表紙 > 曹魏 > 巻9・夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、曹休、曹真伝・初期の曹操軍

01) 夏侯惇、付・韓浩、夏侯淵

『三国志集解』で、巻9をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、曹操の親族。200年代前半まで。

曹操のスペアとして、東郡や河南尹を守る夏侯惇

諸夏侯曹伝・第九

何焯がいう。『曹瞞伝』は、曹嵩が夏侯氏の子だという。ただし『曹瞞伝』は、敵国が書いたものだ。
趙一清がいう。陳寿は、夏侯氏と曹氏を1巻にまとめた。曹操は夏侯氏の血筋だ。そのくせ、曹操の娘と、夏侯楙(夏侯惇の子)が結婚してしまった。同族の結婚は「奸」であると、こっそり告発するため、陳寿は列伝をくっつけたのだ。
べつの人いわく。夏侯楙は曹操の娘をめとった。夏侯淵の子・夏侯衡は、曹操の弟・海陽哀侯の娘をめとった。夏侯尚は、曹操の娘をめとった。夏侯氏と曹氏は、代々婚姻してきたのだろう。夏侯惇と夏侯淵には、国を開いた勲功がある。だから陳寿は、曹仁、曹洪、曹休、曹真らと、列伝を合わせたのだろう。
曹爽と夏侯玄は、司馬氏に殺された。司馬氏に、皇帝権力が移った。ゆえに陳寿は、曹氏と夏侯氏の列伝を合わせた。魏の皇族が衰退するのを、惜しむためだ。これは歴史家の常套手段だ。
劉咸キいわく。曹氏と夏侯氏は、婚姻していない。夏侯氏は、曹嵩の母ではない。ゆえに曹嵩は、夏侯氏ではない。陳矯の例から分かる。陳矯は、母方の姓を名乗った。父方の姓は「劉」だ。 …このあと、曹氏と夏侯氏が、他人であるという説が並ぶ。こんな感じで、よく分かっておりません。笑


夏侯惇字元讓,沛國譙人,夏侯嬰之後也。年十四,就師學,人有辱其師者,惇殺之,由是以烈氣聞。太祖初起,惇常為裨將,從征伐。太祖行奮武將軍,以惇為司馬,別屯白馬,遷折沖校尉,領東郡太守。太祖征陶謙,留惇守濮陽。

夏侯惇は、あざなを元讓。沛國の譙県の人。夏侯嬰の後裔だ。

梁章鉅いわく。夏侯嬰の曾孫は「孫公主」と呼ばれた。だから夏侯嬰の子孫は、「孫氏」と改姓したのではないか。
周寿昌いわく。夏侯嬰の子孫が、すべて孫氏になったとは限らない。『漢書』の功臣表を見ても、孫氏を名乗っていない、夏侯嬰の子孫がいる。夏侯氏のままだ。
盧弼が『晋書』の夏侯湛伝を見た。夏侯湛伝によると、孫氏を名乗ったのは、夏侯嬰の子孫ではない。孫氏になったのは、べつの夏侯氏だ。孫氏だというのは、間違いだ。 …これも、結論なし。

14歳のとき、学問の師匠をはずかしめた人を殺した。烈氣で聞えた。曹操が起兵すると、つねに裨將としてしたがう。(190) 曹操が行奮武將軍となると、夏侯惇を司馬とし、白馬に別屯させた。折衝校尉にうつる。東郡太守を領す。

夏侯惇は奮武将軍の司馬として、白馬に屯した。これは、官渡の戦いの舞台と同じ場所である。折衝校尉は、盧弼が袁術伝で注釈した。

(193) 曹操が陶謙を征すと、夏侯惇を濮陽(東郡)にのこす。

張邈叛迎呂布,太祖家在鄄城,惇輕軍往赴,適與布會,交戰。布退還,遂入濮陽,襲得惇軍輜重。遣將偽降,共執持惇,責以寶貨,惇軍中震恐。惇將韓浩乃勒兵屯惇營門,召軍吏諸將,皆案甲當部不得動,諸營乃定。遂詣惇所,叱持質者曰:「汝等凶逆,乃敢執劫大將軍,複欲望生邪!且吾受命討賊,寧能以一將軍之故,而縱汝乎?」因涕泣謂惇曰:「當奈國法何!」促召兵擊持質者。持質者惶遽叩頭,言「我但欲乞資用去耳」!浩數責,皆斬之。惇既免,太祖聞之,謂浩曰:「卿此可為萬世法。」乃著令,自今已後有持質者,皆當並擊,勿顧質。由是劫質者遂絕。

(194) 張邈が呂布をむかえた。曹操の家族は、鄄城(東郡の郡治)にいる。夏侯惇は、曹操の家族のもとにゆき、呂布と交戦した。呂布は、濮陽にはいり、夏侯惇の輜重をおそう。夏侯惇を人質にした。

ぼくは補う。おそらく夏侯惇は、もともと濮陽を守っていた。夏侯惇は濮陽を出て、東へ、ケン城を救援にむかった。呂布と遭遇した。夏侯惇は撤退して、ケン城に入った。だから呂布は、夏侯惇が空き家にした濮陽に入れたのだ。

韓浩が、人質をとった人をおどし、夏侯惇を回収した。曹操は、韓浩をよみした。人質をとることが、なくなった。

裴注で孫盛はいう。光武帝紀によると。建武九年、陰貴人の母弟が、盗賊の人質になった。吏人は、盗賊にせまれず、人質は殺された。盗賊と人質を、どちらも殺すのが、古代の制度だ。安帝や順帝よりのち、政教が陵遲して、古代の制度が守られない。韓浩は、夏侯惇もろとも攻撃し、古代の制度にもどしたのだ。ゆえに曹操は、韓浩をよみした。
盧弼はいう。孫盛がひいた陰貴人の話は、『後漢書』や『後漢紀』にない。『後漢書』皇后紀にある。陰氏の母・鄧氏は、殺されてしまった。何焯はいう。『後漢書』橋玄伝はいう。橋玄は兵に命じ、橋玄の子もろとも撃たせた。光和元年(178)のことだ。


太祖自徐州還,惇從征呂布,為流矢所中,傷左目。複領陳留、濟陰太守,加建武將軍,封高安鄉侯。時大旱,蝗蟲起,惇乃斷太壽水作陂,身自負土,率將士勸種稻,民賴其利。轉領河南尹。太祖平河北,為大將軍後拒。鄴破,遷伏波將軍,領尹如故,使得以便宜從事,不拘科制。建安十二年,錄惇前後功,增封邑千八百戶,並前二千五百戶。

曹操が徐州からもどる。夏侯惇は曹操にしたがい、呂布を征した。流矢で左目を傷つけた。陳留太守、済陰太守となる。建武將軍、高安鄉侯。
日照とイナゴ。夏侯惇は、太壽水を断ち、陂をつくる。みずから土をせおい、勧農した。

銭大昭がいう。初平4年(193) 袁術は襄邑に逃げ、太寿に到った。雎水を決壊させた。ここを、夏侯惇が治水した。趙一清がいう。『両漢志』には、太寿が載っていない。きっと、寧陵と襄邑のあいだだろう。

河南尹となる。曹操が河北をたいらげると、大將軍の後拒となる。

趙一清がいう。曹操は大将軍でなく、司空だ。曹操は、夏侯惇が「親貴」なので、後方を任すことができた。他の人では、できない役目である。銭儀吉がいう。このとき、大将軍だった人はいない。
ぼくは思う。曹操が河北にゆくと、たいていの人は、河北に従軍する。しかし夏侯惇は、河南にのこった。劉表のそなえも、しなければならない。河北は曹操、荊州は夏侯惇、という二頭体制だ。曹操が荊州から帰ってくると、孫権を全面的に任された。「夏侯惇は、軍人でなく、文官っぽい」という話があるが、ちがう。曹操のスペアである。
先週から、『三国志』の曹魏の部分を読んでいて、200年から208年、曹操の荊州政策が気になり始めた。物語だと「脾肉の嘆」「三顧の礼」があり、劉備に視点が置かれがち。ときどき南下する曹操軍は、やられ(焼かれ)役。しかし、河北の平定と荊州の牽制のバランスは超難。四面楚歌は190年代と同じだが、移動距離が大きく、つぶしが利かない。

曹操が鄴県をやぶると、伏波將軍にうつる。河南尹は、もとのまま。便宜をもって、從事することができ、科制にしばられない。建安十二年(207)、増封された。


付・捕虜の夏侯惇を殺そうとした、韓浩

韓浩者,河內人。(及)沛國史渙與浩俱以忠勇顯。浩至中護軍,渙至中領軍,皆掌禁兵,封列侯。

韓浩は、河內の人。沛國の史渙とともに、忠勇が顯われた。韓浩は中護軍となり、史渙は中領軍となる。どちらも、禁兵を掌握した。列侯に封ぜらる。

中護軍は、斉王紀の嘉平六年の注釈にある。武帝紀の建安十八年の注釈では、「中領軍・万歳亭侯の韓浩」とある。ぼくは補う。連名で、署名したときだ。
史渙は、武帝紀の建安四年(199)に。武帝紀11) 袁術の死、徐州の地勢


魏書曰:韓浩字元嗣。漢末起兵,縣近山藪,多寇,浩聚徒眾為縣籓衛。太守王匡以為從事,將兵拒董卓於盟津。時浩舅杜陽為河陰令,卓執之,使招浩,浩不從。袁術聞而壯之,以為騎都尉。夏侯惇聞其名,請與相見,大奇之,使領兵從征伐。時大議損益,浩以為當急田。太祖善之,遷護軍。太祖欲討柳城,領軍史渙以為道遠深入,非完計也,欲與浩共諫。浩曰:「今兵勢強盛,威加四海,戰勝攻取,無不如志,不以此時遂除天下之患,將為後憂。且公神武,舉無遺策,吾與君為中軍主,不宜沮眾。」遂從破柳城,改其官為中護軍,置長史、司馬。從討張魯,魯降。議者以浩智略足以綏邊,欲留使都督諸軍,鎮漢中。太祖曰:「吾安可以無護軍?」乃與俱還。其見親任如此。及薨,太祖湣惜之。無子,以養子榮嗣。
史渙字公劉。少任俠,有雄氣。太祖初起,以客從,行中軍校尉,從征伐,常監諸將,見親信,轉拜中領軍。十四年薨。子靜嗣。

『魏書』はいう。韓浩は、あざなを元嗣という。漢末に起兵した。県は、山藪に近くて、おおく寇された。韓浩は兵をあつめ、自衛した。河内太守の王匡の従事となる。兵をひきい、盟津で董卓をこばむ。

王匡のことは、董卓伝にある。盟津は、武帝紀の初平元年、孟津の注釈のなかにある。
ぼくは思う。王匡との関係、董卓との戦いなど、ちゃんと前歴がある。テンションがあがる。

ときの韓浩のおじ・杜陽は、河陰令(平陰令か)であり、董卓に捕われた。董卓は、おじを人質に、韓浩を招く。韓浩は、董卓にしたがわず。袁術はこれを聞いて壯士だと感じ、韓浩を騎都尉とした。夏侯惇も、韓浩の名を聞いて、会いたがった。韓浩は兵をひきい、夏侯惇にしたがった。

ぼくは思う。袁術は、193年春、陳留でやぶれた。韓浩が、袁術から夏侯惇に転職したのは、このときだろう。張邈が兗州でそむいたとき、バックに袁術がいたと、ぼくは思っている。つまり韓浩が「捕虜もろとも、夏侯惇を攻めろ」と言ったのは、もとの上司・袁術との戦いである。陳留の戦いの、延長である。冷静でいられたわけだ。

(196) 韓浩は、田地をつくれと言った。護軍となる。曹操が柳城を攻めたとき、韓浩と史渙がとめた。韓浩は、中護軍となり、長史、司馬。張魯を討ち、諸軍を都督して、漢中にいた。曹操に信任された。
史渙は、あざなを公劉という。太祖が初起すると、客從した。行中軍校尉。中領軍。建安十四年(209)、薨じた。

兗州、豫州、徐州の軍糧を督した、夏侯淵

夏侯淵字妙才,惇族弟也。太祖居家,曾有縣官事,淵代引重罪,太祖營救之,得免。
魏略曰:時兗、豫大亂,淵以饑乏,棄其幼子,而活亡弟孤女。

夏侯淵は、あざなを妙才。夏侯惇の族弟。曹操が、縣の官事があり、曹操の代わりに夏侯淵が、重罪をうけた。曹操が、夏侯淵を救った。

「縣の官事」は、ちくま訳も、自信がないそうです。盧弼は注釈せず。

魏略はいう。ときに兗州と豫州は、大乱した。夏侯淵は飢えた。じぶんの幼子を棄てて、なき弟の娘を活かした。

いつだろう。180年代に、すでに飢餓だったのか。


太祖起兵,以別部司馬、騎都尉從,遷陳留、潁川太守。及與袁紹戰於官渡,行督軍校尉。紹破,使督兗、豫、徐州軍糧;時軍食少,淵傳饋相繼,軍以複振。昌豨反,遣於禁擊之,未拔,複遣淵與禁並力,遂擊豨,降其十餘屯,豨詣禁降。淵還,拜典軍校尉。
魏書曰:淵為將,赴急疾,常出敵之不意,故軍中為之語曰:「典軍校尉夏侯淵,三日五百,六日一千。」

太祖が起兵した。夏侯淵は、別部司馬、騎都尉となって、曹操にしたがう。陳留太守、潁川太守にうつる。

いつだろう。曹操の兗州支配において、だれが太守になっているか、ちゃんとテーブルをつくらねば。潁川にうつる前と後で、どのように変わったかも、整理したい。

官渡のとき、行督軍校尉。袁紹をやぶると、兗州、豫州、徐州の軍糧を督した。

ぼくは思う。曹操が河北にいったとき、夏侯惇は、河南尹だった。夏侯淵も、河南の3州をまかされた。夏侯氏を、基盤の河南に残していったことに注目。曹操は、軍人ばかり連れて、北伐した。

昌豨が反した。于禁がぬけない。夏侯淵が、于禁にあわさり、昌豨を撃った。昌豨は、于禁にくだる。夏侯淵は、典軍校尉となる。

建安三年(198)、泰山の臧覇、昌豨らが、呂布についた。呂布が死ぬと、臧覇らはくだった。建安五年(200)、昌豨は劉備のために、そむいた。撃破した。建安六年(201)、ふたたび昌豨はそむいた。ぼくは思う。昌豨をまとめてくれて、盧弼さん、ありがとう。昌豨は、張遼伝と于禁伝にある。
巻17・張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃、朱霊伝、初期の曹操軍

『魏書』はいう。夏侯淵は、はやい。軍中はいう。「典軍校尉の夏侯淵は、3日で5百里、6日で1千里」と。

周寿昌はいう。典軍校尉は、かつて曹操がついた官位。とくに夏侯淵に、親しくしたことがわかる。ぼくは思う。夏侯淵の「はやさ」は、典軍校尉のときの評価。つまり、河北平定のころ、言われたこと。この時期、曹操は、河北と荊州に、戦線をかかえた。移動速度が命。この局面で、夏侯淵が重宝された。


濟南、樂安黃巾徐和、司馬俱等攻城,殺長吏,淵將泰山、齊、平原郡兵擊,大破之,斬和,平諸縣,收其糧谷以給軍士。十四年,以淵為行領軍。太祖征孫權還,使淵督諸將擊廬江叛者雷緒,緒破,又行征西護軍,督徐晃擊太原賊,攻下二十餘屯,斬賊帥商曜,屠其城。(中略) 初,淵雖數戰勝,太祖常戒曰:「為將當有怯弱時,不可但恃勇也。將當以勇為本,行之以智計;但知任勇,一匹夫敵耳。」

濟南(兗州)、樂安(青州)の黃巾は、徐和、司馬俱である。黄巾は城を攻め、長吏を殺した。夏侯淵は、泰山、齊国、平原の郡兵をひきいて、黄巾を撃った。黄巾の軍糧をうばい、軍士にくばった。

ぼくは思う。「黄巾」と書いてあるが、これは、もとの袁紹軍である。曹操の河北平定について、しつこく黄巾が出てくるが、黄巾なんて、実態がない。ついでに言えば、建安まで生き残っている「汝南の黄巾」も、袁紹や袁術の与党だろう。
くり返すが、夏侯氏が河南を固めたので、曹操は河北に行けたのですね。

建安十四年(209)、行領軍。曹操が孫権を征した。夏侯淵は諸將を督し、廬江の雷緒を破った。

先主伝はいう。建安十三年(208)、廬江の雷緒は、そむいた。

行征西護軍。徐晃を督し、太原の賊帥・商曜を斬った。曹操は、夏侯淵に言った。「あんまり、つっこむな」と。

つぎは、 曹仁、曹洪、曹休、曹真です。