表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第3章「孫呉政権論」要約と感想

2節_君主権の強化と孫呉政権の崩壊

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


はじめに_249

川勝義雄1973はいう。孫権との任侠的主従関係が、孫権が死んで解体した。開発領主が、自立化を示した。商業が拡大し、地域格差ゆえに屯田制が崩壊した。だから孫呉政権はほろびた。
だが石井仁は、孫呉が、開発領主の体制でないことを示した。

張昭の行方_250

孫権から名士への矛先は、さきに会稽の虞翻にむかった。
虞翻は孫策のときから、功曹従事として人事を担当した。襄陽の龐統や、呉郡の陸績と交友した。5代にわたって『孟子易』を研究した。注釈を孔融に送った。荀爽、鄭玄、宋忠を批判した学者だ。

『孟子易』は、袁術の祖先・袁安も、やってた気がする。どれくらい、メジャーなジャンルなんだろうか。

孫権は、曹操が孔融を殺したことを引きあいにだし、虞翻を殺すことを正当化した。

「呉主伝」は『魏略』をひく。
孫権は、呉王に封建された理由を説明した。
「いちど曹魏に降伏し、官位を高めたあと、叛くつもりだ。曹魏から討伐の兵を送られて、呉内で曹魏への敵愾心をあおってから、皇帝になるつもりだ」と。
「呉主伝」は『江表伝』をひく。
『魏略』にある孫権の思惑に反して、郡臣は一貫して、曹魏から冊封を受けることに反対した。
渡邉氏はいう。名士は漢室匡輔を、価値観にすえる。いつわって曹魏に降伏するという、孫権の方法論を、名士は納得しなかった。孫権と名士は、対立を深めたと。

ぼくは思う。『魏略』と『江表伝』は、ちがう本である。あたかも同じテーブルで、孫権と名士の論争が起きたように、捉えてはいけない。
『魏略』は、曹魏バンザイだ。孫権に詭弁を吐かせて、バカにしたい。
『江表伝』は、孫呉バンザイだ。孫権が曹魏に封じられた史実は消せないが、少しでも弱腰な過去をごまかしたい。だから、郡臣が一貫して反対したと、描いたのだろう。
孫権と名士は対立したかも知れないが、この史料は根拠にならん。


孫権と張昭は、丞相職をめぐって対立した。名士の「衆議」は、張昭を丞相に推した。張昭は、曹魏の使者の無礼を叱った。周漢を模範にして、孫呉の朝儀をととのえた。赤壁のとき降伏を主張したのに、張昭は尊敬を受けつづけた。

孫呉「名士」社会_253

北海の孫邵は、張昭と同じ北来の名士だ。
虞喜『史林』は、孫邵の専伝がない理由を、張温が韋昭に書かせなかったからとする。孫邵は、張昭とトップとする孫呉名士社会で、孫権に迎合して、張昭を差し置いて丞相になった。だから抹殺された。

蜀漢のときは、諸葛亮がくだした人物評価により、蜀漢名士社会というものがあったと、渡邉氏は書いていた。孫呉にも、同じように、一丸となった評価体系を想定している。このあたり、ぼくは史料が読めていないので、何とも言えない、、

孫邵は、張温とキエンから、弾劾を受けた。

孫邵を閉めだした張温は、呉の四姓の出身。
父の張允は、孫権の東曹掾だ。
張温は、北来の劉基、呉郡の顧雍から、人物評価を受けた。劉基が云うには、全琮の「輩」であると。評価者の顔ぶれから、地域のワクを越えた、孫呉名士社会を見つけられる。

張温の生没年は、193-230らしい。

張温は、呉郡のキエンと、広陵の徐彪を、並べて選曹郎にもちいた。江東と北来の名士をあわせて、孫呉名士社会をつくった。孫権に口を出されない秩序をつくった。

孫呉名士社会をつくったのは、張温!
まずは張温伝を読まないと、始まらないなあ。


孫権は張温に妥協した。太子の孫登のために、名士からも軍部からも、満遍なく人をあつめた。江東名士から、陸遜と顧譚。北来名士から、諸葛恪と張休。軍部から陳表というバランスである。
ほかに、南陽の謝景、広陵の范慎、丹楊のチョウ玄、南陽の羊ドウを賓客とした。
東宮では、人物評語「目」が作成された。孫呉名士社会が、開花した。

関羽を討ち、孫権が呉王や呉帝になるあたりが、深まらなかった。興味があったのになあ。以下、まだ史料が読めてない時代なので、簡潔に。


二宮事件_257

孫権は、自分より張昭が尊重されているから、不満だ。孫権は、君主権力の強化につとめた。中書郎の呂壱や秦博をつかった。だが、呂壱が個人的に増長したので、孫権はやめた。
儒教を信じる名士は、皇太子の孫和を支持した。君主権力を強化したい近臣は、魯王の孫覇を支持した。孫権は、君主権力を強化したいけれども、名士に妥協して、魯王派もさばいた。

諸葛恪政権_262

諸葛恪政権は、名士による寛治。魏の中正官とほぼ同質の「太公平」というポストが設置された。宗室を、長江沿いから遠ざけた。諸葛恪は、みずから北伐した。だが諸葛恪は、諸葛亮ができたことを、できなかった。軍部の掌握、名士の一体化、君主との信頼など。
諸葛恪は、元魯王派の孫峻に、打倒された。名士政権は、崩壊した。

諸葛恪=名士政権なのか、後日検証。


醒めた孫晧_266

孫峻と孫綝は、君主権力を強化した。
つぎの孫休は、名士に政治を任せた。
最後の孫晧は、君主権力を強化した。滅びた。

スーパー・テキトーですみません。
自分で原典を読み込んでいない時代は、何とも言えません。


渡邉氏は注釈の最後で、『江表伝』をのべる。
著書の虞溥は、孫呉の支配地でない、高平郡の出身だ。鄱陽内史として、赴任した。虞溥は、孫晧を賛美する必要性はない。『江表伝』は、比較的偏向がすくない史料であると思われる。

おおいに反論があります。
『江表伝』ほど、孫呉バンザイな史料は、なかなかない。
たしかに虞溥は、孫呉と利害関係のない人だ。なぜなら孫呉の滅亡後に、赴任してきたから。しかし『江表伝』は、現地の伝説を、節操なく、せっせと集めた本だと思います。孫呉を正統化する神話は、こんなに浸透していたのか、と驚かされる。
『晋書』虞溥伝を訳し、『江表伝』の作者を知る


第3章「孫呉政権論」を要約しおえて

孫権の晩年や、孫権よりあとの皇帝の時期、
名士論の観点からは、おもしろくなりそうです。

今年、ぼくが関心があるテーマが、袁術と、呉志第九です。

袁術について、渡邉氏への反論として、1本書けそうかも?

これに満足したら、孫権の後半を調べたい。
そのとき、渡邉氏のこの論文に帰ってきます。100730