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管仲を知り、諸葛亮を知る。
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3)曹操への猛烈アピール
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さて、三国志に帰ってきます。諸葛亮は、管仲のどこにシンパシーを感じていたのか。
(1)若いときの不遇。私生活でパッとせず、管仲は鄭に仕えても、鳴かず飛ばずだった。むしろ無能な奴として、虐げられた。
(2)管仲は、弓を引いた人(末子=桓公)に仕えて、ついに頭角を現した。腕を認めてもらうには、一時的に敵対してもよし。
(3)管仲は、鮑叔という素晴らしい友人がいた。世間がどれだけ逆風でも、自分のことを認めてくれている友は、活躍の場所を斡旋してくれる。
諸葛亮が隆中で何を考えていたか。そして、劉備の下で何を考えていたか、上の(1)から(3)に沿って見ていこうと思います。
まず(1)について。
隆中の諸葛亮は、不幸な青年でした。父は早くに死に、兄は呉に仕官して去ってしまった。叔父が面倒を見てくれていたが、すでに亡い。晴耕雨読というと優雅だが、故郷の葬送曲を歌いながら、恨み言を土に埋めていた。ニート生活に焦りも生まれる、28歳。 いちおう結婚には成功したが、ウワサがウワサを呼ぶブサイク。
あるとき、劉備がきた。
劉備のことを知らないわけではなかったが、先方からの訪問を受けたことで、就職の選択肢として具体的になった。しかし仕官するとなると、かなり条件が悪い。「劉備軍に骨をうずめよう」とは、青雲の志の若者が考えることではない。 「採用活動のとき、熱くヴィジョンを語る社長に、心が惹かれないわけではない。しかし賢明なる孔明よ、一考せよ。社長自ら、情熱を前面に出して会社をPRするのは、逆に情熱しか売りがないからだ。待遇も将来性も、大手企業に劣る。それが世の中のカラクリだよ」と。 理屈っぽい諸葛亮は、居留守を使いながら考えていたんじゃないか。適当なところで見切りを付けて、エイッと就職できる人間なら、とっくに人脈を使って劉表に仕えてる。
諸葛亮は思った。
「ほんの様子見のつもりで、劉備に会ってみようか。話して決めたらどうだろう。いや、待てよ。向こうは数万人を殺してきた人間だ。そんな人間の前で、ボクは身の振り方については迷っておりまして、定見はありません、なんて告白しては、危険だ。強引に連れ帰られてしまう。ああ!表が騒がしい。張飛が家に火をつけると喚いている。逃げずに焼け死ぬか、逃げて捕まるか。どっちが、まだマシだろうか」
■諸葛亮の将来設計
劉備の置手紙で、次回訪問を一方的に告げられた諸葛亮は、管仲を思い出した。桓公を狙撃した後に、宰相に迎えられたという(2)の経歴を、自分もなぞろうと思った。 諸葛亮は、天下の覇者・曹操政権で働きたいが、ツテがない。 だから劉備軍に入って、まずは曹操と敵対する。曹操に弓を当てるくらいまで、実力を見せ付けて、曹操を唸らせる。曹操はやがて劉備を滅ぼすだろうから、そのとき招かれて、曹操政権の重鎮になればよい。
曹操をゾクッとさせる手段が、天下三分ノ計だ。
劉備の貧困な人材でも、荊州と益州を一時的にキープして、関中に攻めあがることはできる。しかし、華北を安定させるほどの政治能力はないだろうから、花火のように散るだろう。劉備軍の降伏の正使としてでも、洛陽に出かけてやろうかなー!
世間に擦れていない若者が考えるのは、たいがいそんなことだ(笑)
諸葛亮は、「三顧ノ礼を尽して頂いて、ありがとうございます。劉備殿を、天下に導いて差し上げましょう」と言って、ついに出盧した。 ロールモデルである管仲のマネでもしつつ、曹操政権で、大宰相として見得を切る練習をしたに違いない。観客は、劉備。あんまりいい客じゃないが、涙を流してくれたりして、手ごたえを感じた。
■関羽の敗死まで
赤壁を開戦させ、荊州南部を平らげて、内政に実力を発揮した諸葛亮。管仲が、斉の国力をみるみる強固にしたことと、符合する。
「諸葛亮のやり方は法家で、曹操のマネをしただけだ」という指摘が多い。ぼくもそうだと思う。一般的な論調では「曹操と劉備は宿敵のはずなのに、敵国のマネをするとは芸がない」となる。しかし、ぼくはその批判は的外れだと思う。
たしかに劉備は曹操の仇敵だが、諸葛亮は曹操政権の宰相として、実績を作っているだけだ。あわよくば曹操の手法の欠点を改善して、提出でもしてやりたいと思っていた。
関羽が樊城を包囲し、劉備は漢中から攻めあがる。 曹操はビビッて、「関羽が来た。洛陽が危ない。鄴に皇帝を移した方が良くないか」と言った。諸葛亮の計画は、ついに結実した。あとは、長安に劉備が移って、「さあ!さあ!さあ!」と曹操にプレッシャーをかけさせてから、兵站戦を切ってしまえばいい(笑)
しかし呂蒙に背後を取られた関羽は死に、荊州は孫権に取られた。諸葛亮は、実績を積みそこなった。
■夷陵と託孤の裏側
夷陵の戦いで劉備は惨敗して、死んだ。 「なぜ諸葛亮がいながら、劉備の敗戦を防げなかったのか」と、蜀ファンは血圧を上げる。諸葛亮の発言権がそこまで大きくなかったから、というのが世間の推測。その理由は正解だろうが、ぼくは諸葛亮がわざと劉備の負けを見守っていたと思う。
転職の面接に行ったときに、「転職理由は何ですか」と聞かれたとする。「前の会社で私のプロジェクトが失敗し、業績が悪化しました。将来性がない会社は辞めたいのです」と答えてしまっては、合格するわけがない。お前は、残って頑張れよ!と思われる。 だが、「社長以下が尽力したものの、惜しくも倒産してしまって」と言えば、転職に正当性が生まれる。転職面接で後ろ暗さを消すために、諸葛亮は夷陵行きを黙認した。 天下三分の土台であった蜀だが、荊州と関張を失ってもう用を成さないのだから、早急に滅びてしまえばいい。
今わの際の劉備は、諸葛亮に「劉禅がアホだったら、お前が君主になれ」と遺言しました。諸葛亮は断った。「さすが忠臣だよね」と世間の人は感心するし、諸葛亮も想定していた反応だろうが、真意は違う。
諸葛亮が蜀主になってしまっては、曹操に仕官できなくなる。蜀が滅びたとき、諸葛亮も殉じることになる。あわよくば王に封じられるかも知れないが、亡国の君主は飼い殺されるだけだ。後年の劉禅や孫皓のように。間違っても、勝国の宰相にはなれない!
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