03) 歴史学の目的と効用
遅塚忠躬『史学概論』第1章 歴史学の目的
抜粋と感想です。
歴史学の目的は、3つに区分できる。という話。
目的のつぎは、効用の話
1節(2ページ前)で遅塚氏は云った。
歴史は実学ではない。目的と効用はちがう。と。
3つの目的の話は終わった。
つぎは、目的とは、その中身が異なるという、歴史学の効用について。
書き手と読み手の相互関係
歴史学の作品は、一般読者にどのように読まれるか。
なぜ、わざわざ、こんなことを問題にしなければならないか。
作品(テクスト)は、読まれ、受け止められる過程で、はじめて意味が生じる。近年の風潮では、こう云われているから。
まずはじめに。書き手が、3つの歴史学の手法をつかったとき、どんな効用を期待しているか。
● 尚古的:個性の記述が、生き方に示唆を与える
● 反省的:過去と対比して、現在をかえりみる
● 推移的:変化の過程を知り、現状の理解を深める
以上のような書き手の期待は、読み手に裏切られる。医学書や法学書のように、用途がハッキリしないのが、歴史学の作品の特徴だから。
読み手がもつ目的、期待する効用
歴史家は、自分が想定しなかったかたちで、作品が利用されることを、拒否できない。
読み手が歴史学に期待するのは、4つだ。
1.実用的な教訓、将来への指針がほしい
2.ある人物や事件を、審判したい
3.芸術(文学作品)にからめたい
4.イデオロギーとのからみ
1.の教訓については、歴史学は無視する。すでに1節(2ページ前)で遅塚氏が云ったこと。たまたま教訓にしてくるのは、べつに構わない。でも、教訓にしてもらうために、歴史家は筆をとらない。
4.イデオロギーについては、べつの章で論じる。
というわけで、2.審判と、3.芸術について述べてある。
「地獄の裁判官」
事件や人物の評価が定まらないとき、読者は歴史家に、審判を期待する。
しかし歴史家は、全面的な判決をくだすことは、できない。つまり、地獄の裁判官ではない。
歴史家がおこなうのは、読者に対して、事実を提供すること。論理関係について、考察した結果を、提供すること。歴史家がつくった既製品をもとに、読者はじぶんで判断する。
歴史家は、例えばロベスピエールの「本質」や「ありのままの姿」「実像」を描くなど、できない。遅塚氏はいう。隣に寝ている女房の本質さえ、わからない。ロベスピエールの本質など、わかるはずがない。
「詩人の直感力」
小林秀雄がいう。
「歴史と文学は、一致する。天稟の詩人の直感力で、本当の姿を見ろ」
遅塚氏は、小林秀雄に反対する。歴史家は詩人じゃないという。歴史学は、事実と論理だけをあつかう。直感で、真実をつかみとりはしない。
たしかに歴史家は、文学的な美や感銘を、経験することもある。だが美や感銘は、歴史叙述の目的ではない。言葉の芸術にかんしては、歴史家はひとりの素人に過ぎない。
読み手と書き手の関係について述べれば。
文学者は、そのまま着られる、既製品の服をつくる。真実像を、そのまま提供してくれる。いっぽう歴史家は、布地を提供するだけだ。読者は、自分で服を作らねばならない。
出版社の入社試験で、三題噺を書かされる。その評価は「面白い」「つまらない」の2つだけ。部分点など、ないらしい。これが文学だと思う。持論です。
歴史の効用について結論
この節の結論。歴史家は、どのように作品が読まれるかを、約束されない。だからと云って、自暴自棄になるのは、早い。
歴史家は読者に、思索の素材を提供する。素材がおおいほど、読者の選択肢がひろがる。読者が、社会的な自己を認識するとき、役に立つだろう。
3節、ぼくなりのまとめ
遅塚氏は、歴史学の読者に、こう云っているんだ。
「自分で考えろ。なんでも、与えてもらえると思うな」
歴史学の作品はそのまま、すぐに役立つことはない。そもそも歴史学者は、役に立ててほしくて、執筆するのではない。読者は、その点を諒解して、自己責任で読めよと。爽快なほど、傲慢。笑
1章、ぼくなりのまとめ
1節(1ページ目)で抜粋した、3つの目的と手法は、役に立つ。頭のなかが、スッキリしました。
2節では、尚古的な歴史学が、やたら褒められていた。歴史家は、個別の人物や事件を「知りたい」という欲求からスタートする。一次史料を、たくさん、たくさん、読む。この姿勢は、充分に科学なんだと。
老歴史家の、生き様を描いたような章でした。
3節は、読者を切り捨てていました。遅塚氏が読者にきびしいのは、言語論的転回の影響でしょう。このテーマは、べつの章で、とっぷり語られています。お楽しみということで。笑 101223