01) 歴史学の目的の三区分
遅塚忠躬『史学概論』第1章 歴史学の目的
抜粋と感想です。
歴史学の目的は、3つに区分できる。という話。
歴史学の「意義」と「目的」の区別
歴史学の目的について、先行者の発言を2つ紹介。
コリングウッド:過去の行為を知り、人間の自己を認識
伊藤貞夫:私がよく生きるため、社会的な自己を認識
遅塚氏は、先行者に2つの問題点を提起。
1.自己を認識することは、歴史学固有の目的でない
2.自己を認識できるのは歴史学の効用であり、目的でない
目的が、そのままイコールで効用となれば、実学である。
だが歴史は実学でない。目的と効用が、ちがう。
歴史学の効用は、たしかに自己認識かも知れない。しかし歴史学をやる目的は、好みに応じて設定できる。これが歴史学の特徴!
歴史学の目的の多様性
マルク・ブロック「パパ、歴史は何の役に立つの?」
これは、最初にして最後の問題。
この問題に対し、3つの答えがある。3つのあいだで、優劣の差はない。
歴史学の3つの目的
ライプニッツが、手がかりとなる。
「歴史に求めるものは3つだ。1つ、独特なものを知る喜び。2つ、人生に有益な規範。3つ、現在の起源や原因」
ライプニッツをもとに、遅塚氏の3つの目的を設定。
1.歴史的なものへの、知的興味を満足させる(尚古的)
2.過去に照らして、現在を反省する(反省的)
3.歴史が発展する筋道を考える(発展的)
目的がちがえば、方法がちがう。
1.尚古するなら、個性記述的な方法
2.反省するなら、静態重視的な方法
3.発展するなら、動態重視的な方法
尚古的(個性記述的)歴史学
歴史が好きだから、過去に興味があるから、が学びの動機。根源的な欲求。
具体的な時代や事件、人物が対象となる。これらを歴史的個体という。
歴史的個体は、1回限りのもの。だから興味&愛着をもつ。
歴史を知るの出発点は、現在の自己にある。
歴史的個体を描きつつ、自分語りをすることになる。
学問のレベル高めるなら、「歴史が好き」だけでは足りない。
同時代の周囲との相互関係、時間の推移のなかでの因果関係を、おさえておかねばならない。個別に人物や事件を描いただけでは、学問ではない。
また、文学作品が、おなじ動機から描かれることに、気に留めておく必要がある。
現代、尚古的歴史学は、個別の伝記や事件史にとどまらない。
言説・記憶・伝説をふくんだものとして、読み解かれる。シンボル、儀礼、祭典、記念碑、図像などから、文化を読み解くのにつかう。
反省的(静態重視的)歴史学
過去に照らして、現在の社会&文化を反省する。
日常生活や習俗、ものの考え方、人間の結合、公共との係わり方。これらがもつ問題を解決するため、歴史を学ぶという態度だ。
過去を参考にするため、過去と現在を対比させるべきだ。対比させるには、2つの方法がある。
空間的・共時的: おなじ時代で、ちがう地域
時間的・通時的: おなじ場所で、ちがう時代
対比するためには、過去を固定しなければグラグラする。つまり過去を、動かぬ静態として捉える。
(方眼紙の比喩は、遅塚氏は云ってない。ぼくのオリジナルです)
1回きりの個人や事件(歴史的個体)に注目するとき、方眼の目は、もっとも細かくなる。すこし拡げれば、例えば「190年代の長江流域」が対象となる。さらに緩めて「後漢末の中国」となり、ぐっと拡げて「古代」というおおきな升目にすれば、ローマと中国の共通点を述べ始めたりする。もっと拡げれば「人間のサガ」まで、一般化されるでしょう。笑
ところで。
「比較を可能にするために、とりあえず固定する」
という話のみちびき方って、すごく美しいと思うのです。日常生活でも、つかいたい発想だと思います。数学の授業で、変数を固定したが、あれにも通じるか。
歴史を静態的に捉えるのは、アナール学派から生じた「社会史」だ。
社会史は、目まぐるしい政治や外交をえがく「事件史」に反発した。歴史のなかで持続し、ゆっくり動く中間層=社会に注目した。
また社会史は、同時代の横のつながりにおいて、共通するものを扱う。共通するものがもつ、特徴的なパターンは「構造」と呼ばれる。
例えば。どれだけの人数が生まれ、どんな確率で死ぬか。どれくらい生きるか。人口の動態によって、社会や経済の構造は決まってくる。文化構造も決まってくる。
方眼の升目を広げて、なんでも「同じだ、同じだ」と言いたがる風潮の産物。
反省的歴史学の注意点を、二宮宏之氏がいう。
「現在はすぐれ、過去はバカと云ってはいけない。昔は良かったな、とひたるのでもない」
現在と過去が、緊張感をもって対話することが大切。現在や過去を、さばくために、歴史学をやるのではない。
また、歴史学をやって反省した成果を、どのように利用するかは、歴史学が関知しない。江戸時代のリサイクルが素晴らしいからと云って、現代のエネルギー問題を解決するのは、歴史学者がやることではない。
遅塚氏をふくめ、みんなの念頭にあるのは、国民国家に「役立った」歴史学の功罪でしょう。あのとき歴史学は、たしかに役に立った。というか、現代の歴史学という学問そのものが、国民国家とともに、発展してきた。
いま、国民国家に「忘恩」して、歴史学が自立しようとしている。笑
発展的(動態重視的)歴史学
歴史が発展する筋道を考える。因果関係の連鎖をさがす。さらには、発展には法則があると考える。近世のヨーロッパで生まれた発想。啓蒙思想。ヘーゲルやマルクス。
ただし、べつにプラスに進んでいくことを証明するのが、この歴史学の目的ではない。「発展」でなく、「推移」とか「変転」というほうが、適切だ。
注意点。歴史が推移する筋道を「知る」のでなく、「考える」ことが目的だ。
もし「知る」と云ってしまうと、法則が存在することが前提になっている。これは、たとえばマルクスの考え方だ。だが、マルクスに迎合する必要はない。法則が存在するかどうか、それは分からないという前提にたち、筋道を「考える」と表現しておく。
推移をあつかう歴史学では、将来を予測することが期待される。つまり、将来にまで延長することができる、歴史の法則が、見つかるのではないかと、期待される。政策の提言に役立つのではないかと、期待される。
しかし政策の提言は、歴史学の役割ではない。歴史学は、あくまで徹底した現状分析をするだけ。将来については、知らん。もし歴史学が、政策の参考になっても、オマケとしての効用でしかない。
もし歴史を、政策の提言につかうなら、どうするか。歴史学ではなく、経済学のなかの経済史、法学のなかの法制史、政治学のなかの政治史にやらせればよい。
遅塚氏が強調したいのは。歴史学は、少なくとも3つの目的があるように、ソフトな学問だということ。
1節のぼくなりのまとめ
ぼくがさっき述べた、方眼紙の比喩で、3つの目的を整理。
タテ軸に時間。ヨコ軸に地域。こんな方眼紙を想定。
方眼紙の1マス1マスを、顕微鏡で見つめるのが、尚古的(個性記述的)。ひろくヨコを見渡し、共通点を指摘するのが、反省的(静態重視的)。ながくタテを見渡し、推移する傾向を考えるのが、発展的(動態重視的)。
いずれの手法も、ゆくゆくは、方眼紙全体を見渡すのが目標。そして、方眼紙を見ている自分自身を知ることが、オマケ的な効用。
三国志の勉強への活用
遅塚氏の本をもとに、思いついたこと。
三国志ファンは、世界史の方眼紙のうち、タテ軸は184年-280年、ヨコ軸は後漢の領土で区切るのだろうね。これが、陳寿『三国志』が提供した題材だ。「陳寿による切り抜き」とでも言おうかなあ。
つぎにやることは、2つだけだ。
1.必要に応じ、陳寿による切り抜きより外側を、つなぐ
2.陳寿による切り抜きのなかに、区切り線をひく
1について。
「三国志を知るには、梁冀を知らねばならん」と思えば、さらに前を40年分くらい、タテに方眼紙をつぎ足せばよい。「八王の乱で、魏の地方軍の特性が明らかになる」と思えば、後を30年分くらい、足せばよい。
「異民族や周辺地域こそ、蜀漢の戦略を知るのに重要」と思えば、ヨコに拡げればよい。シルクロードを、対象としてみたり。
2について。
満足いく面積の方眼紙が得られたら、自分が便利なように、区切り線をひく。「おなじ性質だと、見なしていいだろう」という、時間軸と地域軸をまとめる。理論上、方眼紙は無限に、こままく切り刻むことができる。
しかし、方眼紙をパルプの粉末にしても、なにも発想できないはずだ。
ここまでやったら、遅塚氏の3つの目的・手法に照らして、分析をするんだろうね。1マスを見つめる。ヨコを比べる。タテを追いかける。
この3つは、独立したべつの方法じゃなかろう。複雑にからむ。同一の対象でも、線をひく細かさにより、使う方法が変わってくるはずだ。(構想あり)
遅塚氏の本、次節へ。歴史学の3つの目的が、どのようにからむか。