02) 曹仁、曹洪、曹休、曹真
『三国志集解』で、巻9をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、曹操の親族。200年代前半まで。
曹操の祖父の兄の家柄、独立した精鋭・曹仁
曹仁字子孝,太祖從弟也。
魏書曰:仁祖褒,潁川太守。父熾,侍中、長水校尉。
曹仁は、あざなを子孝。曹操の従弟。
『魏書』はいう。曹仁の祖父は、曹褒だ。潁川太守となる。父は、曹熾だ。侍中、長水校尉となる。
ぼくは補う。曹操の祖父の兄の家柄。曹仁のほうが、血筋がいい。
少好弓馬弋獵。後豪傑並起,仁亦陰結少年,得千餘人,周旋淮、泗之間,遂從太祖為別部司馬,行厲鋒校尉。太祖之破袁術,仁所斬獲頗多。從征徐州,仁常督騎,為軍前鋒。別攻陶謙將呂由,破之,還與大軍合彭城,大破謙軍。從攻費、華、即墨、開陽,謙遣別將救諸縣,仁以騎擊破之。太祖征呂布,仁別攻句陽,拔之,生獲布將劉何。
弓馬と弋獵をこのむ。のちに豪傑が並起すると、ひそかに曹仁は1千余人をあつめ、淮水や泗水のあいだを周旋した。ついに曹操にしたがい、別部司馬、行厲鋒校尉。曹操が袁術をやぶったとき、曹仁は、すこぶるおおくを斬獲した。
袁術は、193年春に、陳留で曹操にやぶれた。曹仁は、青州黄巾の平定ののちに加わっただろうから、これが曹操軍として初陣。曹操が袁術を、南方まで追撃できたのは、曹仁の土地勘と兵力のおかげかも。曹仁は、泗水と淮水で、あばれまわっていたから。
徐州にしたがう。つねに督騎し、前鋒となる。曹操とわかれ、陶謙の部将・呂由をやぶる。彭城で、曹操にあわさる。曹操にしたがい、費県、華県、即墨、開陽を攻めた。陶謙がおくった別将を、曹仁は騎馬でやぶる。曹操が呂布を征すと、曹仁はわかれて、句陽(済陰)をぬいた。呂布の部将・劉何を生けどった。
武帝紀の興平二年(195)はいう。曹操は、定陶を襲ったと。定陶は、済陰の郡治である。曹仁が、句陽を攻めたのは、この195年である。
盧弼は考える。この曹仁伝で、つぎに建安元年(196)の記事がある。このとき呂布は、なお濮陽にいた。呂布は、まだ下邳にゆかない。句陽は、濮陽の南にある。曹仁が攻めたのは、句陽でよい。
太祖は黄巾をたいらげ、天子を許県にむかえた。曹仁は、廣陽太守となる。曹仁は勇略があるから、曹操が手元におきたい。広陽にゆかず。議郎として督騎した。
曹操が張繍を征すと、曹仁はまわりの県を平定する。男女3千余人をあつめた。曹操が張繍にやぶれると、曹仁が將士をはげました。張繍をやぶった。
官渡のとき、劉備は氵隱強の諸縣を、袁紹になびかせた。許県より以南は、吏民が安定せず。曹仁は、諸県をすべて、曹操にもどした。
袁紹は、別將の韓荀をやり、西道を遮断した。曹仁は、韓荀を雞洛山(河南)でやぶる。袁紹は、別働をだせなくなった。曹仁と史渙は、袁紹の兵糧を焼いた。
河北をさだめ、壺関をかこむ。曹仁は言った。「包囲をゆるめないと、壺関はおちない」と。曹仁は、都亭侯となる。
付・虎豹騎で、南皮の袁譚を斬った曹純
英雄記曰:純字子和。年十四而喪父,與同產兄仁別居。承父業,富於財,僮僕人客以百數,純綱紀督禦,不失其理,鄉里鹹以為能。好學問,敬愛學士,學士多歸焉,由是為遠近所稱。年十八,為黃門侍郎。二十,從太祖到襄邑募兵,遂常從征戰。
曹仁の弟は、曹純である。
『英雄記』はいう。曹純は、あざなを子和。14歳で父をうしない、同母兄の曹仁と、別居した。父の事業をつぎ、財産を富ませた。人客を百人、よく治めた。
学問をこのむ。18歳で、黃門侍郎。20歳で、曹操にしたがい、襄邑で募兵した。つねに曹操に従軍した。
曹純は、議郎として、司空の軍事に参じた。虎豹騎を督して、南皮をかこむ。袁譚で出戰し、死者がおおい。曹操は、南皮をゆるめたい。曹純は、曹操を説得し、袁譚を斬った。北の3郡を征し、蹋頓を斬った。
滎陽の恩人、揚州刺史の陳温の友人、曹洪
魏書曰:洪伯父鼎為尚書令,任洪為蘄春長。
太祖起義兵討董卓,至滎陽,為卓將徐榮所敗。太祖失馬,賊追甚急,洪下,以馬授太祖,太祖辭讓,洪曰:「天下可無洪,不可無君。」遂步從到汴水,水深不得渡,洪循水得船,與太祖俱濟,還奔譙。揚州刺史陳溫素與洪善,洪將家兵千餘人,就溫募兵,得廬江上甲二千人,東到丹楊複得數千人,與太祖會龍亢。
曹洪は、あざなを子廉。曹操の從弟だ。
『魏書』はいう。曹洪の伯父・曹鼎は、尚書令。曹洪は、蘄春長。
曹操は、滎陽で徐栄(玄菟の人)に敗れた。徐栄は、馬をゆずった。汴水をわたる船を調達した。曹操は、曹洪のおかげで、譙県にかえれた。
揚州刺史の陳温は、曹洪と仲がよい。曹洪は、家兵1千餘人をひきい、陳温のもとで募兵した。廬江の上甲2千人をえた。丹楊でも数千人をえた。曹洪は、龍亢で曹操とあわさる。
張邈がそむくと、曹洪は、東平、範県で、軍糧をあつめた。曹操は、呂布と張邈を、濮陽でやぶった。呂布は、東阿による。曹洪は、濟陰、山陽、中牟、陽武、京県、密県などをぬく。鷹揚校尉、揚武中郎將。
天子が許県にきたら、曹洪は諫議大夫。わかれて劉表を征した。劉表の別将を、舞陽、陰葉、堵陽、博望でやぶる。厲鋒將軍、國明亭侯。都護將軍。
袁術の猛攻を受け、呉郡からにげる・曹休
魏書曰:休祖父嘗為吳郡太守。休於太守舍,見壁上祖父畫像,下榻拜涕泣,同坐者皆嘉歎焉。
以太祖舉義兵,易姓名轉至荊州,間行北歸,見太祖。太祖謂左右曰:「此吾家千里駒也。」使與文帝同止,見待如子。常從征伐,使領虎豹騎宿衛。
曹休は、あざなを文烈。曹操の族子。天下が亂れると、宗族は鄉里にひっこむ。曹休は、10余歳で父をなくし、老母をつれて呉郡にわたる。
『魏書』はいう。曹休の祖父は、かつて呉郡太守だった。太守の役所で、曹休は祖父の画像を見た。泣きくずれた。
曹操が義兵を起こすと、姓名をかえて荊州にゆく。
曹休は、間道をつたい、荊州をぬけ、曹操に会った。曹操は言った。「わが家の千里の駒だ」と。曹丕とつきあわせた。
曹休は、周魴を信じて深入りをし、退路を絶たれて孤立する。曹休の戦績はこれまで、十戦十勝だった。『演義』で下手こくような、ステレオタイプの凡将とは言えない。では曹休を、こんなにも焦らせたものは何だろう。ぼくは、祖父の故地を取り戻したいという執念だったと思う、、という話を、むかし書いておりました。
曹操のかわりに、父が袁術に殺された、曹真伝
魏略曰:真本姓秦,養曹氏。或雲其父伯南夙與太祖善。興平末,袁術部党與太祖攻劫,太祖出,為寇所追,走入秦氏,伯南開門受之。寇問太祖所在,答雲:「我是也。」遂害之。由此太祖思其功,故變其姓。魏書曰:邵以忠篤有才智,為太祖所親信。初平中,太祖興義兵,邵募徒眾,從太祖周旋。時豫州刺史黃琬欲害太祖,太祖避之而邵獨遇害。
太祖哀真少孤,收養與諸子同,使與文帝共止。
曹真は、あざなを子丹という。曹操の族子。曹操が起兵すると、曹真の父・秦邵は、募兵した。州郡に殺された。
『魏略』はいう。曹真は、本姓を秦氏という。曹操にやしなわれた。父の秦邵(秦伯南)は、曹操と仲がよい。興平末(195)、袁術の部党と曹操は、攻劫しあう。曹操は外出して、袁術の部党に寇され、追われた。秦氏ににげこむ。
秦邵は、曹操の身代わりになって、殺された。
『魏書』はいう。初平のとき(190-194)、曹操は義兵をおこした。秦邵はしがたう。ときに豫州刺史の黃琬は、曹操を殺害したい。曹操はにげ、秦邵だけが殺害された。
曹操が、姓名をかえて洛陽から逃げてきたのも、中平六年である。『後漢書』黄琬伝と、まったく、あわない。
ぼくは思う。『魏書』が自爆したのだから、『魏略』の言うとおり、「袁術の部党が曹操を殺した」でよいだろう。
曹操は、曹真が孤児になったことを悲しみ、曹丕とともに育てた。
おわりに、曹操に合流した時期について。
夏侯惇と曹洪は、曹操が董卓と戦ったときから、曹操にしたがう。揚州の募兵にも、つきあった。夏侯淵は、おそらく年齢が若いせいで、兗州から合流した。
いっぽう曹仁は、董卓との戦いのときは、曹操のしたにおらず、兗州から合流した。曹純は、曹仁とおなじタイミングだと思われる。曹仁は、曹操の将来性を、じっくり見届けてから、遅れて合流した。したたかだなあ。
曹休と曹真は、世代がくだる。曹操が潁川にうつってから、合流した。潁川にうつり、献帝を手に入れるまで、曹操はすこしも余裕がなかった。下の世代について、云々する余裕がなかった。曹昂を失っても、なりふり構わぬくらいだから。110522