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楽毅を知り、諸葛亮を知る。 2)楽毅の後半生
■ほのかな郷愁、魏
楽毅の祖先は、魏の将軍・楽羊でした。
趙を去った楽毅は、魏で学問を始めて再起を図ったようです。宮城谷さんは、「配下が家族を持てるように、どこかに仕官しなければならん」という書き方をしてる。いつの時代も、就職は深刻のようです。
「どうせなら、先祖返りして魏に仕えたい」というのが、感情的にはすんなり行く。ただ、当時の魏はあんまり魅力的ではなかったようですが。

魏の位置・大きさを三国ファン用に言い換えれば、「洛陽を中心に、中原の東半分に同心円を描く。そして、洛陽周辺だけをクリ抜く」です。ドーナツの穴の部分には、「韓」という国があります。

楽毅には、生涯を通じて師を仰ぐ人がいました。孟嘗君(田文)です。宮城谷さんが小説の主人公にしているので、そちらも読んでみようと思いますが、魏や斉の大宰相です。
孟嘗君(田文)は斉を追い落とされて、魏に来た。彼は、斉を討つための大同団結を築こうとした。楽毅もその一翼として参加した。魏の使者として、協力を取り付けるために、燕に行った。
■まず隗より始めたら?
「まず隗より始めよ」と云う。学校で習う、有名な諺です。
郭隗が燕王に言ったことには、「オレを優遇して下さい。郭隗のような凡人でも優遇されてると聞けば、天下の賢者は『私ならもっと待遇がいいだろう』と、期待して集ってくるはずです」というやつです。
しかし学校では、この話の結末を教えてくれない。「まず隗より始めた」燕王は、どんな逸材を手に入れたのか?このクイズの答えは、楽毅です。ぼくはずっと知りませんでした。
っていうか、高校生に「なんと!燕の昭王は楽毅を得たのです!」と言っても、「何それ。日本語ですか」という反応が関の山か。

■三顧の礼を尽した燕
楽毅は、燕王に口説かれた。「私は魏の使者なので、ほいほい燕に就職するわけにはいかんのです」と悩みつつ、ついには燕に帰属した。
燕という国は、「幽州と冀州北半分」です。
燕は、後継争いのとき、介入してきた斉に国土をボロボロにされたという過去を持ちます。だから、斉を攻撃することに執念を燃やしていた。楽毅はその実行者として、燕王に期待されたのです。
中山で踏ん張った経歴が評価された。楽毅は期待によく応えて、斉を2城を残して片付けた。

当時は戦国時代の末期で、大勢の行方が2大国に集約されてた。西の秦(雍州のあたり)と、東の斉(青州のあたり)が強くて、秦の提案で「西帝」「東帝」を一瞬だけ名乗ったほど。
「合従連衡とはこのことか!」という複雑さで、2大国の間で遊泳する「その他の国々」が、敵になったり味方になったりを繰り返していた。燕は辺境だから、ずっと部外者扱い。その燕にいて波を読み、絶好のタイミングでサーフボードを下ろしたのが、楽毅でした。
5国の連合軍を、楽毅が仕切って、見事に斉に勝った。

■その後の楽毅
燕王は宿願を成就するや、死んだ。燕の太子とソリの合わない楽毅は、趙に亡命した。趙と燕の境界あたりに家を与えられて、両国に付かず離れずを保ち、知らぬ間に表舞台から消えてしまった。
宮城谷さんは否定していたが、楽毅は小説の設定よりもずっと高齢だったんだろう。だから、穏当に引退しただけだろう。

斉は国土を回復して、秦の統一まで、もうしばらく天下に居座る。
斉を復活させた将軍・田単は、楽毅の友人の息子である、というのは(おそらく)宮城谷さんの作った趣きある設定。
■楽毅は節操なしか
楽毅は国を転転とする。三国ファンには不思議に思えるほどに、飛び歩く。だから「ガッキーは節操なしなのか」と思えてくる。だが、結論を先に言えば、楽毅は節操なしではないようだ。

春秋戦国は500年の歴史。三国志はたかだか100年。そういうわけで、後継問題が、話題に占めるウェイトが高い。
もともとは1つの周から分かれた国々が割拠しているから、イデオロギー的な対立は、国家間で薄い。臣下は、国というイレモノへの帰属というより、君主個人への帰属意識が強そう。だから、君主が代替わりをすれば、それは「別の国」と見なしてよいくらい。
中山が滅びたのは特例だけど、それ以外に楽毅が国を離れた理由は、君主との相性だ。孟嘗君(田文)も同じことをやってる。

三国志の時代まで下ると、「正統な国はただ1つ、漢のみ」という強迫観念が、良くも悪くも英雄を縛る。400年間も国が1つしかなかったのだから、「1つの国に仕えとおすのが当然」という空気が、必然的に強くなる。他に選択肢がなく、「漢臣か在野か」という2択だけだった。
そういうわけで、孟達のような男は、信義のカケラもない雑魚武将という扱いだ。劉璋が滅びたのは仕方ないとして、「関羽が気に食わない」「曹丕と仲良し」「曹叡とは親しくない」という理由で、国の間を行ったり来たり。また、賈詡は「世渡り上手」と皮肉られる。

このように、孟達や賈詡を責めるのと同じ目線を向ければ、楽毅だって「単なる節操なし」に過ぎなくなる。だが、違うんだろう。時代が違う。
大くくりにすれば、楽毅は祖国の仇に、親しんだことになる。だが、楽毅の祖国を滅ぼした趙は、趙王が餓死したときに(擬似的に)滅んだ。だから、次の趙王に保護を求めても、不義理じゃない。
三国ファンが春秋戦国を読むときは、眼鏡をかけ代えねばならないね。
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このコンテンツの目次
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春秋戦国の手習い
楽毅を知り、諸葛亮を知る。
1)楽毅の前半生
2)楽毅の後半生
3)劉備は諸葛亮の踏み台
4)楽毅になれない諸葛亮