漢魏革命に動揺するが、麹演をたいらげた蘇則伝
驢馬の会をうけて、蘇則伝を復習。『三国志集解』を読みます。
扶風の著姓、興平のとき北地に避難する
魏書曰:則剛直疾惡,常慕汲黯之為人。
蘇則は、あざなを文師。扶風の武功の人だ。
蘇則は、孝廉、茂才にあげられ、公府に辟された。みな就かず。起家して、酒泉太守となる。安定太守、武都太守に転じる。任地で、威名あり。
地元・涼州の太守を、3つも転任してる。こういう人事もあるのだなあ。よほど太守として、治績をあげたのだと思う。後漢末の涼州は、反乱ばかりである。
『魏書』はいう。蘇則の性質は、剛直で疾惡。つねに(前漢の) 汲黯をしたう。
『魏略』はいう。蘇則は、世よ著姓だ。興平中(194-195)、三輔がみだれ、饑窮して、北地郡(涼州) に避難した。
安定にゆき、富室の師亮をたよる。蘇則は師亮に冷遇されたので、慨然として歎じた。「ほどなく天下が平安したら、私は安定太守となり、輩士を折庸してやる」と。のちに蘇則は、馮翊の吉茂らと、安定の郡南にある太白山(武功県) にかくれた。
書籍を読んで、自娛した。のちに蘇則は、安定太守となる。師亮らが逃走したい。蘇則は「師亮の冷遇に、報復するつもりない」とつたえた。
いま蘇則は、師亮にムカついて「覚えておけ」と脅したが、じっさいに報復しなかった。ただ口がきたなかったのだ。行動は、常識的だけど。
どうやら興平より前に、酒泉太守となり、建安になってから、安定太守、武都太守になったようです。安定太守は、曹操の意向をうけたものだろう。
下弁の氐族、武都、金城を治め、劉備をふせぐ
曹操が張魯を征するとき、蘇則の武都郡をすぎた。曹操は、蘇則に会ってよろこび、蘇則に軍導させた。張魯をやぶると、蘇則は下辯の諸氐をたいらげ、西道を通河した。金城太守となる。
『三国志』巻25・楊阜伝、涼州刺史・韋氏の父子につかえ、馬超をこばむ
このとき金城郡は、喪亂した後で、吏民は流散・饑窮した。戸口は損耗した。蘇則は、戸口を撫循すること、はなはだ謹ましい。そとに羌胡を招懷し、牛羊をもらい、貧老をやしなう。民と食料をわけて食べた。旬月の間に、流民は、みな蘇則に帰した。禁令をあきらかにした。耕作をおしえ、豊作となる。
ぼくは思う。この時期、劉備が領土を勝ちとるのは、なぜか。曹操に対抗できたのは、なぜか。もともと後漢で治まらない地域に、入りこんだからだ。劉備が曹操をこまらせたのでなく、涼州が漢室をこまらせたのだ。劉備は、のっかっただけ。
李越が隴西でそむく。羌胡をひきい、越県をかこむ。越県は、請服した。曹操が崩じると、西平の麹演がそむき、護羌校尉を称した。蘇則は、麹演をくだす。曹丕は、蘇則を護羌校尉、關內侯にする。
『魏名臣奏』はいう。曹丕は、雍州刺史の張既に聞いた。「金城太守の蘇則に、爵邑をあたえるべきか」と。張既はこたえた。「むかし金城は、韓遂に屠剝された。梁燒の雜種羌は、韓遂とむすんだ。西平の麹演は、そむいた。蘇則は、これらを平定した。蘇則に爵邑をあげたら、忠臣がはげまされる」と。
『三国志』巻15・張既伝、献帝がぬけた西方を、曹丕のとき収束する
第二の韓遂・麹演がそむき、越境して平定
西平の麹演は、ふたたび叛乱した。張掖の張進は、張掖太守の杜通をとらえた。酒泉の黄華は、酒泉太守の辛機をこばんだ。張進と黄華は、みずから太守を名のって、麹演に応じた。
武威では、三種の胡族があばれ、道路が絶えた。武威太守の毌丘興(毋丘倹の父) は、蘇則に助けを求めた。
ぼくは思う。韓遂を誅したのが麹演だと、知らなかった。麹演は、第二の韓遂といえる。張既-蘇則のラインは、ある部分では、麹演の力をかりて、涼州を統治していたのだろう。曹操が死んだので、麹演は、張既-蘇則への協力を解除した。現地の豪族を手なずけて統治し、その豪族がそむくと弾圧する。この反復によって、統治を浸透させてゆく。ありがちなパタンである。
ときに雍州と涼州の豪族は、羌胡をつれて、張進にしたがう。郡人は、だれも張進に敵わない。将軍の郝昭と魏平は、さきに金城にいた。詔書をうけても、郝昭は西にゆけない。
小説『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を、史料と照合する
金城は、東にある。武威、張掖、酒泉は、西にある。だから郝昭は「西にゆけない」と記された。胡三省は言う。金城は、武威、張掖、酒泉とのあいだに、黄河でへだたる。
ぼくは思う。黄河の東・金城にいて、洛陽とつながり、黄河の西を統治する。金城は、そういう役割の土地だったかも。統括会社みたいな。
蘇則は、郡中の大吏と、郝昭ら将軍と、羌豪の帥に言った。「魏朝の大軍を待ったら、タイミングを失う。魏朝の命令に叛いてでも、さっさと平定してしまうべきだ」
郝昭は、蘇則にしたがう。郝昭は、武威郡を救った。三種の胡族を降して、張進、麹演をやぶる。黄華はくだる。
河西を、たいらぐ。蘇則は、金城にもどる。
ぼくは思う。太守の越境といえば、孫堅である。孫堅は、後漢のルールをやぶった。しかし、孫堅のルール違反をとがめるのは、正しくないかも。曹魏の蘇則は、おなじことをやり、つぎに中央に栄転する。
献帝のために喪を発し、曹丕に諫言しまくる
蘇則は徵され、侍中となる。董昭と同寮となる。「蘇則のひざは、佞人のマクラじゃない」と言った。
曹植は、漢魏革命のとき、服喪して悲哭した。蘇則も服喪したが、曹丕はこれを知らない。曹丕は蘇則に「漢魏革命で、哭いた人がいたが、なぜか」と聞いた。蘇則は自分がとがめられたと思ったが、侍中の傅巽に「曹植の話だ」と教わった。
ぼくがおもしろいと思うのは、辺境の涼州では、すなおに漢魏革命を残念がったということ。曹操が死ぬと、麹演がそむいたように、涼州には曹魏の威勢がおよびにくい。そもそも漢魏革命は、なかなか支持されない。論理と儀礼を積みかさねても、漢室400年の実感には、かなわない。洛陽で、風見鶏をやっている人は、「漢魏革命を支持しといたほうが、よさそう」と感じとることができる。しかし洛陽から離れると、漢魏革命を、とうてい容認できるものでない。前に、禅譲に失敗した名家の人だって、いたのだ。
劉備が益州で皇帝即位するが、かろうじて支持された。劉備が適任者として支持されたのでなく、それだけ漢魏革命が受けいれられなかったのだ。
『魏略』はいう。『旧儀』によれば、侍中は皇帝の便器を持つ。同郡の吉茂は、県令を歴任し、冗散(閑職) となる。吉茂は蘇則に、「いくら中央づとめでも、便器もちはイヤだな」と言った。
孫盛曰:夫士不事其所非,不非其所事,趣舍出處,而豈徒哉!則既策名新朝,委質異代,而方懷二心生忿,欲奮爽言,豈大雅君子去就之分哉?詩雲:「士也罔極,二三其德。」士之二三,猶喪妃偶,況人臣乎?
『魏略』はいう。蘇則が金城にいたとき、漢帝が禅位したと聞き、漢帝が崩じたと思い、喪を発した。のちに蘇則は、曹丕から、曹植が喪を発した話をふられ、下馬して謝ろうとした。
曹植は、献帝が生きていることを知っているから、漢室のために服喪した。蘇則は、献帝が死んだと思って、服喪した。理由がちがうなあ。
蘇則が下馬して謝りたかったのは、「曹丕が献帝を殺したと思って、ごめん」なのか、「漢魏革命を残念がってごめん」なのか。なんだろう。
孫盛はいう。蘇則は、漢室と魏室につかえた。一貫しないからダメだ。
曹丕は蘇則に問う。「酒泉と張掖をやぶり、西域につうじた。敦煌は、大珠を提出した。西域と交易したらどうか」と。蘇則は「徳がゆきわたり、自然と宝物があつまるもの。交易するな」と言った。曹丕は、だまった。
のちに曹丕が校猟すると、オリがぬけて、鹿がにげた。曹丕は、オリ担当の役人を斬りたい。蘇則が言った。「禽獣のことで、人を殺すな」と。曹丕は「直臣めが」と言い、オリ担当の役人をゆるした。黄初四年、蘇則は東平相に左遷された。
盧弼は考える。おなじ『魏略』なのに、東平と河東がちがう。皇族の列伝によると、黄初三年、曹霖を河東王とした。太和六年、曹霖を、寿張王にうつす。おなじ歳、曹キが東平王となる。このとき、東平王の国ができた。黄初四年、蘇則が左遷されたとき、まだ東平国がない。河東相の誤りである。『世説新語』にひく『魏書』でも、蘇則は河東相とされる。裴注の東平は、誤りである。
東平への道中で、蘇則は死んだ。剛侯とされる。
まとめ。蘇則は、漢魏革命を聞き、発喪した。涼州は、魏軍の到着が遅れる地域。魏軍を期待せず、自己責任で、だれに味方するかを決めねばならない。曹氏の顔色を伺わず、本心で行動するしかない。洛陽周辺は、前例なき「禅譲革命」を受容したように装ったが、本心は蘇則のように動揺したはず。蘇則の反応が、漢末のすなおな反応だ。
諸葛亮は涼州を攻める。涼州は、長安をうかがう軍事的な要衝。西域と交易できる、商業的な拠点。それだけでなく、漢魏革命にいまいち「慣れない」人びとがいるから、諸葛亮がねらったのかも。諸葛亮がいただく劉禅は、漢室の後継者だから。蘇則が中央でヘタをこき、同郷人に「中央づかえなんて、ロクでもない」と言われているのは、そういう涼州の風土を反映しているように思う。110625