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管仲を知り、諸葛亮を知る。
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2)管仲の宰相ぶり
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■狙撃手・管仲
無法な政治をやっていた斉の長子は、クーデターで従弟に殺された。従弟の名前は、公孫無知。 「公孫」とは「(斉)公の孫」という修飾語です。三国志まで時代が下れば、公孫氏が登場するけれど、まだ確立はしてない。それにしても「無知」なんて名前を付けるなんて、どんな神経なんだろ。
公孫無知は斉公になったが、すぐに殺された。ここでレースが開幕。 ルールといえば、管仲が擁する次子と、鮑叔が擁する末子のうち、先に臨淄に辿りついたほうが次の斉公となれる。
管仲は待ち伏せして、鮑叔が導いている末子を、曲がり道で狙撃した。「管仲は矢の名人」という設定を、宮城谷さんが不自然に描いていた。その伏線が、ここで回収されるのです。
管仲の矢は正確で、末子のミゾオチにヒットした。末子は倒れた。だが矢はバックルに命中していて、末子の身体には刺さらなかった。 鮑叔が佐けた末子が、即位した。これが桓公。
■宰相の誕生
次子は即位できなかったので、管仲は立場なし。 「管仲が仕損じるから、オレが斉公になれなかったじゃねえか」と、次子は管仲を追放した。宮城谷さんは、「次子が充分な手勢を管仲に与えなかったから、失敗した。悪いのは、管仲じゃなくて次子だ」と解釈してる。
その管仲を拾ったのが、鮑叔。
「桓公(末子)よ、管仲を迎えましょう。管仲は、主人(次子)のために働いたのであって、根っこは忠臣です」と推薦すると、桓公(末子)は「ボクを矢で射た男を、宰相にできるか」と当然の反応をしたが、鮑叔の顔を立てて任用した。
管仲は、頭角を現した。 魯との戦争を停止し、諸侯の会盟をプロデュースした。重農政策・重商政策をして、斉の人口がみるみる増えた。斉の桓公(末子)は、周に代わって天下を仕切る「覇者」となった。
■管仲の名言集
諸葛亮が目標とした、管仲。宰相としての管仲の腕を知ることが、諸葛亮の理想を知ることにつながります。 漢籍に当たるのが本当なのだが、宮城谷さんの手を経た管仲が何を言ったのか、見てみます。格調高い文章を、勝手に省略してますが。
「桓公さんが斉の一国だけにこだわっていては、中華は異民族に潰される。あなたは、中華全体の安定を志すべきだ。覇者になろうと思ってないなら、私は手伝わないよ」
「民政は平等に、法度に基づいて行いなさい」
「士農工商は雑居させず、区別して住ませなさい。民が転職しないから、仕事に習熟して効率が上がる。輸送効率もよい」
「土地の生産高に合わせて、税に等級を付けなさい。そうすれば、民が引越しをしなくなり、生産が安定する」
「国が疲弊しているのに、魯に兵を出してはいけない」
「小国と争ってはいけない。争うとは、両者が等しいということ。小国と争うとは、自国も小国だと暴露するに等しい。バカらしいから、辞めなさい。国力が10倍なら、服従させられる。100倍なら、教化してやることができる。覇者がやるべきは、教化でしょう」
すごい!これこそ、管仲の真髄だとぼくは膝を打ちました(笑)
■かっこいい逸話集
あるとき桓公が、小国を攻めた。管仲は反対したが、桓公は聞かなかった。斉は強いから、当然に勝つんだが、桓公は凱旋してきて言った。 「ボクはゾッとした。小国を得て、管仲を失うのではないかと。管仲がいなければ、天下は取れない」。 すごい尊敬のされ方だ。これを聞いた管仲は、「日頃から頑張ってる臣が、小さいミスを1つしたとします。あなたは、その臣を誅殺しますか」と言って、戦争をしてしまった桓公を許した。桓公は「私は管仲の弟子のようなものだ」と言った。
斉は魯を攻めて、土地を奪った。仲直りの会談で、魯の荘公が桓公に飛びついて、匕首を突きつけた。「土地を返還すると誓え!」と要求した。管仲も魯臣に拘束され、首へ刃物を当てられながら、「桓公、お認めなさいませ」と言った。桓公はしぶしぶOKして、その場で死なずにすんだ。
のちに桓公が「あんな強迫は無効だ。無視だ」と言ったが、管仲は「約束を破ってはいけない。不知、不勇、不信では、天下に号令をかけられません」と諭したので、桓公は魯への返還を認めた。桓公の覇者としての声望は、これで決定的になった。
ある人が「桓公はラクだよね。管仲に丸投げだもんな」と言った。桓公は、「管仲を得るまで、苦難だった。管仲を得てからは、
安易でないとかなわん」と言った。中国の文筆家は、いかにもありそうなセリフを書くのが上手い人たちだと言われるが、ほんとうに脱帽ですよ。
管仲は出身の身分が低かったが、周王が上卿ノ礼でもてなそうとした。管仲は固辞した。「世の秩序とは、質ではなく形です。秩序の中心にいるべき周王が、自ら秩序を崩してしまえば、中華の秩序は全て崩れてしまいます」と。管仲が謙譲したから、彼の家は長続きした。
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