01) 言語ゲームの確認
いわゆる歴史哲学について、11年の夏休みに考えたこと。
同じテーマで、2年弱前、2010年3月に書いたのが、こちら。
シロウトにしか書けない『三国志』とは
同じテーマで、1年強前、2010年10月に書いたのが、こちら。
シロウトの三国志研究と、20世紀の歴史哲学
まえおき
いつも、このサイトをご覧いただき、ありがとうございます。
4年前に始めたとき、小説や旅行記を置こうとしていた、サイトでした。
いつのまにか、史料の抄訳と注釈の、置き場になりました。
歴史サイトは、史料ありきなので、基本路線は、それでいいのでしょう。
ごめんなさい。
っていうか、史料を正しく読もうとするなら、ネットで検索などせず、ましてこのサイトなど参考にせず、辞書や工具書をおともに、原典と向き合えばいいのに、と思ったりもします。史料を正しく読む作業というのは、静かで厳かなものなんだと思います。
もちろん、ぼくは、自分の誤読を開きなおるつもりがありません。基本的な事項にかんする無知・誤解に対するご指摘は、とても勉強になっています。ご批判も、毎度のことながら、もっともだなあ、と思って読んでいます。ありがとうございます。
今回は、いっぽ引いて、
史料の「読み方」とか、考察の「書き方」について、整理します。
史料の抄訳と整理が、生産物だとしたら、今回は生産法についてです。
今日の日本にある大学でやる「歴史学」は、無数にある考え方のうち、1つを採用したもの。「歴史学」に対する、ある考え方が市民権を得ている。大学で研究するには、その考え方に則るべきだ。
今日の大学の「歴史学」がワン・オブ・ゼムに過ぎないことは、東洋や西洋等の歴史学の歴史(史学史) を見れば、すぐに気づくことができる。
ぼくは大学に属さないので、「歴史」を「学」ぶにあたり、べつの考え方を採用してもいいはずだ。っていうか、いいじゃん。
大学の研究論文を査読する教官なら、いざ知らず、、このページを含め、三国志系のページを見るのも作るのも、大学で三国志の研究を「職業」としない、おのおのが関心を持った人たちだと思う。そういう「ネット閲覧者」たちが、どうして大学で採用された考え方を、そのまま「正しい」と信じて、従う必要があるだろうか。
ここで言いたいのは、「このホームページはミスばかりだが、あながちデタラメばかり、書いているのではない」ということです。
史料をあつかう限界を意識した上で、ところどころ、わざとムチャをしています。これを、ご説明します。
このページを見ると、ぼくの頭がショートしているように見えると思いますが、例えばぼくでも、会社でつくる書類は、事実と意見を分けて書くくらいのことは、しています。
今回のページは、事実と意見がグレーな部分の取り扱いについてです。
土屋賢二『土屋教授の哲学講義・哲学で何がかわるか?』文春文庫2011
同上『あたらしい哲学入門――なぜ人間は八本足か?』文藝春秋2011
を導入につかい、史料にあたるときの態度について、整理しました。
しばらく土屋氏の引用が続きますが、後半にちゃんと使います。
哲学は何ではないか
『土屋教授の哲学講義・哲学で何がかわるか?』で、土屋氏はいう。
哲学は、宗教でない。信じないで、疑うからだ。
哲学は、文学でない。問題と解決があるからだ。
哲学は、科学でない。観察せず、言語で明らかにする。
「観察しない」は、みょうに一致する。偶然かも知れない。歴史学が対象とするのは、すぎさった過去のこと。だから「観察できない」が実際のところ。仕方ないから、史料(文字資料)をつかって、過去のことを考える。たまたま、土屋氏のいう哲学の定義とおなじだ。
ベルクソンの時間にかんする主張
『哲学講義』の2章、049ページから、まずは抜粋。
「われわれが時計で測っているものは、時間ではない」より。
ベルクソンはいう。ぼくらが測る時間とは、時間でない。空間である。
時計の針が動いた角度、距離を、測っているだけである。
時間を、空間におきかえて、測っているだけである。
ほんとうの時間とは、とうてい測れないもので、本来「純粋持続」のことだ。
土屋氏は、ベルクソンに納得しない。時間とは、ぼくらの言う「時間」のことだ。
時計で測ることができるものを「時間」と呼んでいるのだ。
時間とは「時間」であり、「純粋持続」でない。
つまり、
ベルクソンは、時間の性質でなく、言葉の定義を変更しただけ。
「時間」という言葉の定義は、社会の合意だ。くつがえすのは、ただのルール違反にすぎない。言語のルールは、ゲーム(将棋など)のルールに似ている。
ベルクソンがおかしたルール違反を、将棋に例える。「みんな桂馬は、斜め前にしか飛べないと思っている。しかし、ウマは直進する。ゆえに本来、桂馬は、直進すべきだ」と。これは新しい将棋の発見でなく、ルールを変えただけ。
土屋氏は「純粋持続」の定義がわからないし、わかるつもりもない。
土屋氏は、ベルクソンが時間を「純粋持続」と言いたえたことを、もう1度たとえる。
誰かが「お前はこれを机と呼ぶが、誤りだ。じつはバラミラこそ、本来の机だ。バラミラとは、、(難解すぎる説明)」と主張したとする。これは「机」とよぶルールを、変えているだけ。主張に意味がない。
誤りとは、事実とちがうことを言うはずだ。だがルールには、正しいも誤りもない。ルールとは、決めごとだから。「そういうもの」だから。
デカルトの「われ思う」は、なぜ疑えないか
土屋氏の本の、途中を飛ばしまして、191ページ、7章。
たいていの命題は「偽」の可能性がある。だが「われ思う」「わたしが痛い」と本人が言えば、それは、つねに「真」である。なぜか。そういう言語のルールだからだ。本人がそう言えば、そういうことにしよう、という社会の合意がある。
「わたしは、コレコレだと考えていると思うけれど、ほんとうは、そう考えていないかも知れない」は、文として意味がない。デカルトは「われ思う、ゆえに、、」と言った。これは、言語のルールをなぞっているだけ。つねに「真」に決まってる。
言語のルールをなぞっても、世界の真理を探りあてられない。
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム、コーヒーの注文
219ページ、8章より。
ウィトゲンシュタインは、すべての哲学的な問題は、ナンセンスだとした。問題そのものが誤っていて、問題として成り立たない。
ゲームには、ルールがある。「世界がどうなっているか」ということに関係なく、自由にルールを決めたり、変えたりできる。言語も、ルールである。「世界」と関係ない。
喫茶店で、コーヒーを注文したいとする。店員に、意思伝達するには「コーヒー」と言えばいい。「コーヒー」と言われたら、コーヒーを持ってくるのが、喫茶店のルール。「チキンライス」というと、コーヒーはこない。客が「コーヒー」と言ったとき、店員が「南米で栽培するマメを焙煎した、琥珀色の、、」と答えるのは、喫茶店のルールに違反する。定義をいうゲームでないから。
客と店員が、共通のルールでうごく。それ以上でも、以下でもない。
言語ゲームで、哲学の問題はどのように解けるか
「赤いリンゴを5つをくれ」といえば、哲学は「赤いとは」「5つとは」と考える。言語と実在を対応させようとする。しかし、これは言語にたいする誤解だ。「赤い」「5つ」は、実在しない。問いに意味がない。
言語と実在が、対応する必要はない。ルールにもとづき、期待した反応を、ひき出せばいい。「赤い」を注文したら、色見本と比べてもらえばいい。「5つ」を注文したら、1、2、と、数えてもらえばいい。
カント『純粋理性批判』は、真なる文をつくることを目指した。つまり、事実と一致した文をつくりたかった。
しかし、事実と文には、共通点がない。一致もしない。例えば「色と色が合致する」はあるが、「色と音が合致する」は、ない。おなじく「事実と言語が合致する」もない。言語は、たとえば記号である。記号は、事実とちがう。「記号と記号が合致する」はあり、「事実と事実が合致する」はあるが、「記号と事実が合致する」はない。
ぎゃくに「文を真にするのが、事実だ」と主張する人がいる。だが、議論が循環して、ダメだ。「真」という言葉を「事実との一致」と説明するなら、定義のなかに「事実」が入っている。おかしい。
「哲学の問題を、全面的・最終的に解決した」理論
ウィトゲンシュタインはいう。事実は、ずっと分析すると、いくつかの単純なモノの組み合わせになる。単純でなければ、分析がたりない。
ウィトゲンシュタインはいう。文とは、要素(名前)の組み合わせだ。
「文と事実が一致する」とは、どういうことか。2つの条件がある。1つ、事実のモノと、文の要素(名前)が、一致すること。2つ、モノ同士の組み合わせと、要素(名前)同士の組み合わせが、一致すること。
楽譜は、機械的に音楽に変換される。おなじように、文が、機械的に事実に変換できるなら、文と事実が一致すると言える。
哲学は文をつくるが、真理にとどかない。
事実に変換できる文 (=あたらしい事実の1つ)を、追加するだけ。
土屋氏の本からの引用は、これでおわりです。
引用してきた土屋氏は、いわゆる「言語論的転回」の説明だったのかな。
科学に似せた、哲学の悪問
次は『あたらしい哲学入門――なぜ人間は八本足か?』より。
副題の「なぜ人間は8本足か?」に、答えられる人はいない。なぜか。人間は8本足でないから、この疑問に意味がない。
事実に基づかない条件文や疑問文には、意味がない。
「なぜ空が青いの?不思議だなあ!」という疑問をもつ子供を納得させられる大人はいない。光が素粒子が、と説明しても、子供は納得しない。空が何色でなければ不思議でないのかが明らかでないと、「なぜ空が青いの?」に対する答えとならない。「不思議である」の客観的な判定条件がないと、疑問に答えられない。
これらの答えられない疑問が生まれる理由は、自然科学の問題の立て方を、主観的な疑問に転用しているから。カタチは似ているが、内容が全くちがう。
「なぜ人間は8本足か?」は「なぜ日食が起きるか?」のカタチに似ている。日食の原理なら、自然科学が説明する。
「なぜ空が青いの?」は「なぜ惑星は恒星とちがう動きをするの」のカタチに似ている。惑星が恒星と連動しない理由を説明すればよい。
自然科学の問題の立て方を、勝手に流用してはいけない。カタチだけ似せて、誰にも答えられない問題を作ってはいけない。作ったところで、意味がない。このあたりは、次ページの歴史学の話につなげる予定です。
「趣味を楽しむ」というのに、土屋氏は趣味のピアノの練習がつらいらしい。「どうせ全員が死ぬから、人生なんて意味がない」というが、そう考えると虚しい。
上記の虚しさが生まれる理由は、「楽しい」「意味がある」の言葉の定義を、限定して使っているから。「楽しい」は、苦労がない状態だけを指さない。土屋氏は、ピアノが上達しないが「楽しい」らしい。
哲学的で深遠な悩みのように見えて、言葉の使い方の問題でしかない。言語ゲームのなかに収まる話である。
次回は、土屋氏(というかウィトゲンシュタイン) への反論を、ちょっと見ます。つぎに、ぼくが考えていることを書きます。つづきます。