表紙 > エッセイ > もしも陳寿が、レヴィナスのように思想を語ったら

04) 漢を「愛」する魏晋

内田樹『他者と死者・ラカンによるレヴィナス』文春文庫2011
4章「死者の切迫」に基づき、陳寿になりきって、陳寿の思想を語る。

魏蜀を理解するための、男女関係

魏家や晋家から見て、漢家は「他者」である。測定不能の、まったくワケの分からないエイリアンである。「他者」との関係は、男女関係から理解することができる。

エイリアンって、陳寿は言わないよなー。
内田氏は「他者」を説明するとき、よく「度量衡を共有しない」という。これは比喩である。しかし古代史をやるとき、比喩でなく、文字通りの意味になってしまう。だから、安易に流用できない。
いきなり男女の話を始めるのは、内田氏のせいである。

愛する対象としての「他者」は、相手を観察・吟味して、発生するのでない。愛している自分を、不意に発見する。愛する以前と以後では、自分は別人である。

2つの「他者」同士、すなわち、
「愛する主体」と「愛される主体」は、愛した瞬間に突然、同時に現れる。愛さなくなれば、同時に消える。出現も消失も、事後的に気づくものだ。
「愛される主体」とは、女性である。

ここがレヴィナスのキモ。内田氏も解説に苦心する。
生物学的に女性であることを、意味しない「愛される」ということを、「女性である」と言い換えている。生物学的な男性が、「愛される」側の状況を見れば、その男性は「女性」である。紛らわしい比喩なのだ。ある関係を成立させている、二者の片方側、くらいの意味しかないと、ぼくは思う。
ジェンダーとは関係がない。そういう社会の役割の話をしていない。

女性とは、弱く、柔和で、傷つきやすく、恥じらい、壊れやすく、秘匿性をもつ。それらの性質を、愛される。

くどいが、これは「愛される主体」としての性質である。生物学的な女性の性質を、言っているのではない。ただし、生物学的な女性「でない」とも言わない。生物学的な女性が、これらの性質を持つかも知れないし、持たないかも知れない。

「柔和である」などの性質は、本質に備わるものでない。事後的に与えられたものだ。愛された瞬間に、気づかわれた瞬間に、立ち現れる。
もともと柔和な者と、もともと頑強な者がいて、その二者が出会って愛しあう、という筋書きでない。出会って、関係が生まれた瞬間に、「柔和なる者」と「頑強なる者」というアンバランスが、初めて生まれるのだ。

これは、昼と夜の関係に似ている。「昼ぬきの夜」「夜ぬきの昼」はない。ただ時間の流れがあるだけだ。片方を昼とした瞬間に、もう片方が夜となる。本質的に昼な時間と、本質的に夜な時間を、足し算して1日としたのでない。
はじめに「もの」があり、あとから「名前」がつくのでない。「名前」がついた瞬間、「もの」は世界から切りとられ、初めて「もの」が生まれる。つまり、「もの」と「名前」」は、同時に生成する。

おもしろい話だなー。ちゃんと『三国志』に帰ってきます。蜀漢=女性として。


愛するという関係性は、男性と女性が出会うのでない。「愛する」を始めた瞬間に、同時に、男性と女性が生成する。

ぼくは納得している。でも、納得できなければ、内田氏の本をお読みください。
関連書籍を、はじめに読んだときは「理屈としては分かるが、実際はどうかな」と思った。いまは、実際にもそうだと思っている。

愛するというのは「相手を志向する」ことだ。志向というのは、手が届かないものに向かうこと。手が届かないものを「持つ」という、いかにも願いが成就しなさそうな、矛盾した言葉で表現できる。
この成就の難しさは、愛撫の経験から分かる。
愛は、相手に対する「飢え」である。愛するから、愛撫する。だが愛撫しても、何も把持できない。
愛撫は、相手に触れ、相手をつかみ、相手を永遠に留めようと、差し伸べられる手のことだ。だが、そのねらいは、いつも挫折する。満たされることはない。愛撫とは「愛する者」という「他者」を、自分に取りこみ、支配することを、目的としない。愛撫するが、なお満たされない、という状況そのものを、欲望しているのだ。
愛撫する前は、愛撫さえすれば、「他者」を自分のものにできると、考えるかも知れない。しかし愛撫しても、「他者」には到達できない。成就しない。満たされない。こういう志向が、「他者」との関係である。

これ、三国志のサイトなんだけどなー。


男女関係で理解する、魏蜀

遠回りしたが、
私は、「男性」を魏家や晋家に、「女性」を漢家に当てはめる。

もともと魏文帝は、成都に漢家のあることを、知らずにいた。二重の意味で知らなかったと思う。1つは、単なる情報不足。2つは、存在の問題として。存在の問題というと、分かりにくい。私たちの言葉を使えば「正統性」の問題として。
魏家の理屈は、孝愍皇帝(劉協)から禅譲を受けたので、新たに魏家が皇帝をとなえた、というものだ。この主張には、成都の後主(劉禅)の存在は、カウントされていない益州牧府に、不服従勢力のナニガシがあるなあ、という程度の認識であろう。愚かな錯誤だが。
ゆえに魏文帝の関心は、もっぱら揚州の呉家に向かった。
諸葛老師が、第一次の北伐をしたとき、初めて「他者」同士が出会った。あたかも男女のように。もともと宿敵としての「魏と蜀」があったのでない。開戦する前は、お互いを認識していなかった。上記のように、2つの意味で。
1つめの情報不足は、諸葛老師に快進撃をもたらした。馬謖のために、撤退を強いられたが。惜しいかな。
2つめの正統性の問題は、この開戦をもって初めて、魏家にウソを気づかせた。禅譲は本当か、という問いを突きつけられた。曹氏には、即座に泣きっ面で「禅譲は本当だ」と強弁するしか、選択肢はなかったのであるが。
諸葛老師と出会う前の魏家と、出会ったあとの魏家は、まったくの別王朝である。禅譲の信憑性に反論を受けたことがない魏家と、反論を受けた魏家は、同じでない。あたかも「愛する男性」と「愛される女性」が、同時に立ち現れるように。

まったく関係ないけど、『蒼天航路』で、武帝紀に諸葛亮の記述がないことから、諸葛亮は曹操に認識してもらえなかった。諸葛亮は、それを悔しがっていたなあ。諸葛亮は、北伐でもって初めて曹魏の前に「立ち現れた」のだろう。


諸葛老師が生前の漢家は、むしろ魏家に対して、「男性」としての性質が強いかも知れない。

レヴィナスのいう「男性」「女性」は、「攻め」「受け」という用語のほうが、ぼくたちの日常会話レベルで、理解しやすいかも知れない。っていうか、どんな日常会話なのか、知らないけど。「攻め」「受け」は単なる役割である。生物学的な男女の区別と(比較的)結びついていない。気がする。

ともあれ「男性」「女性」の役回りは、どちらでも良い。ともかく「男性」「女性」の関係として、つまり「他者」同士として、関係が結ばれたことを言えれば、説明の目的は果たされた。

五丈原の戦いは、諸葛老師が司馬宣王を「愛撫」したものだ。「愛撫」が拒絶されたことにより、関係は成就しなかった。
曹爽が漢中を攻めたとき、曹爽は、漢家を「欲望」し、漢家を「志向」した。漢中における交戦は、曹爽が費禕を「愛撫」したものだ。
しかし「他者」は、「愛撫」によって接触できるが、決して支配のもとに、組み敷くことはできない。魏家と漢家の戦いは、どちらも京師に達することなく、撤退をくり返した。いかにも「他者」同士の交渉である。

では、鍾会と鄧艾は、漢家を支配できたか。否である。もっとも「奥」まで触れた「愛撫」であったが、あくまで「他者」は「他者」である。「奥」に触れても、自分のものになるわけでない。

レヴィナスが変な比喩を使うから、陳寿が変なことを言い出したなあ。「奥」とは、レヴィナスの本には書いてないのだ。イメージを掴むために、比喩を膨らましてつかってる。

後主(劉禅)を洛陽に運ぶことで、魏家や晋家は、漢家を支配したと考えるだろう。だがこれは、勘違いである。
後主の身柄と、漢家そのものは、イコールではない。
比喩を使い続ければ、「愛する者」を自家に囲いこみ、鎖につなぎ、自分が好きなときに、好きなだけ「愛撫」できる体制を、作ったとしよう。これにより、見かけの支配は万全であるが、「愛する者」そのものを、支配したことにならない。この、もどかしさ、不可能さが「他者」への「愛」の性質である。

レヴィナスは、こんな比喩を使ってないんだよなあ。でも、言いたいことが、より鮮明になるから、こう書いてみた。陳寿に喋らせてみた。

例えば、この天下に漢家があった、という記憶は、もし後主が崩じても、消え去ることはない。諸葛老師という宰相がいたことも、記憶として伝えられるだろう。
晋家は、いかに強力な軍隊をひきいても、天下の記憶としての漢家を、支配することができない。ただ、漢代を「志向」して、その都度、挫折をくり返すことしか、許されていないのだ。

晋家は、「他者」としての漢家を、一覧表示して、さっさと理解することができない。むしろ、理解できないことに、あえぎ続ける宿命なのだ。また、そういう宿命を負わねばならないと思う。
いっぽう晋家は、「他我」としての呉家なら、一覧表示して、さっさと理解するだろう。カンタンに組み敷き、支配に取り入れるだろう。

天の意思を読むように、漢家の歴史を読め

「全体」である晋家には、「外部」が存在しない。漢家すらも、自分たちの語り口で、支配しようとする。まるで生者が、「死者が存在する」という語り口で、死者を支配するように。

前ページまでの確認です。1つめの考え方。


では晋家は、漢家がもつ「他者」としての性質を損なわず、漢家と接することは不可能であろうか。

2つめの考え方を、晋家が実践するには、どうすべきか、という問い。

不可能ではない。
私が言ったように「前言撤回」の語り口で、「痕跡」を感じとるという方法がよい。晋家が、漢家の歴史にむきあうときは、天に向き合うときと、同じ仕方であるべきだ。
例えば、
天災があれば、天文官は、天災を解読するだろう。晋家が善政(を自覚)しているときに、天災が起これば、理不尽に感じるかも知れない。しかし、天は理不尽でない。人間は、つねに天に対して「遅れ」がある。天の意思は「謎」であり、その「謎」を説くための言葉は存在しない。
天に「議論」を要求してはいけない。天文官は、「なぜ飢饉を起こすんですか」と、天に聞いてはいけない。
議論を要求するとは、どういうことか。その天文官が、天とのあいだに、平等の言語、平等の理屈を共有していると錯覚しているのだ。天の不条理に対して「納得できない」と言うな。たかが人間の頭で、天を理解できるはずがない。

アブラハムの態度です。西のにおいが、強い。でも、古代中国の天文官だって、態度としては同じなんだろう。詳しく知らないけれど。


晋家の人々が、漢家の歴史を解読するときも、同じである。漢家の歴史は「謎」である。近年、天下に3人に皇帝が立ったことも、漢家の歴史が、私たちに課した「謎」と考えよう。
もちろん、成都の皇帝が唯一の正統であり、ほかの2人はニセモノである。だが私は、史家である。2人のニセモノの出現を許してしまった事実まで、否定はいない。むしろ、この事実が示すところの「謎」に挑む者である。
『三国志』は、漢家に召命されて私がつくった、漢家の「痕跡」の1つだ。現代人として、晋家の発展を願ってもいるのだ。

西のほうでは「召命」されるらしい。神の恵みによって呼び出され、仕事を与えられると。用語に馴染めないが、陳寿の使命感みたいなものは、感じ取れるかなーと思った。

晋家の人々は、3国を単なる征服の対象と捉えるだけで、思考を中断するな。敬虔な態度で「謎」に挑むべきなのだ。漢家が課した「謎」を粗略に扱えば、ちかぢか晋家は、分裂や滅亡を経験するだろう。

「痕跡」「謎」「他者」「天」いずれも同じ意味。
いろいろ書いてるけど、ぼくがザツにまとめれば、知り尽くした気になれる「他我」と、知り尽くせないことを知っている「他者」の二項対立なのだ。


晋家の人々が、漢家に接する方法

いま天下に、漢家はない。だが、漢家が滅びたことに対する責任を、私は感じ続けている。さきに言ったが、私1人の責任だ、とまで考えている。
くり返し、思い出す。
鄧艾が成都に迫ったとき、これは天が漢家に「謎」を仕掛けたのだ。
末期の漢家は、完全なる善政とは言えないが、少なくとも、天に滅ぼされぬだけの体制ではあった。黄皓がのさばったとか、姜維がアホだとか、些末な汚点はあるが、滅亡を強いられるほどの失点はなかった。
少なくとも、私はそう考えていた。
成都の陥落は、私の主観的な言葉で語れば「理不尽」である。だが、そこで思考を中断せずに、「謎」の意味を考え続けることが、私の責任だ。『三国志』を編んだのも、もちろん同じ目的である。
私が生まれる前の過去も含め、まとめて「引き受ける」のが、正しいと考える。『三国志』は、私の生前のことを含め、記してある。

旧主を批判することは胸が咎めるが、言わざるを得ない。後主(劉禅)は、天からの「謎」に向き合うのを辞めた。安易に降ることで、漢家の「謎」を放棄した。
鄧艾の接近は、確かに危険であったが、降るほどの事態ではなかった。鄧艾の接近は、後主への「問い」だったのだと思う。「降ってはいけません」と、私は後主を諫めた。今でも、その場面を夢に見るほどだ。

◆『三国志』を読め!
さて、史書について理解できる逸話を話そう。
近年、洛陽の絵師と、成都の絵師が、武帝のまえで腕前を競ったらしい。どちらが、より写実的に描けるかを勝負した。
洛陽の絵師が、葡萄の絵を描いた。鳥が、絵をついばんだ。洛陽の絵師がいう。「私の絵は、鳥が勘違いするほどだ。さあ、キミの絵を見せてごらん。早く、覆いの布をとれ」と。おもむろに、成都の絵師がいった。「勝負があった。私は『布に覆われた絵』の絵を描いたのだ」と。武帝は、成都の絵師をほめたと。

ラカンが使った例え話です。


『三国志』は、前言撤回して、漢家の「痕跡」を伝えるための書物である。前にも言ったとおり、カンタンに理解できないようにした。
成都の絵師の絵とおなじである。
成都の絵師の絵は、「布に覆われた絵」の絵だから、その覆いを取ることはできない。覆いが取れない、つまり、中の絵「現れない」ということを、絵によって表した。「現れない」を表現するために、いちばん有効な方法は、隠すことである。人間は、「表しているが、同時に取り消している」ことに魅惑される。抵抗できない。
成都の絵師の絵は、「私を見よ」と、人々に命じる。注目させる。永遠に中の絵が「現れない」にも関わらず、見ずにはいられない。

『三国志』も、「私を読め」と、人々に命じる書物になってくれればと、願っている。記されたはずの漢家の歴史は、永遠に「現れない」。だって、現れぬように、「謎」を「謎」のまま記したのだから。だが人々は、『三国志』を読まずにはいられない。
成都の絵師の絵と、同じである。

成都の絵師は、パラシオス。洛陽の絵師は、ゼウキシス。

晋家において、いや晋家が滅びたのちにも、人々を、漢家(の歴史)に引きつける史書を遺したい。「他者」としての漢家に、真摯に向き合ってほしい。これが、私が『三国志』を執筆した思いです。
いや、晋家は永続すると思いますけどね、、

おわりに

長らく、私(陳寿)の話を聞いていただき、ありがとうございました。
これらを、『三国志』の前文に記しておきたかったが、3つの理由で断念した。
 1つ、晋家を批判しており、政治的にまずい。
 2つ、漢家が「謎」めく「他者」であることを、自ら読者に見つけてほしい。
 3つ、漢文の語彙では、いまいち書き表しにくい内容だった。

もし『晋書』が編まれても、私の列伝が立つはずがありません。私の晋家に対する功績は、微弱なものです。もし列伝が立っても、私の思いは、記されないでしょう。なぜなら、列伝もまた、私たちの言葉(漢文)で記されるから。
『三国志』は、ろくに読まれず、3冊に分離して、散逸してしまうかも知れません。しかし、後世に読み継がれることを臨みます。
以上、晋家に仕えても、心は漢臣の陳寿がお話をさせて頂きました。

、、、というわけで、終わりです。サイトの作成者である、ぼくが代筆させて頂きました。という設定。
話が行ったり来たりするのは、内田氏の本に沿って書いたからです。「さきに骨組みをつくる」方式でなく、「書きながら、陳寿の意図を発見する」方式でつくりました。ページを分けた場所も、ただ単に長さの区切りであり、話の内容によりません。
まとめと確認。
魏晋から見ると、蜀漢は、前漢と後漢につなげた上で、「他者」と位置づけられる。孫呉は「他我」である。陳寿の主張は、魏晋のやつらが、蜀漢を「他我」だと思っているから、その誤りを正せと。この主張を行うために、わざと分かりにくい『三国志』を記した。ってことで。ほんとかなあ(笑) 120219