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01) 『国語解』と『左伝』

高橋康浩氏の『韋昭研究』を読みました。今年の夏の、三国志学会で売られていた本です。気になったことや感じたことを、メモします。
この本を読ませていただき、充実した土曜日を過ごすことができました。勉強不足の身で、生意気にも、いろいろ疑問のようなことを書いていますが、お見のがし下さい。新しいことに、いろいろ気づけたので、こうして記録を残しております。
地の文は抜粋、枠内はぼくの所感。単位なしの3ケタ数字はページ番号。

抜粋は、自分用まとめです。不正確です。ご覧になる中で、気になることがあった場合、当然のことですが、高橋氏の本を 直接ご確認ください。


005_序論 学説史の整理と問題の所在

韋昭には2つの面がある。1つ、『国語解』『漢書音義』を著した学者。第1篇が該当、146まで。2つ、孫呉人士。第2篇が該当、147から。

はじめに、全体に対する感想を書きます。学者としての仕事と、孫呉人士としての仕事を、2つに分けて論じてある本でした。学者としては「神秘性」を支持しないが、孫呉人士としては「神秘性」を論じたと。
このサイトでは、カンタンのため、学者としての韋昭を「私人」といい、孫呉人士としての仕事を「公人」と呼びます。「公」「個人」という語は、134に出てきます。
高橋氏の議論を言い換えれば、韋昭は、私人としては「神秘性」を信じないが、公人としては、孫呉の正統をいうため「神秘性」を書かされたと。
ぼくに引きつけた解釈で、恐縮すべき&しょーもない感想ですが、、私人と公人を分けて論じられるのか? と疑問が残りました。2つの疑問があります。ABとする。
A まず概念の定義として。ぼくの皮膚になじむ「公私」の区別は、近代になって西洋から輸入したものだと思います。もちろん前近代&東洋にも、君主に仕える場面と、仕えない場面で区別があり、公私の区別のようなものはありますが、、近代&西洋に由来する区別と、三国時代に存在した区別について、異同を勉強したいと思いました。
書き手の高橋氏が概念を混同していると言うのでなく、読み手のぼくが混同しているのです。『韋昭研究』を読みながら、自分の混同を反省し、勉強の意欲がわきました。「豪族」「官僚」がキーワードになる論文を読むときに、気をつけたいなあと。
B つぎに日常の感覚に関して。会社での自分と、趣味での自分は、じつは分けられない。仕事の好調や不調は、趣味に流れこむ。仕事でインストールした発想は、趣味にも反映する。逆もしかり。韋昭が「本来」は「神秘性」を支持しない人だとしても、孫呉に仕えた期間が長かった。高橋氏が227で 鄭玄と対比して浮かび上がらせたように。
ぼくは、「本来」の自分が別のところにある、という発想に賛成しません。内田樹『呪いの時代』新潮社2011に納得している。だから、学者としての韋昭が「本来」で、孫呉人士としての韋昭が「本来」でない、という話は、腹におちませんでした。孫呉人士として、孫呉の正統性を宣伝しまくっているのも、韋昭だろうと。
会社勤めする前だったら、「会社に命令されない、本来の自分がどこかにある」と信じていただろうが、、「本来」なんて、今日の自分そのものでしかないと思ってます。

韋昭は、209年に呉郡の雲陽県に生まれ、混乱の時代に古典籍を読んだ。孫和の太子中庶子となり、『三国志』韋昭伝の3分の1を占める『博弈論』を書いた。
孫休が即位し、鼓吹曲を書いた。『呉書』の本紀について、孫皓と対立し、酒を飲まされて投獄された。未完の著作があったが、獄死した。未完の『洞紀』『官職訓』『辯釈名』らは現存しない。

◆010_韋昭の注釈とその諸研究
韋昭『国語解』がある。『左伝』は「内伝」とよばれ、『国語』は「春秋外伝」とされる。『左伝』『国語』 は、どちらも劉向、劉歆の父子が世に出した。『左伝』は整理されているが、『国語』は整理されていない。『国語』は先秦時代の「生のままの資料」であり、非合理性がある。

「非合理性」は、唐の柳宗元『非国語』を、高橋氏が説明したもの。
ぼくは、この「合理」という言葉も、ひっかかる。「合理的」って何だろう。詳細後述。

後漢の鄭衆や賈逵は、『左伝』と『国語』をどちらも学んだ。曹魏の王粛と孫炎、晋代の孔晁も、どちらも学んだ。孫呉の虞翻、唐固もどちらも学んだ。これらを韋昭がまとめた『国語解』が後世にのこった。
『国語解』が礼楽を解釈するとき、鄭玄をひく。孫呉にいかに鄭玄が伝わったか。王粛が鄭玄を批判するが、それでも韋昭は鄭玄をひいた。
『漢書音義』は顔師古が『漢書』にひく20人以上の注釈の1つ。

◆014_孫呉政権と韋昭の著述
韋昭は自発的でなく、孫呉政権に命じられて、『博弈論』『呉鼓吹曲』『呉書』をかいた。孫呉政権の性質の手がかりになる。
『博弈論』は儒教の価値観をいう。王2005が言うように、陸遜が、農業奨励、刑罰軽減をとなえたのと同じ。
松家1998は、曹魏の鼓吹曲について「曹植におとる」と断じた。だが、政治的かつ公的ものとしての性質をもつ鼓吹曲を、個人的な感情を発露した曹植の詩と比べてはいけない。

ぼくは上で「公人」「私人」と単純化して、差異を浮かび上がらせた。高橋氏の文でも、同じような表現を見つけました。「学者」「孫呉人士」というより、「公人」「私人」としたほうが分かりやすいので、このサイトでは、この言葉を使い続けます。

『呉書』は孫呉の正統性を主張したもの。渡邉2007は『国山碑』から、孫呉が金徳を主張したという。

韋昭は三国時代を代表する知識人。思想的、文学的な検討をふくめ、総体として韋昭を論じ、歴史のなかに位置づける。

言葉じりに噛みついても、著者に失礼なだけですが。。「歴史」に位置づけるって、べつの言葉で言うと、どういうことなんだろう。論文を読むと、くわしくテキストが検討されている。それが、思想や文学に留まる内容だとは思わない。っていうか、テキストの検討は、それ自体がすごいのであって、カテゴライズが不要だと思う。
高橋氏によるテキストの検討を、思想や文学に留まっている? とするなら、それに加えて何をすれば、歴史になるのだろう。詳細後述。


031_1章『国語解』考

『左伝』杜預注、『国語』韋昭注が決定的なもの。
樊1998はいう。韋昭『国語解』は、『左伝』の具体的な史実をひく。後漢の経学者と異なり、史学的な色彩があると。
池田2001はいう。韋昭は、賈逵から学説と方法をつぐ。『国語』と『左伝』は表裏一体との理念があり、その理念を実戦していると。年代注記を多用して、『国語』を『左伝』に則って再編した。史実から虚偽と曖昧さを排除し、可能な限り正確な出来事と時期を確定させようという「史」としての精神がはたらく。

池田氏の引用部分だが、、強烈な言葉を使っている。
ぼくは思う。今日にいうサイエンスとしても歴史学と、魏晋期に成立した「史」のジャンルを区別する必要があると思う。池田氏が後者の意味で「史」と言っているなら、問題ない。韋昭の仕事は、魏晋の流れに先駆けたものでしたよ、と理解できる。しかし、池田氏の強烈な言葉を見ると、サイエンスとしてのスローガンをとなえているように見える。
韋昭がサイエンスをやろうとした? そうなのか? という、池田氏への疑問。


『国語解』叙文で、韋昭の意図を整理する。『国語』を左丘明の著作と捉え、他の経芸と同じ価値があるとする。鄭衆、賈逵、虞翻と唐固を参考にする。『左伝』『国語』という書名を言わず、「内伝」「外伝」とよぶ。2書はツイだという認識である。
『左伝』『国語』は後漢で兼修されたが、孫呉では兼修されない。
虞翻は『公羊伝』『孟子易』など今文系。唐固は『公羊伝』『穀梁伝』をやり、陸遜、張温、駱統に教えた。だが虞翻も唐固も『左伝』をしない。
反対に『左伝』をした士燮、張昭、諸葛瑾、張紘、微宗は、『国語』をしない。少なくとも列伝にない。

学問「やりやすさ」は、どうだったんだろう。たとえば数学をやらずに、物理をやるのは困難。数学をやらなくても、英語ならできる。、、みたいな相性があるはず。
後漢でセットで学習した人は、知識人の中でも稀少なエリート、と言えないかな。後漢や曹魏でも、片方しか学ばなかった人がいないか。孫呉の列伝をおおく紹介したから、片方のみの学習例が目立った、ということがないか。いつか? 列伝を調べる。

呂蒙伝にひく『江表伝』で、孫権は『左伝』『国語』をしろと、呂蒙と蒋欽にいったが、孫呉では兼修されていない。

◆037_韋昭注の傾向
韋昭は、訓詁、地名、人名、人物系譜、他説引用、他書引用、紀年付記、などをする。史家としての資質を思わせる。039の表のように、儒教経典を引用する頻度がたかく、中でも『左伝』が最多だ。

先週アップした、言語ゲームの話に通じる疑問です。
韋昭がやった注釈は、史家の仕事なのか? ぼくは賛成しません。
『左伝』と付き合わせたことが、史家の仕事とされてます。これは、文学や思想と何がちがうんだろう。テキストVSテキストという作業であり、それ以上でも以下でもない。付き合わせる相手が、歴史書たる『左伝』ならば、文学や思想と同じ作業をしても、史家の仕事になるんだろうか。
しかし、高橋氏があとで書いておられるとおり「史」の分類が誕生するのは、のちの時代だ。韋昭は、『左伝』が史書だから、積極的に引いたのではないだろう。高橋氏がいうとおり、同一著者による表裏一体の本という認識があるから、数おおく引用したのだと思う。
つまり、ほかの経典と比べたとき、『左伝』がより多くの事実と接続しているという理由から、『左伝』を積極的に引用したのでない

同時代に『左伝』を研究したのは「荊州学」である。後漢の賈逵が『左伝』につけた注釈をおおく使う。だが韋昭は「荊州学」や賈逵でなく、鄭玄の影響がおおきい。『周礼』『詩経』『礼記』からの引用が多いからだ。

劉繇の配下の青州出身者が、孫呉にいる。太史慈、劉惇、滕胤、孫邵らがつながる。虞翻と程秉は、青州の孔融はつながる。薛綜と徐整は、鄭玄を崇拝した。
池田2001はいう。韋昭は鄭玄の礼学を引用したが、不用意な引用があり、理解が不充分である。鄭玄の名をあげて明確に否定したのは、1ヶ所である。

韋昭が鄭玄にどんな態度を示したか。これが論文の結論のキモにつながると思う。鄭玄は、高橋氏のいう「神秘性」を説いた人である。私人では神秘をきらい、公人では神秘をいった韋昭、というのが結論だから。

韋昭は六天説をひく。六天説をいうのは鄭玄のみ。

鄭玄からの影響は、複数の経典をまとめるという方法にも現れる。鄭玄は『周礼』『詩経』『礼記』を体系化して、今古文を融合した。『左伝』『国語』を融合させた、韋昭の仕事とおなじ。

これは、どうなんだろう。体系化と融合は、時代全体の流れと言えないか。鄭玄の影響を受けたというより、鄭玄もおなじ影響下にいたと考えられないか。
031で高橋氏は、杜預と韋昭を比べて「ほぼ同時期に偶然か必然か、決定的な注釈が著されたのは興味ぶかい」と書いておられる。
「まとめ」を作るのが時代の要請だったと考えられないか。後漢が滅びて以後、文化の散逸が激しかった、とかね。もしくは、直後の西晋以降、「まとめ」を更新する余裕がなくなったので、三国時代の仕事が決定版になったとか。
「まとめ」をつくる風潮を鄭玄がつくった、と考えれば、韋昭が鄭玄の方法をマネた、と言うことができる。すると、杜預と韋昭を「偶然か必然か」とまとめてしまうのは、惜しい気がするし、、
前後関係、因果関係は、むずかしい。何を言っても、ストレスフリーな外野による、無責任な指摘にしかならないので、、この話は保留です。

韋昭が『国語解』に六天説をもりこんだので、『国語』は四部分類のなかで、経部春秋類に属した。清代になって、史部雑史類に移った。

全体の話が、わからなくなってきた。3つの話がある。ABCとする。
A 池田氏が指摘した「史学的傾向」に、高橋氏は同意する。鄭玄の礼学知識に対抗するため、韋昭は『国語解』に史学的色彩をこめた。048。
B 鄭玄の六天説をひき、『国語』を鄭玄の体系化に組みこんだ。韋昭の『国語解』により、『国語』は四部分類で経部になった。047。
C 鄭玄の「神秘的」な注釈に、韋昭は同意しなかった。韋昭は「合理的」な解釈を中心とした。228。
うーん、頭がグルグルしてきた。後ろで高橋氏は、韋昭が私人としては神秘を嫌ったが、公人としては神秘を書かされたという。ところが章立てを見ると、高橋氏は、『国語解』を私人(学者) の仕事として分類している。
ぼくなりに、ツジツマ合わせを試みる。
韋昭は、鄭玄の主張(六天説などの神秘) を私人として好まないが、方法だけは借りた。私人モードであるにも関わらず、鄭玄の六天説を、中途半端な理解でひいてしまった。六天説をひいたのは、不注意である。(不注意って言葉はぼくが勝手に使いました。不注意とでもしないと、高橋氏の指摘が一貫しないように見える)。
もしくは、私人(学者) 韋昭が仕事をするときに、孫呉政権からの圧力のようなものが加わり、『国語解』を書くとき、部分的にだが、公人(孫呉人士) モードに切りかわってしまった? 易姓革命を支持する意見を引かざるをえなかった?
全体の筋道がわからない。ごめんなさい。
『国語解』が書かれた時期は、わからないようだ。列伝にない。高橋氏は、ぼくが見た範囲では指摘していない。ぼくは、執筆時期を仮定することで、矛盾を解消できると思うが、、史料にないことは、何も言えないのがつらいところ。


次回、後半です。『呉書』のこともあります。つづく。