堅は、軍糧などの経済的側面を、袁術に依存した。孫堅は、補給を可能にする拠点がなかった。
孫策は、九江と廬江で太守になれなかった。袁術は、故吏を太守に任命した。孫策は、袁術にいいように利用された

『真・三国無双5』の甄姫である。
渡邉氏は、袁術について、語彙にカドが立つなあ。キライらしい。

石井仁1995aは、孫策は袁術にとって、広義の「部曲」として行動したと評した。渡邉氏は、これに「首肯」した。孫策は、呉郡南部と会稽を支配した。袁術が僭号したとき、孫策は自立した。

さっき書きましたが。満田剛先生がおっしゃるように、韋昭『呉書』は、孫氏が後漢をたすけて、天下統一をする予定の本である。
孫策が自立するなら(たとえ事実と反しても)袁術が僭号するタイミングだと描かなければ、王朝の正統性が保てない。孫策の自立のタイミングは、じつは史料では、よく分からない。とぼくは思ってる。


孫策が袁術を頼ったのは、孫策集団に名士がいないから。
袁氏のカンバンは、袁紹が反董卓のトップになったように、名士に対して有効である。

ほら、やっぱり、袁術を支えた、名士予備軍のネットワークを想定しないと、気持ち悪いじゃん。渡邉氏は袁術がキライだから、そんな可能性を示さないが。

袁紹も袁術も、漢室からの簒奪を、早いうちから掲げた。だから失敗した。漢室400年の歴史は重いのだ。漢室をたすけることを掲げた、曹操や劉備や孫権が、勝ち残った。

十歩くらいゆずり、袁術が「簒奪」だとしましょう。袁術が「禅譲」の名分を整えた史料が、ないからです。
しかし、袁紹が「早いうちから」「漢室の簒奪を掲げ」たと、渡邉氏が注釈で述べるのは、おかしくないか これこそ、史料的な根拠がない。っていうか、陳寿や范曄に反しているじゃん。
(「早いうち」というのが、いつなのか定義されてませんが)
渡邉氏は、注釈する。袁紹と袁術は、どちらも三公の家柄を正統性にすえた。価値観がおなじだから、袁紹と袁術は競合する。『後漢書』袁術伝で、袁紹は袁術から帝位を譲られると聞いて、喜んだ。袁紹と袁術が、同一の価値観を持っていたことがわかる、と。
ぼくは思う。『後漢書』は、袁術をもっとも敵視する。袁紹もにくむ。無批判に内容を信じ、論拠にしてしまっていいのか?
思うに、
渡邉氏は、三国ファンだから、三国の君主を応援したくて、しかたない。何度も同じことを云いますが、心情的には、理解できます。しかし、それは陳寿や羅貫中が提供している、ゆがんだ後漢末ワールドです。三国鼎立という結果からさかのぼり、予定調和的に、190年代を見てはいけない。史料批判が、すこし甘いと思います。
前にぼくは、渡邉氏の名士論が、「魏晋貴族が、理想的に描いた自画像」である史料に、踊らされていると書きました。いまも同じ意見です。やはり史料批判が、甘い気がする?かも?
権威ある論文にたいして、ぼくは何を云っているのでしょう、、


孫氏と袁術は、政権存立の基盤におく理念がちがった。袁術は漢室を簒奪する。孫氏は、漢室を匡輔する。『呉歴』に載っている、張紘のプランだ。張紘は、孫策のために方針をつくった。
孫策の「漢室匡輔」に賛同した名士が、名門の周瑜だ。

袁術が、終わってしまった。笑
理念がもとから違うなら、孫堅も孫策も、はじめから袁術を攻めていれば、よかったと思います。頼ってたじゃん。ぼくは張紘の「漢室匡輔」プランは、あとづけだと思っています。孫呉が安定してから、創作された。


北来「名士」と江東人士_228

周栄は、袁安の腹臣。従祖父の周景は、反宦官の中心。陳蕃、李膺、杜密、荀緄を故吏とした。周景と周忠は、太尉。周瑜は音楽にくわしく、文化的価値を占有した。

周瑜だけが、ただしい楽譜を持っているから、みんなビクビクして演奏した。もしそういう意味での「占有者」だとしたら、性格が悪いなあ。

周瑜は、孫堅の漢室復興に共感した。周瑜は孫堅の武力を利用し、孫氏は周氏の名声を利用した。利害が一致した関係だった。

周瑜の上の世代が、孫堅支持を判断したんだろうが。

名士・周瑜がくわわったおかげで、専伝をもつ揚州出身の人士が、孫策のとき10人を越えた。孫堅のときは、朱治ひとりだったのに。

専伝がある人数から判断する手法が、渡邉氏のもっとも痛い弱点だと思う。史料批判が甘いと、ぼくが不遜にも云っている理由です。
専伝のある揚州出身者がふえた理由は、2つだ。①場所と②時期だ。
まず①孫氏の活動拠点が、荊州から揚州に移った。これは、名士・周瑜の加入と、直接リンクするか怪しい。孫堅は、拠点とした徐州や荊州で、武人をあつめた。孫堅と同じノリで、孫策や孫権は、拠点とした揚州で、武人をあつめた。だから、揚州人がふえただけ。
つぎに、②時期。孫堅の時期よりも、孫策の時期のほうが、孫呉王朝の成立と、タイミングが近い。孫堅から孫権よりも、孫策から孫権に引きつがれた人材が多いのは、当然だ。「呉志」の専伝で比べるなら、孫堅の臣下は、人数が少なくなりがちだ。どこまで、周瑜のおかげか?
(孫堅集団は、荊州で解散した。「呉志」にない揚州人がいたかも)
ぼくは思う。
孫晧の時代の事情にもとづき、『呉書』が書かれた。『呉書』の構成を鵜呑みにして、孫策の時期を復元するのは、難しいと思う。
(孫策のおかげで、孫晧は史書の編纂を命じる立場になれたのだが)
コトバは主観的でウソをつくが、スウジは客観的で正直。これは正しい。だが専伝の人数は、ちっとも客観的な指標にならないと思う。
曹魏の潁川人士にも、同じ疑問がある。後日、やります。


孫権がついだ直後、不安定だった。だが、周瑜が敬意をはらったので、孫権は孫策をつぐことができた。廬江の周瑜は、影響力がある。
程普は、名士でない。出身階層がちがうから、程普と周瑜は対峙した。
周瑜は中護軍になった。張紘は、孫権が曹操から将軍号をもらうため、外交した。
張昭は徐州名士をまとめた。張昭によって、広陵太守の趙昱、会稽太守の王朗を取りこむことが、期待された。趙昱と王朗は、どちらも徐州人士である。
陸遜の弟・陸瑁は、北来の名士の面倒をみた。孫氏が北来の名士をむかえることは、陸氏ら江東の名士を従わせるためにも、有効だった

陸瑁が面倒をみた人名リスト、全員知らない人でした。
孫氏が北来をむかえれば、江東を従わせることができる。渡邉氏の論法は、何回か読み返しましたが、よく分かりませんでした。陸瑁伝を読んで、出直そう。陸瑁伝があるとも、知らなかった。


北方の人士で孫策をよく知らない人は、江東の平定を、張昭の手柄だと考えた。手紙を送って、たたえた。
孫策は、名士と対立した。孫策は、呉郡の陸康を攻撃した。会稽の盛憲を攻撃した。呉郡の高岱、会稽の周昕も、孫策とぶつかった。孫翊は、盛憲の故吏に殺された。
孫権は、名士と和解した。張昭は、厳畯を推した。諸葛瑾、魯粛、歩隲が参加した。陸遜が参加した。ただし孫権は、名士と矛盾した。陸績は、鬱林太守に左遷された。会稽の虞翻は、流刑された。会稽の魏トウは、殺されかけた。

あえて「名士」と名づけなくても、新興君主と在地勢力が衝突するのは、ありそうなこと。だと思うのだが。
どこまでが「一般的」で、どこから「特徴的」なのか分からん。渡邉氏の名士論は、このような衝突を「特徴的」だと言いたいのだ。うーん。

孫権と名士の矛盾は、曹操の南下で顕在化した。

赤壁の戦_235

荊州で曹操に降伏した名士は、曹操に厚遇された。揚州の名士も、曹操に厚遇されることが、期待できた。
名士は、党人を淵源とする。党人は、漢室を再建したいと願った。曹操は、漢を再建した。名士が曹操に帰順するのは、元来の価値観にかなうことだ
しかし周瑜だけは、太尉をだした「廬江の周氏」という誇りをもち、曹操を批判した。周瑜のとなえる漢室匡輔は、現実味の欠ける。袁術を批判して独立したから、孫氏は漢室匡輔の旗をおろせない
魯粛が、漢室をつぶせと言ったほうが、現実的だ。しかし孫氏は、袁術を批判した手前、魯粛の提案を聞けない。

魯粛は、なにがやりたいんだろう。漢室は滅びていいというスタンスなら、袁術と孫策がダメで、孫権がいい理由が、よく分からん。
魯粛が袁術を支持した、とか、そんな妄想は作れないだろうか。笑


江東人士は、沈黙した。
呉郡の沈友は、『呉録』で孫権を批判した。
「孫権は、うわべとは異なり、漢室を蔑ろにする
孫権は、沈友を殺した。
陸遜は、孫呉の強大化を主張したことはない。山越討伐、儒教護持、法律がゆるい寛容な統治、商業政策の否定、農業の振興、租税の軽減。陸遜がいうのは、漢代の寛治と、江東人士の権益保全だけだ。赤壁のとき陸遜も、沈黙した降伏論者だっただろう。

赤壁で戦おうとしたのは、孫権、魯粛と周瑜、軍部だけ。
勝った孫権は、曹操を倒して、漢室匡輔をめざす。しかし周瑜が死ぬと、孫権が漢室匡輔できる現実味は、うすくなった。孫権は方針をかえて、魯粛が説いたように、江東での自立政権をねらう。

渡邉氏の説明では、周瑜が、後継者に魯粛を指名した理由が、説明できないのでは?渡邉氏がいうには、周瑜は三公の家だが、魯粛は「凡品(呉主伝)」出身だから、発想が柔軟だったと。立場がちがい、意見がちがうなら、なぜに魯粛が後継者? 死に際に周瑜は、漢室匡輔の志を捨てた? 渡邉氏の周瑜は、そんな人なのか。笑
渡邉氏は注釈する。孫呉は、蜀漢の「漢室再興」のように、曹魏と対決できる正統性をつくり損ねた。だから玉璽が創作された。裴松之が批判することだ。孫呉の正統性の創出については、柳瀬喜代志1994を読む。

孫権は、張昭ら北来名士と信頼をもてず、対峙することになった。つぎの論文へつづく。