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(C)2007-2009 ひろお
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楽毅を知り、諸葛亮を知る。 3)劉備は諸葛亮の踏み台
楽毅を見てきたところで、三国志に帰ってきました。 諸葛亮は、楽毅のどこに惚れたんだろうか。
(1)中山国の延命と、(2)討斉軍の総帥、という2つの時期を目印にして考えてみます。
ただ事前に見通しを立てておくと、諸葛亮は、楽毅の(2)の時期に憧れていたと思う。荊州で諸葛亮は、学友に「キミらは、太守くらいにはなれるだろ」と言ってる。この裏には「オレは全土規模で、スケールの大きなことをやりたい」という思いが隠れているはずで。
世に出る前から(1)に魅力を感じ、「亡国の宰相として奮闘し、惨めに故郷を去りたい」と願うドMな若者は、そんなにいない(笑)

■劉備は踏み台に過ぎない
中山国の延命をした楽毅は、名将としての声望を得た。国の消滅という結果はともかく、これが、後半生の大躍進の材料になった。
この時期の楽毅は、一見すると「中山国への無限の忠」を発揮したようだが、「主君万歳」は彼の本質じゃない。なぜなら、のちに楽毅は、趙、魏、燕を渡り歩いてる。斉に色気も感じていた。「はじめの主家は不幸にも滅びた。これは、已むなし。だが次に仕官する国で、生涯を終えよう」なんて人ではない。
そういうわけで、「諸葛亮は楽毅から、一国にとことん仕えることを学んだ」と言うのは、筋違いだろう。諸葛亮は楽毅の人生を俯瞰して、計算高く考えたのかも知れない。「弱小勢力の肩を持って目立てば、雄飛の踏み台が作れるぞ」と。何しろ、若いからね。

そんな打算を持った諸葛亮のところに、「中山靖王の末裔で」と名乗る劉備が訪ねてきた。「中山」とは、楽毅の国だ。楽毅とのシンクロが嬉しくなって、草庵を飛び出したくなったのかも知れない。
「いい踏み台が、オレの足の下に滑り込んできた!」
劉備は、最大勢力の主催者・曹操にライバル視されており(これが最重要)、極端に弱くはなく、武将の手駒は豊富だが、文官が過疎だ。諸葛亮が天下に存在感を示すには、持ってこいの活躍の舞台だ。大事業を打ち立てるステップとしては、最適だ。

大きなプロジェクトに参加したければ、大企業に入らないとダメです。
諸葛亮は最終的には、漢(実質的には曹操政権)に就職したかった。だが、新卒としてコツコツ勤め上げても、のちの徐庶のように終わる。荀彧のような創業メンバーには、追いつけない。
だから、華々しく中途採用される道を探ったんじゃないかな。結末を知っている現代人が「諸葛亮は、小さい国でもいいから、楽毅と同じく宰相になりたかったんだろう。鶏頭牛後だね」と勘繰るのは、違うと思う。諸葛亮がそんな悟った人なら、学友を笑ったりしない。
■諸葛亮の隠れシナリオ
諸葛亮は、劉備をそこそこに切り上げて、雄飛するつもりだった。
天下三分の計は、劉備に天下を取らせる作戦であるとともに、諸葛亮のすごさを、曹操に知らしめるための作戦であったと思う。
関羽を荊州から攻めあがらせ、漢中から長安を脅かす。老いた曹操がビビッて、鄴にでも遷都する。 天下の均衡が崩れた後に、諸葛亮は曹操政権に自分を売り込むんだ。「どうです、ビックリしたでしょう。長阪の敗北でゼロリセットされた劉備軍を、ここまで育て上げたのは、私の頭脳なんですよ」と。
憶測が過ぎるかも知れないが、長阪で無惨な逃走を諸葛亮が仕組んだのは、己の腕を曹操に見せるためか。はじめに「ハコの中はカラですね」と観客に確認させる、マジシャンと同じ理屈です。
三国志の本はいっぱい読んだが、長阪の壊走をうまく解説した文章や小説にお目にかかったことがない。「後先を考えず、ただ逃げるしかなかった」とでも書いてもらったほうが、まだスッキリするものばかり。しかし、真相はこれかも知れない。

さて、劉備軍が関中を奪った後、好条件を提示してもらえば、諸葛亮は曹操に洛陽を返したかも知れない。「ほんの示威行動でした。私の凄さが分かれば良いんです」と和睦しておく。このとき、少し恩を売っておく。やがて諸葛亮は、頃合で劉備を裏切って、曹操の軍師として益州を征圧したんじゃないか。関羽は荊州で立ち枯れるが、また曹操が勧誘すればいいじゃないか(笑)
この作戦を履行する諸葛亮の方が、より楽毅っぽい。名声のある1人の男が、国家の間を飛び回り、同盟の切り貼りを自在にやって、天下を方向を決めてしまう。ああ!これこそ楽毅だ。

■諸葛亮はきっと裏切る
「あの忠烈な諸葛亮さんが、劉備を裏切ることはないだろう」という反論は、充分に想定できる。だから、この疑問への回答をいちおう用意しておきます。
モノは新しく作るより、既存のものを使うほうが、コストが少ない。品質が保証されている。これは道理でしょう。
劉備政権は、任侠集団が膨らんだだけのもの。古参の配下と荊州閥と益州閥がせめぎ合い、政治機構は簡素にとどまる。
一方で曹操の創った国は、うまく名士を取り込み、それなりに先進的なアイディアが盛り込まれ、ほぼ完成品だ。農業政策も異民族対策も良し。しかも献帝を奉戴しており、正統性にケチが付いていない。
むかし曹操が徐州で大虐殺をやって、それが汚点になっているのは、事実。しかし勝者は、そんな暗い過去も白く塗り潰せる。「諸葛亮は故郷をなで斬りにした曹操を、心底憎んでいた」と推測するのは、結果から遡った後付だろう。諸葛亮が蜀漢に死ぬまでいたから、そういう風に見えるだけだと思う。

この時代の名士のネットワークは、国境を越えた。手紙のやり取りを平気でやってる。諸葛亮が名士としてフラットな視点に立てば、「ナニがナンでも劉備の国を作りたい。曹操由来のものではダメだ」と意地になる理由がない。
法正の例があるように、諸葛亮は蜀の実権を握っていない。蜀の中で地位向上を狙うよりも、蜀そのものをブッ壊してしまった方が、結果として得られるものが大きい。ラテラル・シンキングだ(笑)
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このコンテンツの目次
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春秋戦国の手習い
楽毅を知り、諸葛亮を知る。
1)楽毅の前半生
2)楽毅の後半生
3)劉備は諸葛亮の踏み台
4)楽毅になれない諸葛亮