表紙 > 曹魏 > 巻9・夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、曹休、曹真伝・初期の曹操軍

02) 曹仁、曹洪、曹休、曹真

『三国志集解』で、巻9をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、曹操の親族。200年代前半まで。

曹操の祖父の兄の家柄、独立した精鋭・曹仁

曹仁字子孝,太祖從弟也。
魏書曰:仁祖褒,潁川太守。父熾,侍中、長水校尉。

曹仁は、あざなを子孝。曹操の従弟。
『魏書』はいう。曹仁の祖父は、曹褒だ。潁川太守となる。父は、曹熾だ。侍中、長水校尉となる。

『水経注』はいう。譙県には、曹騰の兄の墓がある。碑文には、「漢の潁川太守・曹君は、延熹九年、死んだ」とある。曹熾の碑文には、「大中大夫、司馬、長史、侍中を歴任して、長水校尉となった。39歳で死んだ」とある。熹平六年、曹熾の弟・曹胤の墓がつくられた。碑文に「漢の謁者、熹平六年に死んだ」とある。
ぼくは補う。曹操の祖父の兄の家柄。曹仁のほうが、血筋がいい。


少好弓馬弋獵。後豪傑並起,仁亦陰結少年,得千餘人,周旋淮、泗之間,遂從太祖為別部司馬,行厲鋒校尉。太祖之破袁術,仁所斬獲頗多。從征徐州,仁常督騎,為軍前鋒。別攻陶謙將呂由,破之,還與大軍合彭城,大破謙軍。從攻費、華、即墨、開陽,謙遣別將救諸縣,仁以騎擊破之。太祖征呂布,仁別攻句陽,拔之,生獲布將劉何。

弓馬と弋獵をこのむ。のちに豪傑が並起すると、ひそかに曹仁は1千余人をあつめ、淮水や泗水のあいだを周旋した。ついに曹操にしたがい、別部司馬、行厲鋒校尉。曹操が袁術をやぶったとき、曹仁は、すこぶるおおくを斬獲した。

はじめから曹操に合流したのでない。独立勢力だった。192年、曹操が、兗州に迎えられたとき、傘下に入ったのだろう。
袁術は、193年春に、陳留で曹操にやぶれた。曹仁は、青州黄巾の平定ののちに加わっただろうから、これが曹操軍として初陣。曹操が袁術を、南方まで追撃できたのは、曹仁の土地勘と兵力のおかげかも。曹仁は、泗水と淮水で、あばれまわっていたから。

徐州にしたがう。つねに督騎し、前鋒となる。曹操とわかれ、陶謙の部将・呂由をやぶる。彭城で、曹操にあわさる。曹操にしたがい、費県、華県、即墨、開陽を攻めた。陶謙がおくった別将を、曹仁は騎馬でやぶる。曹操が呂布を征すと、曹仁はわかれて、句陽(済陰)をぬいた。呂布の部将・劉何を生けどった。

銭大昭はいう。呂布が下邳にいるとき、句陽に部将をおいたか疑わしい。曲陽がただしい。趙一清は、銭大昭が誤りという。呂布が兗州でそむいたときの話だ。呂布が、下邳にゆく前だ。ぼくは思う。趙一清の言うとおりで、銭大昭は、とんでもない言いがかりである。
武帝紀の興平二年(195)はいう。曹操は、定陶を襲ったと。定陶は、済陰の郡治である。曹仁が、句陽を攻めたのは、この195年である
盧弼は考える。この曹仁伝で、つぎに建安元年(196)の記事がある。このとき呂布は、なお濮陽にいた。呂布は、まだ下邳にゆかない。句陽は、濮陽の南にある。曹仁が攻めたのは、句陽でよい。


太祖平黃巾,迎天子都許,仁數有功,拜廣陽太守。太祖器其勇略,不使之郡,以議郎督騎。太祖征張繡,仁別徇旁縣,虜其男女三千餘人。太祖軍還,為繡所追,軍不利,士卒喪氣,仁率厲將士甚奮,太祖壯之,遂破繡。

太祖は黄巾をたいらげ、天子を許県にむかえた。曹仁は、廣陽太守となる。曹仁は勇略があるから、曹操が手元におきたい。広陽にゆかず。議郎として督騎した。

広陽は、幽州。盧弼はいう。袁紹の領土だ。遥領である。ぼくは思う。「勇略があるから」なんて、ちゃんちゃらおかしい。

曹操が張繍を征すと、曹仁はまわりの県を平定する。男女3千余人をあつめた。曹操が張繍にやぶれると、曹仁が將士をはげました。張繍をやぶった。

ぼくは思う。当たり前だが、初期の曹操軍にしたがった人の戦歴を見ると、曹操の戦闘の経過が、よく分かる。くり返し読まされるから、覚えてゆく。


太祖與袁紹久相持於官渡,紹遣劉備徇氵隱強諸縣,多舉眾應之。自許以南,吏民不安,太祖以為憂。仁曰:「南方以大軍方有目前急,其勢不能相救,劉備以強兵臨之,其背叛固宜也。備新將紹兵,未能得其用,擊之可破也。」太祖善其言,遂使將騎擊備,破走之,仁盡複收諸叛縣而還。紹遣別將韓荀鈔斷西道,仁擊荀於雞洛山,大破之。由是紹不敢複分兵出。複與史渙等鈔紹運車,燒其糧穀。

官渡のとき、劉備は氵隱強の諸縣を、袁紹になびかせた。許県より以南は、吏民が安定せず。曹仁は、諸県をすべて、曹操にもどした。
袁紹は、別將の韓荀をやり、西道を遮断した。曹仁は、韓荀を雞洛山(河南)でやぶる。袁紹は、別働をだせなくなった。曹仁と史渙は、袁紹の兵糧を焼いた。

河北既定,從圍壺關。太祖令曰:「城拔,皆坑之。」連月不下。仁言於太祖曰:「圍城必示之活門,所以開其生路也。今公告之必死,將人自為守。且城固而糧多,攻之則士卒傷,守之則引日久;今頓兵堅城之下,以攻必死之虜,非良計也。」太祖從之,城降。於是錄仁前後功,封都亭侯。

河北をさだめ、壺関をかこむ。曹仁は言った。「包囲をゆるめないと、壺関はおちない」と。曹仁は、都亭侯となる。

ぼくは思う。曹仁は、自前の部隊をもっている。曹操と独立して、作戦を実行する。陶謙の支城、呂布の部将、張繍の周囲、袁紹の別働、汝南の劉備など、曹操とはべつに動いて戦う。曹操とはべつの家として、採算が独立していたのだろう。


付・虎豹騎で、南皮の袁譚を斬った曹純

仁弟純,
英雄記曰:純字子和。年十四而喪父,與同產兄仁別居。承父業,富於財,僮僕人客以百數,純綱紀督禦,不失其理,鄉里鹹以為能。好學問,敬愛學士,學士多歸焉,由是為遠近所稱。年十八,為黃門侍郎。二十,從太祖到襄邑募兵,遂常從征戰。

曹仁の弟は、曹純である。
『英雄記』はいう。曹純は、あざなを子和。14歳で父をうしない、同母兄の曹仁と、別居した。父の事業をつぎ、財産を富ませた。人客を百人、よく治めた。

ぼくは思う。曹仁は、兄なのに、フラフラした。よく言えば、乱世に問題意識がたかかった。弟は、ちゃんと家財をふやした。曹仁が、独立採算して、曹操に協力できるのは、曹純のおかげでもある。よく補完された、同母兄弟。

学問をこのむ。18歳で、黃門侍郎。20歳で、曹操にしたがい、襄邑で募兵した。つねに曹操に従軍した。

盧弼はいう。襄邑は、初平四年(193)に注釈した。ぼくは思う。曹純が曹操にしたがったのは、193年でいいだろう。つまり、兄の曹仁とおなじ時期。曹操が、兗州から袁術をおいはらい、徐州に攻めこんだとき。根拠地って、ほんとに大事で、曹操は兗州を得ることによって、一族もそうでない人も、いっきに集まってきた。


初以議郎參司空軍事,督虎豹騎從圍南皮。袁譚出戰,士卒多死。太祖欲緩之,純曰:「今千里蹈敵,進不能克,退必喪威;且縣師深入,難以持久。彼勝而驕,我敗而懼,以懼敵驕,必可克也。」太祖善其言,遂急攻之,譚敗。純麾下騎斬譚首。及北征三郡,純部騎獲單于蹹頓。以前後功封高陵亭侯,邑三百戶。

曹純は、議郎として、司空の軍事に参じた。虎豹騎を督して、南皮をかこむ。袁譚で出戰し、死者がおおい。曹操は、南皮をゆるめたい。曹純は、曹操を説得し、袁譚を斬った。北の3郡を征し、蹋頓を斬った。

滎陽の恩人、揚州刺史の陳温の友人、曹洪

曹洪字子廉,太祖從弟也。
魏書曰:洪伯父鼎為尚書令,任洪為蘄春長。
太祖起義兵討董卓,至滎陽,為卓將徐榮所敗。太祖失馬,賊追甚急,洪下,以馬授太祖,太祖辭讓,洪曰:「天下可無洪,不可無君。」遂步從到汴水,水深不得渡,洪循水得船,與太祖俱濟,還奔譙。揚州刺史陳溫素與洪善,洪將家兵千餘人,就溫募兵,得廬江上甲二千人,東到丹楊複得數千人,與太祖會龍亢。

曹洪は、あざなを子廉。曹操の從弟だ。
『魏書』はいう。曹洪の伯父・曹鼎は、尚書令。曹洪は、蘄春長。

曹鼎のことは、武帝紀の巻首にある。武帝紀02) もっとも姦狡な宦官・曹騰

曹操は、滎陽で徐栄(玄菟の人)に敗れた。徐栄は、馬をゆずった。汴水をわたる船を調達した。曹操は、曹洪のおかげで、譙県にかえれた。
揚州刺史の陳温は、曹洪と仲がよい。曹洪は、家兵1千餘人をひきい、陳温のもとで募兵した。廬江の上甲2千人をえた。丹楊でも数千人をえた。曹洪は、龍亢で曹操とあわさる。

初平二年(191)のこと。ぼくは思う。曹洪が、家兵1千余人を連れていったのは、募兵を引率するためか。曹洪は、募兵に成功しているのが、曹操は募兵にそむかれた。引率する手兵すら、いなかったのだろう。


太祖征徐州,張邈舉兗州叛迎呂布。時大饑荒,洪將兵在前,先據東平、範,聚穀以繼軍。 太祖討邈、布於濮陽,布破走,遂據東阿,轉擊濟陰、山陽、中牟、陽武、京、密十餘縣,皆拔之。以前後功拜鷹揚校尉,遷揚武中郎將。天子都許,拜洪諫議大夫。別征劉表,破表別將於舞陽、陰葉、堵陽、博望,有功,遷厲鋒將軍,封國明亭侯。累從征伐,拜都護將軍。文帝即位,為衛將軍,遷驃騎將軍,進封野王侯,益邑千戶,並前二千一百戶,位特進;後徙封都陽侯。

張邈がそむくと、曹洪は、東平、範県で、軍糧をあつめた。曹操は、呂布と張邈を、濮陽でやぶった。呂布は、東阿による。曹洪は、濟陰、山陽、中牟、陽武、京県、密県などをぬく。鷹揚校尉、揚武中郎將。

曹操の兗州平定で、もっとも活躍した人かも知れない。献帝をむかえるまでの曹操にとって、いちばん頼りになる人。みょうな牽制の関係などなく、個人的にベッタリ付き合っている感じ。夏侯惇には、みょうな遠慮があった。

天子が許県にきたら、曹洪は諫議大夫。わかれて劉表を征した。劉表の別将を、舞陽、陰葉、堵陽、博望でやぶる。厲鋒將軍、國明亭侯。都護將軍。

曹洪は、北伐には参加してない。劉表への備えをしていた。曹氏と夏侯氏は、みな河南にのこるなあ。曹操が、よほど劉表を警戒していたことがわかる。劉備だって、無視できなかったのだろう。


袁術の猛攻を受け、呉郡からにげる・曹休

曹休字文烈,太祖族子也。天下亂,宗族各散去鄉里。休年十餘歲,喪父,獨與一客擔喪假葬,攜將老母,渡江至吳。
魏書曰:休祖父嘗為吳郡太守。休於太守舍,見壁上祖父畫像,下榻拜涕泣,同坐者皆嘉歎焉。
以太祖舉義兵,易姓名轉至荊州,間行北歸,見太祖。太祖謂左右曰:「此吾家千里駒也。」使與文帝同止,見待如子。常從征伐,使領虎豹騎宿衛。

曹休は、あざなを文烈。曹操の族子。天下が亂れると、宗族は鄉里にひっこむ。曹休は、10余歳で父をなくし、老母をつれて呉郡にわたる。

ぼくは思う。曹休から見ると、曹操をたよるよりも、父の任地にゆくほうが、安全だった。黄巾で疲弊していない揚州は、誰の目にも魅力的だったのかも知れない。袁紹と袁術は、揚州刺史を任命しあって、揚州をあらそう。曹操は、揚州に募兵に行っている。

『魏書』はいう。曹休の祖父は、かつて呉郡太守だった。太守の役所で、曹休は祖父の画像を見た。泣きくずれた。

曹操が義兵を起こすと、姓名をかえて荊州にゆく。

ぼくは思う。なぜ曹操が義兵を起こすと、曹休は呉郡から、出ねばならんか。揚州は、どうも曹操に好意的でない。丹楊の募兵は反するし、袁術の根拠地になるし、やがて孫呉を建国する。曹操の起兵は、袁紹の部将としての立場を、内外に宣言するようなもの。袁術の手がおよぶ揚州に、ウケなかったのだろう。

曹休は、間道をつたい、荊州をぬけ、曹操に会った。曹操は言った。「わが家の千里の駒だ」と。曹丕とつきあわせた。

曹休について、4年前に書いた。周魴を信じた本当のわけ、曹休伝
曹休は、周魴を信じて深入りをし、退路を絶たれて孤立する。曹休の戦績はこれまで、十戦十勝だった。『演義』で下手こくような、ステレオタイプの凡将とは言えない。では曹休を、こんなにも焦らせたものは何だろう。ぼくは、祖父の故地を取り戻したいという執念だったと思う、、という話を、むかし書いておりました。


曹操のかわりに、父が袁術に殺された、曹真伝

曹真字子丹,太祖族子也。太祖起兵,真父邵募徒眾,為州郡所殺。
魏略曰:真本姓秦,養曹氏。或雲其父伯南夙與太祖善。興平末,袁術部党與太祖攻劫,太祖出,為寇所追,走入秦氏,伯南開門受之。寇問太祖所在,答雲:「我是也。」遂害之。由此太祖思其功,故變其姓。魏書曰:邵以忠篤有才智,為太祖所親信。初平中,太祖興義兵,邵募徒眾,從太祖周旋。時豫州刺史黃琬欲害太祖,太祖避之而邵獨遇害。

太祖哀真少孤,收養與諸子同,使與文帝共止。
曹真は、あざなを子丹という。曹操の族子。曹操が起兵すると、曹真の父・秦邵は、募兵した。州郡に殺された。

梁商鉅はいう。明帝のとき、曹真は、邵陵侯となる。ゆえに裴松之は、父の名前「邵」にかぶせるのは、おかしいという。だが裴松之は、誤りである。地名なのだから、かぶったものは、仕方ないのだ。

『魏略』はいう。曹真は、本姓を秦氏という。曹操にやしなわれた。父の秦邵(秦伯南)は、曹操と仲がよい。興平末(195)、袁術の部党と曹操は、攻劫しあう。曹操は外出して、袁術の部党に寇され、追われた。秦氏ににげこむ。

興平末は、曹操が兗州を平定しおえるとき。呂布を追い出すとき。このとき曹操は、袁術の部党に、命をおびやかされた。つまり、袁術の部党が、兗州にしつこく入りこんでいた証拠。それも、曹操が潁川に移動する直前まで。

秦邵は、曹操の身代わりになって、殺された。
『魏書』はいう。初平のとき(190-194)、曹操は義兵をおこした。秦邵はしがたう。ときに豫州刺史の黃琬は、曹操を殺害したい。曹操はにげ、秦邵だけが殺害された。

『後漢書』黄琬伝はいう。中平初(184)、黄琬は豫州牧となる。董卓が政権をとると、黄琬を司徒とした。献帝紀の中平六年(189)9月、豫州牧の黄琬は、司徒となった。初平三年(192)、黄琬はすでに李傕に殺された。
曹操が、姓名をかえて洛陽から逃げてきたのも、中平六年である。『後漢書』黄琬伝と、まったく、あわない。
ぼくは思う。『魏書』が自爆したのだから、『魏略』の言うとおり、「袁術の部党が曹操を殺した」でよいだろう。

曹操は、曹真が孤児になったことを悲しみ、曹丕とともに育てた。

おわりに、曹操に合流した時期について。
夏侯惇と曹洪は、曹操が董卓と戦ったときから、曹操にしたがう。揚州の募兵にも、つきあった。夏侯淵は、おそらく年齢が若いせいで、兗州から合流した。
いっぽう曹仁は、董卓との戦いのときは、曹操のしたにおらず、兗州から合流した。曹純は、曹仁とおなじタイミングだと思われる。曹仁は、曹操の将来性を、じっくり見届けてから、遅れて合流した。したたかだなあ。
曹休と曹真は、世代がくだる。曹操が潁川にうつってから、合流した。潁川にうつり、献帝を手に入れるまで、曹操はすこしも余裕がなかった。下の世代について、云々する余裕がなかった。曹昂を失っても、なりふり構わぬくらいだから。110522