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楽毅を知り、諸葛亮を知る。 4)楽毅になれない諸葛亮
■転職計画の失敗
諸葛亮の隆中対の作戦は、ご存知のように失敗します。関羽が呂蒙に背後を取られて、戦死した。
こんな状態で曹操のところの求人に応募しても、「諸葛亮?ああ、あの失敗した人ね」という印象しかない。書類選考すら通らない(笑)
北方『三国志』では、関羽が死んだ後の諸葛亮の落ち込み方が、ドラマチックに書かれている。劉備の良き臣下として、ものすごく暗くなってる。でも、「曹操に認められて、楽毅になる」という打算が費えてしまったことが、諸葛亮を落ち込ませたんじゃないか。
「オレは一生、劉備の臣で終わるかも知れない。暗澹たる思いだ」

さらに諸葛亮にとって不幸だったのは、曹操が死んだことと、曹丕が皇帝を名乗ったこと。
曹操が死に、自分を認めてくれる器の大きな君主がいなくなった。その直後に、曹丕が皇帝を名乗ったせいで、劉備が帝位に就くきっかけが出来てしまった。
これまで劉備が「帝室の血縁だ」と叫んでも、ジョークの領域だった。劉備の血筋が第一要因になって、劉備に付いてきた人はいないんじゃないか。しかし曹丕の暴挙により、洛陽と成都の間で、しっかりした根拠に基づく、イデオロギー的な対立が生じてしまった。

楽毅のように国家を飛び回り、諸侯を幻惑し、自分が天下を主催する。これが諸葛亮の理想だとすると、魏と漢(蜀)の対立は厄介です。信念に凝り固まった集団は、容易に離合集散してくれない。諸葛亮を苛立たせた印象のある孫権の方が、まだ始末がいい(笑)
劉備は夷陵に突っ込み、1年も滞陣し、陸遜に火をつけられて壊滅した。「これだから、凝り固まった人間というのは、不自由なんだ」と、諸葛亮は成都でため息をついていただろう。
■劉禅を背負った皮肉
楽毅が最初に仕えた中山王は、無能だった。
小国のくせに「王」を名乗った。これが周囲の反感を招き、趙に攻められたとき、どの国にも助けてもらえなかった。中山王は視野がせまくて、人の心も大局も読めなかった。

さて、劉備が死に、劉禅が皇帝を継いだ。諸葛亮は思っただろう。
「小国のくせに皇帝を僭称するとは、劉禅はまるで、楽毅が助けた中山王と同じだ。蜀は、オレが実績を作る舞台としては、憎らしいほどにいかにも適切だが、またゼロからやり直しだよ。当初の目論見から、10年以上遅れている。困った」

■北伐の真意
諸葛亮は、平たく言えば「ムキになって」北伐をしました。
国力を踏まえないその行動は、漢復興の執念だとか、攻撃的防禦だとか、国の求心力維持だとか、いろいろ言われてます。確かにそういう説明や解釈は成り立つし、正しいと思う。
当時の蜀の国内だって、「理由はないけど出兵します」なんて言っても、誰もついてこない。だから、諸葛亮はもっといろいろな理由を付けたのでしょう。「出師の表」なんて書いちゃったりして(笑)

だが、北伐がタイト・スケジュールになった本当の理由は、諸葛亮の自己PRだ。司馬懿なんかが出てきた日には、喜んだに違いない。「キミは名門だ。同じ名士として、早くオレを認めてくれ。そして、魏への転職を斡旋してくれ。宜しく頼むぞ」という具合だ。

■奇策を用いない理由
諸葛亮は、いつも雍州と涼州を抑える動きを見せる。だが、ペースが恐ろしく遅い。奇策を採用しない。「いつになったら洛陽を落とし、魏を駆逐するんだろう」と、ファンならずとも不安になる。
ここで勘違いしてはいけないのは、諸葛亮は魏を滅ぼす気などないということ。魏に自分の実力が認められれば、もう充分なのです。
魏に好条件で転職する。蜀は諸葛亮を畏れてるから、彼が転職しただけで、蜀の瓦解を誘えるかも知れない。そして、魏が長江の上流を併せたのを良いことに、呉を討つ。周瑜のいない孫権は、ふたつ返事で下ってくる。これで、楽毅になれます。

魏延が「長安を急襲しましょう」というが、2つの意味でダメだ。
まず、成功したとしたら魏延の名が売れてしまう。諸葛亮の名が売れない。次に、そもそも魏を討つことが目的ではない。長安に打って出るとは、「ほしくもない果実のために、敗北のリスクを冒す」ということだ。そんなの、絶対にダメだ。声望が落ちるじゃないか!
曹操も曹丕も失った魏が、どれくらい状況対応力に優れているのか、未知数だ。だから、魏を驚かせ過ぎないように、でも無視はできないくらいに、切り取りにかからねばならない。匙加減が難しい。この妥協点が、非効率に西方を突っつくだけの北伐の正体じゃないか。

けっこう他人と器用に付き合える諸葛亮だが、魏延とだけは、ひどく衝突した。「反骨の相」なんてマジック・ワードを、発明した。
魏延は、蜀の(おおやけの)国是に忠実なので、下心のある諸葛亮とぶつかるんだ。魏延は劉備が異常に好きなので(笑)諸葛亮には邪魔だった。魏延=反逆者、という世評とは逆になってしまったけど。
■魏へのアピール
いちばん成功可能性が高かった(洛陽へのPR力がいちばん強かった)第一次北伐は、馬謖がボケをかまして、失敗。派手な作戦がムリなら、せめて局所戦で戦績がほしい。だから陳倉を年内に攻めたが、これまた失敗。
陳倉を攻めた戦略的な価値が不明で、北方『三国志』では、訓練だったことになってる。それぐらい、意図が見えにくい。ただの諸葛亮のPR活動だったと解釈すれば、筋が通る。

のちに準皇族・曹真が攻めてきてくれたのに、長雨に阻まれて、敵が撤退。長雨は蜀にとっては嬉しかったが、諸葛亮にとっては障りだった。腕の見せ所を失ったから。曹真を圧倒して「諸葛亮はすごいです」と洛陽で報告させれば、曹叡だって諸葛亮の力を認めざるを得ない。
諸葛亮は几帳面で神経質で完璧主義だ。楽毅になる機会が巡ってこないのを気に病み、焦って無理をして、五丈原で死んだ。ついに、楽毅の人生の前半部分すら、なぞることが出来なかった。

■楽毅になる最短&最終手段
司馬懿は、曹丕・曹叡に後事を託されるほどの有力者。やがて名士の筆頭として、晋を立ち上げる一族。曹操なき今、司馬懿に認められることは、諸葛亮の「楽毅になりたい」という願いを成就させる、最短の道。そして、病魔に冒された諸葛亮にとっての、最終手段。

諸葛亮の死後、蜀の陣に踏みこんだ司馬懿は、嘆息したという。「ああ、諸葛亮は天下の奇才だ」と。皮肉なものです。もうちょい早く司馬懿がこのセリフを吐いてくれれば、楽毅に扮した諸葛亮によって、天下は数年で統一されていたかも知れない。
司馬懿は、自分が強くなりすぎることを警戒していたから、喜んで諸葛亮を推挙したに違いない。ちょっとしたボタンのかけ違いで、諸葛亮が荊州で語った夢は、潰えたのでした。
楽毅の生き様から、諸葛亮の真意を探ってきました。『三国志』を熟読するだけじゃ分からないことが、いろいろ分かるものですね。春秋戦国の勉強を、今後も続けたいと思います。090112
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このコンテンツの目次
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春秋戦国の手習い
楽毅を知り、諸葛亮を知る。
1)楽毅の前半生
2)楽毅の後半生
3)劉備は諸葛亮の踏み台
4)楽毅になれない諸葛亮