表紙 > 曹魏 > 武帝紀の建安13年-16年を読む

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建安13年春-夏、曹操が丞相となる open

春:玄武池で練習する

十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。

建安13年(208)春正月、曹操は鄴にかえった。玄武池をつくり、舟師(ふないくさ)を練習した。

建安13年の正月に鄴に帰るのは、区切がうつくしい。荊州への南征も「年内のうちに」という目標があったのかも。こういう「目標」設定は、合理的な根拠がないのに、わりに人間の行動をしばるなー。
『三蒼』はいう。「肄」とは「習」うこと。
『水経注』洹水注はいう。洹水の西は、曹操がつくった玄武の故苑をとおる。ここには玄武池があった。魚梁釣台はのこっているけど、いまでは池も林も枯れちゃった。遺跡があるだけである。
胡三省はいう。鄴城に玄武苑がある。曹操が池をほった。
盧弼はいう。幽州がすでに平らぎ、荊州に南征しようと思うから、ふないくさの練習をしたのだ。惜しいことに、北方の人は水戦に習熟していないので、孫氏と劉氏に敗れてしまった。
ぼくは思う。盧弼さんは、曹操のカタをもつらしい!


夏:徐璆が曹操に丞相の印綬を届ける

漢罷三公官,置丞相、御史大夫。夏六月,以公為丞相。

後漢は、三公の官をやめて、丞相と御史大夫をおいた。夏6月、曹操が丞相となった。

『後漢書』献帝紀はいう。6月癸巳、曹操はみずからを丞相とした。8月丁未、光禄勲の郗慮を御史大夫とした。
胡三省はいう。前漢のはじめ、丞相、御史大夫、太尉を三公とした。哀帝の元寿2年、大司馬、大司徒、大司空を三公とした。後漢では、太尉、司徒、司空を三公とした。いま、丞相と御史大夫をおいたが、曹操だけに権力が集中した。
盧弼はいう。曹操が官制を改めた。14州をあわせて9州とした。復古のふりをして、自分の便宜をはかった。三公が廃止され、孔融が殺された。曹操は、後漢の宰相のふりをして、じつは後漢の賊である。
馬端臨はいう。後漢は三公をおいたが、権限は台閣の尚書にあつまった。魏晋より以降、三公は設置されたが、老病で実害のないやつが任命された。曹操が丞相となったとき、辞めさせられた三公は、楊彪と趙温である。 後漢には丞相が置かれなかったが、建安に特別に置かれた。曹魏は丞相を置かないが、正始に特別に置かれた。司馬師と司馬昭が丞相となった。丞相は宰相ではなく、禅譲のステップである。
盧弼はいう。馬端臨は誤りがある。楊彪と趙温は、曹操が丞相になるまえに罷免されていた。曹魏の甘露3年、はじめて司馬昭が相国となり、司馬炎がついだ。曹魏に丞相はないし、司馬師と司馬昭は就いていない。
ぼくは思う。馬端臨を読んでいたとき、ぼくは「そうだっけ、そんなこともあったっけ、ぼくは何も知らないなあ」と感心してしまった。案の定、馬端臨は誤りだった。記憶にたよると、単純化が起こって、漢魏と魏晋の革命を、対句で捉えちゃうのだろう。この誤りのほうが、ぼくは興味がある。漢魏と魏晋は、馬端臨をして「対句のかたちに誤らせる」革命なのだ。
趙一清はいう。『宋書』百官志はいう。曹操が丞相を置いたが、左右2長史を置いただけである。『漢旧儀』以外では、2長史を追加したのであり、以前からの属官をはぶいたのでない。他の史料を見ると、丞相のもとに、参軍や掾属がいることがわかる。人材がいれば網羅して、曹操の丞相府の属官になったのである。
ぼくは思う。丞相の属官が、長史2人しかいなかったら、おもしろかったのに。「丞相」の肩書が形式的なもので、曹操はべつの肩書によって権力をふるっていたことになる。でも、そうじゃなかったのね。
@Golden_hamster さんはいう。司馬氏は曹操が早々に丞相と魏公・王となって人心を手放したと考え、敢えてそれらになるのを遅らせたんじゃないかと思います。荀彧最後の進言に沿ったとも言えます。相国になったのは最後の最後、蜀取るような段階ですからね。官の問題ではなく時期の問題じゃないかと。
@bb_sabure さんはいう。丞相は曹操専用、と考えられてたのかもしれませんね。一方、相国は鍾繇が就任したこともあって丞相よりは抵抗、反発はないと考えられていても不思議ではありません。


獻帝起居注曰:使太常徐璆即授印綬。御史大夫不領中丞,置長史一人。
先賢行狀曰:璆字孟平廣陵人。少履清爽,立朝正色。歷任城、汝南、東海三郡,所在化行。被徵當 還,為袁術所劫。術僭號,欲授以上公之位,璆終不為屈。術死後,璆得術璽,致之漢朝,拜衞尉太常;公為丞 相,以位讓璆焉。

『獻帝起居注』はいう。太常の徐璆に印綬を即授させた。御史大夫は中丞を領さず、長史1人をおいた。

『続百官志』はいう。太常は九卿、1名、中2千石。
御史中丞は、初平元年の注にある。『続百官志』劉昭注はいう。建安13年、司空をやめて、御史大夫をおく。御史大夫は郗慮である。郗慮が免じられ、後任なし。
荀綽『晋書』百官表注はいう。献帝は御史大夫をおき、職務は司空と同じ。侍御史を領さず。沈約『宋書』百官志はいう。御史大夫には、2名の丞がいる。1人は御史丞、もう1人は御史中丞。献帝のとき御史大夫をおき、みずから長史1名をおいた。中丞を領さなくなった。

『先賢行状』はいう。

『隋書』経籍志はいう。『海内先賢伝』4巻、曹魏の明帝が撰した。『旧唐書』経籍志はいう。『海内先賢伝』4巻、明帝が撰した。『海内先賢行状』3巻、李氏が撰したと。以下、タイトルと内容が混乱する。はぶく。

徐璆は、あざなを孟平という。広陵の人。

『後漢書』徐璆伝はいう。徐璆は、あざなを孟玉という。広陵の海西の人。章懐注はいう。「璆」はキュウと読め。
『三国志』和洽伝にひく『汝南先賢伝』はいう。広陵の徐孟本は、来たりて汝南に臨むと。盧弼はいう。あざなは「玉」が正解である。

任城、汝南、東海で3郡の太守を歴任した。

『後漢書』徐璆伝はいう。徐璆は荊州刺史にうつった。董太后の姉子・張忠が南陽太守である。徐璆は、張忠が1億のワイロを受けたと挙奏した。5郡の太守とその属県でワイロした者は、すべて摘発した。のちの汝南太守にうつり、東海相に転じた。

徵されて還るとき、袁術に劫された。袁術が僭號すると、徐璆に上公之位を授けたがったが、徐璆は屈さず。袁術の死後、袁術の璽を得て、漢朝にはこんだ。

『後漢書』徐璆伝はいう。献帝が許県にくると、徐璆は「廷尉になれ」と徵された。道中で、袁術につかまった。徐璆はいう。「龔勝、鮑宣は、どんな人だったか」と。袁術は徐璆にせまれず。袁術が死ぬと、徐璆は袁術の「盗国璽」をえた。許県にかえった。前から借りていた、汝南太守と東海太守の印綬をかえした。
ぼくは思う。「伝国璽」は固有名詞でなくて、ただの形容詞+名詞だからね。持っている人間と、それを指さす人間の関係とによって、「盗国璽」になる。すごいなあ!
章懐注は衛宏をひく。秦代以前、金・玉・銀をもって、方寸の璽をつくった。秦代以降、天子だけが「璽」といい、臣下は玉を仕えなくなった。藍田山をでて、題は李斯が書いたもので、文面は「天より受命し、すでに寿は永昌ならん」と。これを伝国璽という。秦の子嬰が、高祖に献じた。高祖が即位するとき、伝国璽をはいた。王莽が簒奪するとき、元后が投げたので、1角が欠けた。王莽が破れたとき、伝国璽をはいた。杜呉が王莽を殺したが、伝国璽を取るべきことを知らなかった。公賓就が王莽のくびを斬り、伝国璽をとった。
更始の将・李松が、更始に伝国璽をおくった。赤眉が高陵にいたり、更始は赤眉にわたした。建武3年、劉盆子が光武に伝国璽をわたした。孫堅が桂陽(南陽)から洛陽にはいり、董卓を城南でうち、伝国璽をひろった。袁術が孫堅の妻をとらえて、伝国璽をえて、「挙げて以て肘に向かう」と。曹操は袁術にいう。「私がいる限り、おまえを許さない」と。ここにいたり、徐璆が曹操に伝国璽をもってきた。
盧弼はいう。このことは、初平元年の注釈にある。

徐璆は、衞尉、太常を拝した。曹操が丞相になると、徐璆に官位をゆずった。

『続百官志』はいう。衛尉は九卿。1名。中2千石。宮門の衛士、宮中の徼循(みまわり)をつかさどる。
『後漢書』徐璆伝はいう。徐璆は太常を拝し、持節して曹操に丞相を拝せしめた。曹操は、徐璆と官位を譲りあったが、徐璆は官位を受けなかった。在官のまま死んだ。
盧弼はいう。おそらく曹操は、司空を徐璆にゆずったのだ。ときに司空をやめて、御史大夫を置いたが、職務は司空とおなじだった。ゆえに徐璆は「御史大夫」を押しつけられたのだろう。徐璆が受けないので、郗慮が御史大夫になった。
さて、
ぼくは思う。ワイロを摘発して名声を高めたのだから、徐璆は典型的な後漢の有能な官吏。官位もあり、名声もあり。東海太守という立地のせいで、袁術につかまった。袁術が、許県の周辺をちゃんと警戒していたことがわかる。袁術が「上公」にしたいのだから、袁術でなく後漢の朝廷においても、そろそろ三公九卿になるべき人材だったのだ。そりゃ、太守を歴任して、すぐれた実績を残しているのなら、そうなるなあ。きっちり約束どおり、曹操によって九卿を斡旋され、つぎに三公を押しつけられた。
徐璆は、汝南太守の印綬を持ったまま、東海に赴任している。時期を推測したら、いろいろ言えるかも知れない。徐璆サマともあろう御方が、東海にわざわざ赴任しなければならんほど、東海が乱れたのね。陶謙、劉備、呂布、袁術あたりが、ごちゃごちゃしているから、比べるとおもしろいかも。1.印綬を持ったままの転任があるのか、2.転任はいつか、3.東海で何があったか、など疑問と興味がたくさんある。
徐璆は、袁術の死後にきっちり「盗国璽」を回収した。袁術から上公をことわったが、きっちり近くにいたのだろう。徐璆その人は、不本意ながら袁術のそばにいたかも知れないが、ハタから見れば袁術に協力したことになる。上公をこばんだのは、単なる遠慮かも知れないし。よくあるパタンだ。
上公を拒んだにしろ、袁術からアドバイスを求められたら、諫めたりしたのだろう。だって無視を決めこんだら、殺されそうだし。「黙って反対の態度を表明する」けど「近くにいる」という時点で、それは「出仕している」と同じである。べつに「雄弁に賛成の態度を表明する」必要はない。「命じられるがままに官位を受けとる」必要もない。皇帝の近くにおりつつ、反対しまくり、官位を拒否りまくった人は、後漢にいくらでもいたが、彼らが「後漢の臣でない」なんて説明にはならない。
袁術は、後漢の名臣である徐璆にすりよって、自分の威信を高めようとした。曹操は、袁術に尊重された徐璆にすりよって、自分の威信を高めようとした。徐璆は、自身の実績だけでなく、袁術との関係のおかげによっても、彼自身の威信をたかめている。袁術に尊重したから、徐璆はさらに名声をえた。袁術の官位を受けなかったから、袁術の死という結果を踏まえて、徐璆はさらに名声をえた。後漢の側の人間は、否定するだろうけど。ひとは自己の欲望を欲望するのでなく、他人の欲望を欲望する。後漢は、後漢の欲望を欲望するのでなく、袁術の欲望を欲望する。

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建安13年秋、曹操が荊州をくだす open

9月:曹操が劉琮を降す

秋七月,公南征劉表。八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,琮遂 降,備走夏口。

秋7月、曹操が劉表を南征した。8月、劉表が卒して、劉琮が代わり、襄陽に屯した。

ぼくは思う。荊州牧の治所は、襄陽のまま動いていないということでOK?
「征」という漢字が、『春秋』などの解釈で、どのような意味なのか調べねば。

劉備は樊城に屯した。

『郡国志』はいう。荊州の南郡の襄陽である。荊州刺史の劉表が、ここを治所にした。『水経注』沔水注はいう。曹魏の荊州刺史は、襄陽を治所としたと。ぼくは思う。曹魏の荊州刺史は、劉表の前例を踏んだのだなあ。呉蜀と戦わねばならんから、後漢のように武陵郡を治所とはできない。
沈約はいう。曹操が荊州を平らげると、南郡を分けた。北部は南陽の山都におよび、襄陽郡をたてた。『荊州 図』はいう。建安13年、曹操は襄陽郡をおいた。地が、襄山の陽(=南)にあたるから、襄陽とした。
ぼくは思う。劉琮は「屯」で、劉備も「屯」だ。劉琮が州牧として安定的に曹操を待ち受けることができ、劉備はフラフラと不安定な気がしていたが。どちらも同じ「屯」で表現されると、かえって両者は同じような危うさなのかな、と感得できる。人を集めている、軍隊を置いている、くらいの表現であり、形勢の優劣は関係ないんだろうけど。

9月、曹操が新野にきた。劉琮がくだった。

『郡国志』はいう。南陽郡の新野である。
王先謙はいう。三国の魏は、新野を義陽郡につっこんだ。荊州都督は、新野を治所とした。『元和志』にみえる。正始中、王昶が荊州を督して、宛城に屯していた。襄陽から3百余里である。諸軍が散らかって、有事に集まれないので、王昶が「宛城より新野に治所を移すべきだ」と上表した。
ぼくは補う。荊州都督は、王昶より前は宛城にいて、後は新野にきた。司馬懿が荊州にいるときは、宛城にいた。王昶より前だから。
『後漢書』劉表伝はいう。蒯越、韓嵩、傅巽らは、劉琮に「曹操にくだれ」と説いた。曹操軍が襄陽に達すると、劉琮は荊州をあげて降ったと。武帝紀は、曹操が新野にきたら降ったという。おそらく曹操の前軍が襄陽にきたとき、曹操はまだ新野にいたが、劉琮が降ったのだろう。
ぼくは思う。そういう「合理的な」両史料の接合をするんだなあ。

劉備は夏口ににげた。

『左伝』昭公四年、呉が楚を伐ったとき、楚の沈尹射は「夏汭」に奔命したと。杜預注はいう。夏汭とは、漢水が曲がって長江に入るところで、いまの夏口である!
ぼくは思う。劉備はムリでも、諸葛亮とかが、劉備の逃走経路が『左伝』に似ているなー、とか考えていたのかも知れない。『左伝』も読まなくちゃ。
『水経注』江水注はいう。孫呉の江夏太守の陸渙が、夏口を治所とした。 『地理志』はいう。曹魏の黄初2年、孫権が夏口城を築いた。あと地理について、はぶく。
盧弼はいう。文聘伝はいう。文聘は江夏太守となり、沔口に屯した。魯粛伝はいう。魯粛の子・魯淑は、夏口の督となった。胡三省はいう。孫権が夏口の督を置いて、長江の南に屯したが、長江の北も夏口といったと。諸葛亮はいう。「長江を限りとして、自保せよ。孫権は長江を越えられない。それは魏賊が漢水を渡れないのと同じである」と。この数語が、当時の情勢をうまく表現している。ゆえに沔水の北にある、安陸、新市、雲杜、竟陵は、黄武のとき曹魏に編入された。孫呉と曹魏との境界は、漢水であった。文聘が江夏に数十年にて、名が敵国を震わせたのは、孫権の侵入を防いだからである。
ぼくは思う。あとで地図を見よう。カワ同士が入り組んで、三角州みたいになっているのかな。曹魏と孫権が越えられない境界が、おなじカワじゃないのだから。あいだに、三角形の緩衝地帯みたいなものがあった?
ぼくは思う。相互に、漢代の地名を使い続けようとするから、史料を読む者が混乱するんだ。『魏書』と『呉書』の食い違いにおいて、史料を読むとき困るのは、いかなる出来事があったか(とくに戦闘の勝敗など)ではない。地名だな。同定できない。いや、問題は同じか。戦闘という1個の事実に、客観的な説明なんて加えられない。地形という1個の事実に対しても、客観的な説明(地名をつける)ができない。相互に、自分が思ったとおりに表現する。


公進軍江陵,下令荊州吏民,與之更始。乃論荊州服從之功,侯者十五人, 以劉表大將文聘為江夏太守,使統本兵,引用荊州名士韓嵩、鄧義等。

曹操は江陵に進軍した。荊州の吏民に下令して、曹操とともに「更始」させた。

『郡国志』はいう。荊州南郡は、江陵が治所である。
ぼくは思う。「更始」といえば、光武帝のライバルを思い出すが。王莽のダメさ加減にイライラして、新時代をつくろうという人だった。日本の幕末維新で「ご一新」なんて言ってたが、メンタリティは共通なのだろうか。
たかが地方長官の交代だけで、吏民こぞって「更始」なんてことはない。「更始」は曹操から発せられた言葉である。つまり曹操は、劉表の荊州支配が長くて、劉表の体制がしっかりと根づいており、よほど改革が必要だと分かっていた証拠だ。劉琮があっさり「降」ってくれたからいいものの、そうでなければ、厄介な平定戦が必要だったなあ。劉表の「治世」は20年だった。劉表が死んで倒れたことからも、劉表の個人的な才覚が、荊州を有効に抑えていたことがわかる。初代の名君だ。初代で終わったけど。
ムリに日本史で理解するのは良くないが。劉琮から曹操への交代は、「県知事が交代した」という出来事でなく、「廃藩置県で、藩主が去って県知事がやってきた」という出来事に似ているのだろう。馴染みの殿様が去っても、殿様が築いてくれた土地柄は、住民のあいだに根づいているよ、だから江戸時代は「近世」なんだよ、自分たちの生活と直結した時代なんだよ、という感じ。
ぼくが曹操なら、劉表の治世なんて無視して、ふつうに「州牧が交代しました。まあ長官の交代なんて、制度の一部だし、よくあることだよね。喜ばなくていいし、哀しまなくていい。特別休暇とかもナシね」と言いそう。政策的な判断としてね。それができないほど、劉表は曹操から見て、荊州をよく掌握していたのだ。20年といえば、1世代弱。後漢の安定期を知っている人たちは老いはじめ、若い世代は劉表しか知らない。
ちなみにちくま訳で「更始」は、「荊州の吏民とともに、過去を洗い流し、新たに出発することを宣言した」となっている。大げさだけど、翻訳が大げさなのでなく、曹操の言葉づかいが大げさなのだ。
@Golden_hamster さんはいう。「與之更始」は大赦の際の定型文(與民更始という表現もある)のようなので、そこは単純に「曹操が荊州の吏民に(今まで反抗していた)罪を水に流すという命を出した」ってことでいいんじゃないですかね。
ぼくは思う。大赦の定型文をつかうとは、やはり「劉表に仕えたことは、漢室(少なくとも曹操)に対する反逆」であることは、曹操側も旧劉表側も文句のない前提だったってことになる。より厳密に言えば、曹操側から見て、「旧劉表側がそういう自覚があるということが自明だと考えられていた」ことになる。董卓以後の流れで、とくに理由もなく荊州にいただけで、死罪を請わねばならないのは災難だ。このページに出てくる梁鵠も、自分で縛って罰を求めたりしてる。ただ長官に仕えただけで、それで反逆になるって、どないやねん。どのタイミングで、ただの「荊州牧の劉表さん、属官は職務を果たしていれば充分だよ」が、「天下をねらう劉表さま、属官は一緒に天下をとる気概で全人格を託せ」に転じたのかが気になる。いつから「そういう」闘争が始まったのだろう。

荊州が服従した功績ろ論じ、侯爵は15人。劉表の大將である文聘が、江夏太守となり、本兵を統率した。

蒯越らである。盧弼はいう。劉表伝を見よ。
袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝 05
ぼくは思う。文聘が統率したという「本兵」は、劉表の兵力の本隊か。上であったように、夏口とか江夏とか、地名が複雑。地名が複雑であるとは、曹魏と孫呉で複雑に取り合った土地だから。そしてその土地に、文聘がいる。
曹操は、劉表の勢力を解除して、ほとんどを手に入れ(劉備とかが逃げたけど)孫権との対峙につかった。劉表-劉琮-曹操-文聘と、荊州の兵権がスムーズにスライドしてしまったから、孫権は手を出し損ねた。
文聘って、赤壁で何をしてたっけ。文聘の動きを見れば、赤壁について、いろいろ言えそうな予感がある。文聘伝、読みましょう。
盧弼はいう。江夏は文聘伝にある。
『郡国志』はいう。荊州の江夏郡は、西陵を治所とする。建安のとき、劉表は黄祖を江夏太守として、沙羨を治所とした。孫策伝注や、『後漢書』劉表伝にある。ときに孫策は、周瑜に江夏太守をさせた。周瑜伝と孫策伝注にある。黄祖が死ぬと、劉琦が江夏太守となった。劉表伝と諸葛亮伝にある。劉琦は、江夏の戦士1万人をあわせ、劉備とともに夏口にきた。先主伝、諸葛亮伝にある。
のちに魏呉がどちらも江夏太守をおいた。文聘は軍を石陽に屯させ、別屯は沔口にいた。文聘は江夏に数十年いて、郡治は安陸とした。元和郡県志にある。
嘉平のとき、荊州刺史の王基が上表して、上昶に城した。江夏の治所を上昶にうつして、夏口にせまった。王基伝にある。以上から、漢末と魏呉において、江夏の治所は、漢代の治所と異なったことが分かる。孫呉の江夏は、武昌を治所とする。

荊州の名士である、韓嵩、鄧羲らを引きて用いた。

韓嵩は、劉表伝の注釈にある。鄧羲は、武帝紀と『後漢書』で「義」とされ、『三国志』劉表伝で「羲」とされる。劉表は人士を好んだので、関西、兗州、豫州の学士が、千数もあつまった。あとは劉表伝を見よ。


梁鵠のこと

衞恆四體書勢序曰:上谷王次仲善隸書,始為楷法。至靈帝好書,世多能者。而師宜官為最,甚矜其能,每書,輒 削焚其札。梁鵠乃益為版而飲之酒,候其醉而竊其札,鵠卒以攻書至選部尚書。於是公欲為洛陽令,鵠以為北 部尉。鵠後依劉表。及荊州平,公募求鵠,鵠懼,自縛詣門,署軍假司馬,使在祕書,以(勤) 〔勒〕書勒書。公嘗懸 著帳中,及以釘壁玩之,謂勝宜官。鵠字孟黃,安定人。魏宮殿題署,皆鵠書也。

衞恆『四體書勢序』はいう。上谷の王次仲は、隸書がうまくて、楷法をはじめた。

衞恆は、あざなを巨山という。『晋書』に列伝あり。『三国志』衛覬伝注にもあり。盧弼はいう。『晋書』の本伝に、序文がすべて載っている。裴松之は抜粋したのだ。また『三国志』劉劭伝注にも、序文がすこし載っている。
諸法について、上海古籍123頁に注釈あり。はぶく。

霊帝が書を好んだので、書法がうまい人が多かった。師宜官がもっとも上手くて、書くたびに焼き捨てた。梁鵠は、師宜官の書きものを盗んだ。梁鵠は選部尚書となる。

盧弼がいろいろ注釈してるが、はぶく。『晋書』衞恆伝とも異同があるみたい。
『晋書』職官志はいう。光武帝は、常侍曹を吏部曹とした。祠祀の選挙をつかさどる。霊帝のとき、侍中の梁鵠が選部尚書となった。ここにおいて、初めて曹名がみえる。曹魏になると、選部を吏部とした。選部のことをつかさどる。??

曹操は洛陽令になりたいが、梁鵠が曹操を北部尉とした。

武帝紀のはじめ、建安21年注にある。 趙一清はいう。『続百官志』注引『漢官』はいう。孝廉から就ける官位は、洛陽の左右2尉がある。けだしこのとき、孝廉から郎になったものがいた。曹操は孝廉にあげられ、議郎となった。曹操は「洛陽令になりたい」でなく、「洛陽尉になりたい」とすべきだ。孝廉から、いきなり洛陽令になれない。へえ!

曹操が荊州を平らげると、軍假司馬としてた。梁鵠は、あざなを孟黃という。安定の人。魏の宮殿にある題署は、みな梁鵠が書いた。

『続百官志』はいう。軍司馬は1名、比1千石。軍には仮司馬がいて、副官だ。
『水経注』穀水はいう。董卓が宮殿を焼いてから、曹操が荊州を平定するまで、後漢の吏部尚書である安定の梁鵠は、師宜官がつくった八分体(という書体)をやり、荊州にいた。曹操に死を乞うた。
『書断』はいう。梁鵠は、安定の烏氏の人。師宜官の書法をまなぶ。八分書がうまくて、名を知らる。孝廉にあげられ郎となり、鴻都門下にいる。選部にうつり、霊帝に重んじらる。曹操に書法を愛された。このとき、邯鄲淳が王次仲の書法をできる。邯鄲淳が小さい文字を書き、梁鵠が大きい文字を書く。邯鄲淳の書法は、梁鵠ほどの勢いがなかった。
ぼくは思う。曹操が個人的に梁鵠にうらみ?を持っていたかは別として。孝廉から郎となり、霊帝の文化活動のなかで抜擢されたのだから、梁鵠は曹操の真上にいる先輩である。得意なことも、活躍の分野も同じである。さっき趙一清により、曹操は「洛陽令」でなく「洛陽(左右)尉」になりたいと言っていたことが分かった。曹操は洛陽の北部尉になれたのだから、それほど大きなハズレではない。梁鵠は、後輩の曹操を、ちゃんと優遇している。そして曹操は、梁鵠の書法をしたって、宮殿に書かせている。まったく良好な関係じゃないか。劉表に身を寄せたことが、もし曹魏で「罪」になるなら、梁鵠は罪人だが、曹操は、劉表に仕えたことを責めないのが全体方針である。
もし「曹操は魏王なのに、先輩の梁鵠はセッセと、ペン習字の内職みたいなことをさせられて、かわいそう」と言うのなら、誤りだと思う。書道を重んじることは、霊帝-曹操の共通点だから、書道家として使われ続けた梁鵠は、霊帝-曹操の政権において、少なくとも同じくらい優遇されている。
官位の優劣と、仕事の種類のちがいを、どのように捉えるか。曹操と梁鵠の関係を語るとき、その語り手は、職業に対する意識とか、社会における序列とかを、うっかり吐露しちゃう仕組みなんだろう。また、皇帝や魏王という権力者と、書法の名人という文化者との関係は、価値観の変動期?である後漢において、微妙な問題。曹操と梁鵠の、個人的な意趣返しのエピソードにしてしまうのは、もったいないと思う。
以下、ご指導を頂戴しました。
@yuan_shao さんはいう。孝廉(三署)郎から洛陽令になれないわけではありません。但し孝廉郎でも五官郎に限られます。曹操の場合、二十歳で孝廉なので、おそらく、ただほぼ確実に右署の郎中のはずです。この場合、比三百石で年齢の上からいって、四百石かよくて六百石相当の官に限られるはずです。ついでに、趙一清の認識不足な点なんですけれど、孝廉で議郎になったわけではないです。曹操の場合、右署郎の後、北部尉に遷って色々あってやめて、光和三年の古文に通ずる者に該当して「徴召」されたときが議郎です。議郎からなら、次は千石~眞二千石まで遷官可能なはずです。
@yuan_shao さんはいう。孝廉に推挙されると三署郎のどれかになります。規定で五官郎には五十歳以上が配属されます。左・右への配属基準はよくわかりませんが、五官>左>右なので、課試、年齢が基準になるんだろうと思います。曹操は最下年層の二十歳なので右郎の可能性が高いというわけです。少し補足すると、若い段階で孝廉郎になった場合、洛陽令(千石クラス)の地位に遷ることは、「功・勞」の点で不可能で、通常は四百石~六百石、県長相当に遷ります。事例をみれば判りますがほぼこれに該当します。千石クラスに遷るのは年齢が上の方々の事例ばかりです。
@yuan_shao さんはいう。起家官相当の比三百石から眞二千石までのパターンは、実例を網羅的に収集して整理・分類しパターンを見つけ出すことになります。あとは収集した実例が、一定の数に達しているかとか、ばらつきがないかを勘案します。または百官志以外の箇所、おもに上奏、詔から拾う感じです。
ぼくは思う。


王儁のこと

皇甫謐逸士傳曰:汝南王儁,字子文,少為范滂、許章所識,與南陽岑晊善。公之為布衣,特愛儁;儁亦稱公有治 世之具。及袁紹與弟術喪母,歸葬汝南,儁與公會之,會者三萬人。公於外密語儁曰:「天下將亂,為亂魁者必此 二人也。欲濟天下,為百姓請命,不先誅此二子,亂今作矣。」儁曰:「如卿之言,濟天下者,舍卿復誰?」相對而笑。

皇甫謐『逸士傳』はいう。
汝南の王儁は、あざなを子文。わかくして、范滂、許章に知られた。南陽の岑晊と仲がよい。

『晋書』皇甫謐伝はいう。皇甫謐は、後漢の太尉・皇甫嵩の曽孫。はぶく。
范滂と岑昏は、『後漢書』党錮伝にある。 『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳

曹操がまだ布衣のころ、とくに王儁を愛した。袁紹と袁術の母が死に、汝南に帰葬した。王儁と曹操も参列し、3万人があつまった。葬列のそとで、曹操が王儁にいった。「天下が乱れたら、袁紹と袁術が首魁となる。さきに袁紹と袁術を誅さないと、乱が始まっちゃうよ」と。王儁はいう。「袁紹と袁術を殺したら、だれが天下を救うのさ」と。向き合って笑った。

袁紹伝にひく『魏書』、『後漢書』袁紹伝で、袁紹と袁術の血縁をしるす。周寿昌はいう。袁紹は庶出である。いま葬儀をしたのは、袁紹の嫡母である。『献帝春秋』はいう。董卓は袁紹の母と姉妹、嬰児まで50余人をとらえて獄死させたと。袁紹の生母は、董卓に殺されるまで生きていたのである。
盧弼はいう。この葬儀は、袁紹らの嫡母のものだと疑いない。
ぼくは思う。でました!模造記憶!たとえば、学生時代の友達があつまると、「そんなこと、あったよね、そうそう!」と盛り上がる。親子関係がわるいとき、子は「私が小さいとき、こんなにイヤなことをされた」という。気分が優れない人が、「あの出来事がトラウマになった」という。これらは、タイムマシンにのっても現場を押さえることができない。重要なのは、ほんとにそんな出来事があったかじゃなくて、当事者のあいだで真実味をもって語られているか、である。
ぼくは、これを「権力者の曹操に擦りよった、曹魏に都合がよいウソ。歴史家の改竄」だとは思わない。曹操と王儁は、ほんとうに、このようにして過日を振り返っていたんだと思う。天下が乱れるかどうかも知らんし、袁紹と袁術が首魁となるかも分からんし、袁紹と袁術を倒して天下をすくうのが曹操であるかも、誰も分からない。これほど整合的な逸話がこぼれるのは、模造記憶だからなんだ。


儁為人外靜而內明,不應州郡三府之命。公車徵,不到,避地居武陵,歸儁者一百餘家。帝之都許,復徵為 尚書,又不就。劉表見紹彊,陰與紹通,儁謂表曰:「曹公,天下之雄也,必能興霸道,繼桓、文之功者也。今乃釋 近而就遠,如有一朝之急,遙望漠北之救,不亦難乎!」表不從。儁年六十四,以壽終于武陵,公聞而哀傷。及平 荊州,自臨江迎喪,改葬于江陵,表為先賢也。

王儁は、州郡や三府の命に応じない。武陵ににげ、1百余家が王儁に帰した。献帝が許県にくると、尚書に徵されたが、つかず。劉表が袁紹に通じようとすると、「曹操に味方せよ」といった。64歳のとき、武陵で寿命がきた。曹操が荊州を平定すると、みずから長江に死体を迎え、江陵にほうむった。先賢であることを表した。

『郡国志』はいう。武陵は、臨沅が治所である。
ぼくは思う。模造記憶が、曹操と王儁の共犯ではなく、曹操の単独犯であることがわかった。つまり曹操は、王儁が「死人に口なし」なので、王儁との思い出をでっちあげた。荊州を平定したとき、とっくに袁紹も袁術も滅びたあとである。だから、袁紹の嫡母の葬儀に行ったことを思いだして(これすらウソだったら、どうしよう)、予言的にココロザシを語ったことにした。荊州の降人から、「王儁が劉表に”袁紹でなく曹操につけ”と言ったんですよ」と聞いて、むかし可愛がってもらったことを思い出し、「おー、王儁さん、そう言えば袁氏の葬儀のとき、あんな話をしたよね」なんて語り出したのだろう。死体を送りながら、曹操がそんなことを喋れば、史官は書きとめなければならない。
それほど曹操は、王儁を慕う気持ちが強かった。王儁は、党錮の時代からの人脈につらなるしね。これは曹操が邪悪やウソツキなのでない。それほど曹操が王儁をしたい、党人に共感していたのだろうか。もしくは、それほど袁氏がキライだったのか。笑


益州牧劉璋始受 徵役,遣兵給軍。

益州牧の劉璋は、はじめは徵役を受け、兵を使わして、曹操軍に供給した。

盧弼はいう。このとき曹操の兵威は荊州におよぶから、劉璋は徴役をうけた。さきに劉璋は、陰溥、張松をつかわして、曹操に致敬した。叟兵3百をおくった。
何焯はいう。このとき曹操は、蜀をとる勢いがあった。

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建安13年冬、赤壁の戦い open

孫権が合肥を攻め、曹操が撤退する

十二月,孫權為備攻合肥。公自江陵征備,至巴丘,遣張憙救合肥。權聞 憙至,乃走。公至赤壁,與備戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。備遂有荊州、江南諸郡。

建安13年12月、孫権は劉備のために合肥を攻めた。

『郡国志』はいう。揚州九江郡の合肥である。曹操は合肥を重鎮とした。魏明帝はいう。「先帝が東に合肥をおき、南に襄陽をまもり、西に祁山をかためた。必争の地である」と。地名の注釈、はぶく。
盧弼はいう。『三国志』孫権伝では、孫権が合肥を囲んだのは、赤壁のあとだ。『通鑑』も同じだ。赤壁がどうなるか分からないのに、合肥を攻めるのは合理的でない。裴注の孫盛が正しい。孫盛の説は、つぎにある。

曹操は江陵からでて劉備を征して、巴丘にいたる。張憙をつかわし、合肥を救わせる。孫権は、張憙がきたと聞いて、合肥から逃げた。

『郡国志』はいう。巴丘は、荊州の南郡にあり、華容と雲夢沢は南にある。
謝鍾英はいう。洪亮吉は『元和志』により、孫呉が下雋県をわけて、巴陵県をたてたという。謝鍾英が郭嘉伝を見るに、曹操が荊州から帰ると、巴丘で疫病があったから、船を焼いたという。周瑜伝で、周瑜は巴丘で死ぬ。孫権伝で、建安19年、魯粛が1万人で巴丘に屯する。裴注はいう。巴丘はいまの巴陵だ。宗預伝はいう。「東益巴丘の戌」と。朱績は、巴丘より西陵までのぼるという。孫皓伝で、右丞相の万彧は、巴丘に鎮する。これらの史料によると、孫呉は巴丘を巴陵と改めていない。史料を照合すると、晋代に改められたと分かる。
蒋済伝、孫権伝では、合肥を救うのは「張喜」とある。『通鑑』も同じ。
孫権の撤退は、蒋済伝にある。『通鑑』では建安14年に編入される。『考異』はいう。劉馥伝はいう、孫権が合肥を囲むこと100余日。孫権伝はいう。月をまたいでも、孫権は合肥を下せなかった。「月をまたいだ」のだから、孫権の撤退が、年明けの建安14年なのは明らかである。
ぼくは思う。張喜は、どこから合肥に向かったのだろう。この様子だと、曹操の手許にいて、そこから出発した感じかな。曹操が江陵に入ったころ、合肥がやばいと聞いた。だから張喜が合肥に向かった。張喜が合肥につく前に、赤壁の戦いがあった。勝った孫権は、いよいよ合肥を攻めた。張喜がやっと合肥に近づいて、孫権が撤退した。というストーリーが成り立たないこともない。

曹操は赤壁にいたり、劉備と戦い、利せず。

赤壁の所在は、諸説ある。上海古籍127頁。はぶく。『三国志集解』の該当部分を訳すだけで、論文1本になる。長いなあ。
姚範はいう。なぜ呉の周瑜に敗れたと書かないのか。姜シン英はいう。赤壁の大敗を、『魏書』は諱んだ。盧弼はいう。赤壁は、先主伝、諸葛亮伝、孫権伝、周瑜伝にくわしい。そちらを見れば充分わかる。『魏書』が諱んだとするのは、きっと誤りである。陳寿が、重複を避けただけだ。

ここにおいて大疫あり。吏士はおおくが死に、軍をひいてかえる。ついに劉備が、荊州と江南の諸郡をもらう。

『御覧』巻15『英雄記』はいう。曹操が赤壁で敗れ、雲夢の大沢にきた。大霧にあって、道にまよった。『江表伝』はいう。周瑜が魏軍を破ると、曹操は孫権の文書をあたえた。赤壁では疾病のために、船を焼いた。周瑜に虚名をあたえてしまった。これは周瑜伝の裴注にもある。
先主伝はいう。劉備は、武陵、長沙、桂陽、零陵をくだした。胡三省はいう。長江の南岸の4郡である。
『晋書』地理志はいう。建安13年、曹操は荊州を全てえた。南郡をわけて、北に襄陽郡をたてた。南陽郡の西をわけて南郷郡をたて、枝江をわけて西を臨江郡とした。赤壁でやぶれ、南郡より南が孫呉に賊した。のちに孫呉は、蜀漢と荊州を分けた。ここにおいて、南郡、零陵、武陵より西は蜀漢に属した。江夏、桂陽、長沙の3郡は孫呉に属した。南陽、襄陽、南郷は曹魏に属した。荊州の名は、南北に双立した。
蜀漢は、南郡をわけて宜都郡とした。劉備の死後、宜都、武陵、零陵、南郡の4郡が、すべて孫呉に属した。
盧弼はいう。赤壁のあと、南郡より南は、劉備が4郡をとった。『晋書』は南郡より南が孫呉に属したというが、劉備が正しい。誤りその1。建安24年、孫権が呂蒙に荊州を襲わせたとき、まだ劉備が生きていたが、荊州を失った。『晋書』は劉備の死後に、蜀漢が荊州を失ったとするが、誤りその2。荊州の南部は、劉備が戦って勝ち取ったところであり、孫権から借りているのでない。建安20年、呉蜀は連和して、境界をきめた。呂蒙が戦闘をおこしても、呉蜀の同盟はくずれていない。『晋書』はここも違う。


山陽公載記曰:公船艦為備所燒,引軍從華容道步歸,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過。 羸兵為人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚眾。軍既得出,公大喜,諸將問之,公曰:「劉備,吾儔也。但得計少晚;向使 早放火,吾徒無類矣。」備尋亦放火而無所及。

『山陽公載記』はいう。曹操は華容道を徒歩でにげた。「劉備がもし火をつけたら、私は助からなかった」と。劉備があとから火をつけたが、曹操は逃げ切った。

文帝紀の黄初元年、献帝を山陽公とした。『隋書』経籍志はいう。『山陽公載記』は楽資がかいた。章宗源はいう、陸賈『楚漢春秋』、楽資『山陽公載記』らはウソばっかだ。『三国志』袁紹伝注の審配のこと、馬超伝にひく馬超が劉備のあざなを呼んだことなどが、『山陽公載記』である。裴松之もウソばっかという。あちこち、記述がズレてる。はぶく。
姚振宗はいう。「載記」とは、班固が始めた分類である。平林、新市、公孫述、隗囂などを入れる分類である。武力がある覇者だが、正統でない人物である。なぜ献帝を「載記」に入れるのか。なお袁宏『後漢紀』では、序文で「山陽公紀」とよぶ。
ぼくは思う。袁宏は「載記」というのをはばかり、タイトルまで変えてしまった。これが楽資『山陽公載記』を指しているのか、じつは分からないよ。
ぼくは思う。これだけ『三国志集解』以前の史家から「合理的じゃない」と攻められているのも、かわいそうだと思う。曹操が「劉備に火をつけられたら、ヤバかったな」と逃げなら言ったエピソードじゃん。罪はないさ。ぎゃくに、こんな駄作でも、きちんとあちこちで引用され、隋唐の目録に残るぐらい伝わったのだから、えらいよ。
これは関羽がいう「烏林の役」である。関羽は、劉備がみずから曹魏を破ったので、孫呉が功績を独占してはいかんという。胡三省はいう。華容県は南郡に属する。


孫盛異同評曰:按吳志,劉備先破公軍,然後權攻合肥,而此記云權先攻合肥,後有赤壁之事。二者不同,吳志為 是。

孫盛『異同評』はいう。『呉志』で劉備が曹操をやぶり、そのあと孫権が合肥をかこむ。武帝紀では、さきに孫権が合肥をかこみ、あとで赤壁という。『呉志』が正しいだろう。

『異同雑語』のことだろう。注釈は前にあり。
ぼくは思う。盧弼は、孫盛に合意する。時系列なら、そうだろう。孫権が撤退したのは、建安14年でよい。ただし問題は、孫権がどういうつもりだったかである。孫権は、周瑜を曹操にぶつけておきながら、何をしてたのか。合肥を囲んで、合肥から撤退したのは、赤壁のあとだとしても。どのタイミングで、どんな理由で、合肥に進んだのか。張昭なんか連れてさあ。
『赤壁ストライブ』では、孫権の政治的な駆け引きだった。「赤壁に勝てば、北方に帰れるぞ」と孫呉の兵をあおっておきながら、赤壁で勝っても北方に帰れないので、兵が騒いだ。周瑜では収拾がつかない。孫権は、政治的なポーズとして、合肥を攻めた。孫権は、合肥で勝てないことを予感している。だが「北方に帰るために戦う者」と自己アピールすることで、孫呉の兵をなだめて、自分の手許においたと。「戦いは周瑜に任せておくが、政治は私の担当だ」とか言ってた。おもしろい解釈。読んでから2年とか経つのに覚えているつもりだが、これも「模造記憶」だったらどうしよう。いいや、見返すまい。どうせマンガ本は見つからない。
思うに、合肥を攻めるにしても、準備にどれくらいの期間がかかるか、進軍にどれだけの期間がかかるか、という時間の経過を勘定にいれると、いろんな仮説が立てられる。曹操の建安13年(ぼくの日曜1日分、20120729)は、わりに短い時間に、いろいろ起こった。北伐から鄴県に帰ってきて、水練やって、荊州の人士を吸収して、行政区画をいじって、赤壁で負けねばならない。孫権が、曹操がどこにいるタイミングで、何を判断したのか、いろんな想定ができそうだ。戦闘にはリードタイムがかかるから。

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建安14年、揚州の郡県に長吏をおく open

譙県から合肥にゆく

十四年春三月,軍至譙,作輕舟,治水軍。

建安14年春3月、曹操軍は譙県にくる。

胡三省はいう。赤壁から還ったのだ。
ぼくは思う。赤壁から、どういう水路で帰ってくるのか、地図で追わないと。

軽船をつくり、水軍を治めた。

ぼくは思う。ここに「軽船」の記述は必須なのか?赤壁で失われたのは、軽船がおもに失われたということか。


秋七月,自渦入淮,出肥水,軍合肥。辛未,令 曰:「自頃已來,軍數征行,或遇疫氣,吏士死亡不歸,家室怨曠,百姓流離,而仁者豈樂之 哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者,縣官勿絕廩,長吏存恤撫循,以稱吾意。」 置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田。十二月,軍還譙。

秋7月、渦水から淮水に入り、肥水に出た。合肥に進軍した。

胡三省はいう。班固は、淮陽郡の扶溝県の渦水をいう。『水経注』はいう。可否の淮陵県から、淮水にはいる。『一統志』はいう。文帝紀の黄初6年、曹丕は舟師で、譙県から渦水をめぐって、淮水に入った。
魏文帝『浮淮賦』序に、建安14年、曹操が譙県から東征したという記述がまじる。故郷の譙県から、淮水に入って、合肥にいくという話。曹操の建安14年と、曹丕の黄初6年、同じ経路で水戦をしにいってる。漢詩を楽しむ素養があったら、良かったのになあ!と悔やまれる。『書鈔』巻137、『類聚』8、『初学記』6、『御覧』770にあり。

辛未、曹操は令した。「遠征すると、病気などで帰れない吏士がいる。吏士の遺族に、縣官は廩(食糧)の支給をやめるな。長吏は、遺族をいたわれ。これが私の気持ちだ」と。

合肥から譙県にかえる

置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田。十二月,軍還譙。

揚州の郡県に、長吏をおいた。

『三国志』劉馥伝はいう。曹操は表して、劉馥を揚州刺史とした。劉馥は、単馬で合肥にゆき、州治を築いた。芍陂および茹陂、七門、呉唐を治めた。建安13年に卒した。
蒋済伝はいう。大軍が南征し、かえる。温恢を揚州刺史とし、蒋済を別駕とした。
『魏略』はいう。時苗は寿春令となり、揚州の治所は寿春県におかれた。ときに蒋済は治中となった。『三国志』常林伝の裴注にある。
ぼくは思う。なぜこのタイミングで、長吏を置くのかが分からない。ウラを返せば、このときまで、揚州刺史の合肥がポツンとあるだけで、郡県には曹操の役人が浸透していなかったことになる。曹操は北伐から帰ったばかりで、それドコロではなかった、と言えるのか。いや、人材の任命だけなら机上でできそうだが、それすら手控えていたことになる。曹操の役人が赴任しても、追い返されるほどだったか。
袁術が死に、孫策が死に、揚州はよほどヒドかったのかな。寿春令の時苗がどういう人か、これから調べねばならんが。。袁術が寿春を捨てて、青州に向かう途中で爆死した。そのあと、寿春に揚州刺史の治所を置きなおして、蒋済を治中として、揚州の復興をねらった。前後関係は分からんが、寿春では収拾がつかないので、劉馥が合肥でムリをして、揚州刺史となった。合肥を建設した手柄が膨大とは、ぎゃくにいえば、合肥の建設が、勝目の少ないバクチだったことを証明する。誰でも合肥を建設できるなら、劉馥の手柄にはならない。
さらに気づけるのは、袁術がいた寿春は、空城の合肥よりひどいこと。一大勢力の拠点だったから、流用したら良さそうなものだが、袁術が焼いたせいか、空城よりも使い道がない。蒋済は、寿春県令の治中から、合肥の揚州刺史の別駕にスライドして、揚州の秩序回復をめざしたと。
孫権が合肥を攻めたときについて、認識を整理しないと。曹操は、建安14年の後半になってから、新たに揚州の郡県に長吏を置かねばならないほど、揚州に手つかずだった。この状態で、すでに孫権が合肥を攻めた。孫権が赤壁で抵抗したのは、曹操が揚州を手つかずにしてたからかな。赤壁に負けてから、初めて揚州の行政を整備するって、、なんだか後手だなあ。曹操が揚州を持てあます感じは、袁術の撹乱があったからだ。とことん、秩序回復のためにジャマになる人だ。
袁紹だって、曹操の河北平定に10年をかけさせた。いちどは大人しくなるが、曹操が関中にいくと、冀州ですら反乱がおきる。平定にかかった時間は、10年どころじゃない。袁紹も袁術も、にわかに冀州や揚州に拠っただけなのに、罪つくりだ。もっとも、後年の反乱が「袁紹さまのために」「袁術さまのために」という名目ではないと思うけど。

芍陂の屯田をひらいた。12月、曹操軍は譙県にかえる。

『水経注』肥水篇はいう。肥水は、九江郡の成徳県からでて、西北にゆき芍陂にはいる。レイ注はいう。寿春の南80里にある。楚相の孫叔敖がつくった。曹魏の太尉たる王淩と、孫呉の張休は、芍陂で戦った。ここである。
『郡国志』当塗県にひく『皇覧』はいう。楚の大夫・子思が、芍陂をつくった。何焯はいう。芍陂は淮南だから、重要な鎮所となった。

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建安15年、才のみ挙げさせ、本志を語る open

ただ才のみ、これを挙げよ

十五年春,下令曰:「自古受命及中興之君,曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!及 其得賢也,曾不出閭巷,豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定,此特求賢之急時 也。『孟公綽為趙、魏老則優,不可以為滕、薛大夫』。若必廉士而後可用,則齊桓其何以霸 世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子 其佐我明揚仄陋,唯才是舉,吾得而用之。」

建安15年春、曹操は下令した。「古代より、受命や中興する人は、すべて賢人や君子をもちいた。いま天下が定まらないから、賢人を求めることは最優先である。渭水で釣りをするもの(呂尚)、兄嫁を盗むもの(陳平)がいないか。

『史記』斉太公世家、陳丞相世家をみよ。
このあたりの故事の引用ははぶく。上海戸籍132頁。

ただ才のみ、これを挙げよ。われ得れば、これを用いん。

盧弼はいう。この年、曹操ははじめて丞相徴事2名をおいた。邴原と王烈を選補した。邴原伝注引『献帝起居注』にある。
ぼくは思う。曹操の「ただ才のみ」の結果、その実績として採用されたのは、邴原と王烈である。邴原と王烈が、曹操の言うほどの、君主がわざわざ労力を払って探し出すべき、賢人や君子なのか。この答えによって、曹操の政策の成否がわかるのだ。
顧炎武はいう。曹操は、治国と用兵ができる人材を選んだだけだ。建安22年8月の令、建安15年春の令、建安19年12月の令も同じである。何焯はいう。曹操は理想的なことを言っているが、曹魏の簒奪に役立つ人材を選んだだけだ。周寿昌はいう。曹操は理想的なことを言っているが、華歆や王朗のような逆臣を従えただけだ。
盧弼はいう。顧炎武、何焯、周寿昌は、風俗や人心を厳密に検討しており、優れた議論である。ぼくが省きすぎて台無しにしたけど。
毛玠伝によると、毛玠と崔琰は、どちらも選挙を管轄した。毛玠と崔琰が挙用する者は、みな清正の士だった。適正な人事が行われた。曹丕が五官将になるが、曹丕に親しい人を毛玠は優遇しなかった。『先賢行状』はいう。毛玠は選挙をつかさどり、公正だった。和洽伝はいう。毛玠、崔琰は、どちらも人材を公正に選んだ。
盧弼はいう。毛玠伝は和洽伝では、曹操の人材登用は公正に行われていた。顧炎武らが言うほど、儒教をスポイルしたものでない。だが群雄割拠の時代にあって、ムチャもあったから、曹操の政策は評価をまげられた。
ぼくは以下を思う。
曹操が赤壁で負けたあとに必要だと考えたのは、有能な将軍ではなくて、君主の補佐だった。もし赤壁で軍事的に敗れたことを気に病んでいたら、もっとべつの政策になる。つまり赤壁の敗因は、軍事的なものでない。それより、政治的に揚州を統治することが、曹操が天下統一のシナリオである。
さきの論者のように、「表面上は賢者を求めるふりをして、じつは便利な手足が欲しかっただけでしょ」と、疑うこともできる。しかし、もし賢者より将軍がほしければ、「軍人がほし-!」というはずだ。後漢の皇帝は、戦いがうまいヤツを推挙させていた。曹操だって、同じように「ほしー!」ができる。曹操にとっては、敵対した孫権を討つことは、重要でない。統治の機構がマバラな揚州に、しっかり地方官を送りこんで、点を線、線を面につないでゆくことだ。そのために、賢者がほしいのだ。賢者が節度ある政策をやってれば、孫権が揚州に籠もっている理由を見いだせなくなるだろう。
曹操が、どういう切り口で人材を判定しているか、注意ぶかく見ないと評価を誤りそう。曹操は「賢人や君子」「兄嫁を盗む」「ただ才のみ」を矛盾なく並べている。君子と兄嫁盗みは対立しない。「兄嫁を盗んでもいいから、才があれば」という逆説でもない。兄嫁を盗むのは、やんわり陳平を指すために引いたのであって、ここでは人格の話をしていない。兄嫁の件は、関係ない。「君主を導いてくれる、政治と謀略に秀でた人で、単なる将軍ではない人」を求めたのかなあ。曹操を、儒教の破壊者(でなくても相対化した革新者)という先入観で読むから、兄嫁のことが気になり過ぎるだけで。
けっきょくは、毛玠と崔琰がやったような、後漢と同じような高潔な人士を、年功序列で(だから曹丕の友人を後回しにして)、用いたのだ。邴原と王烈のような、後漢で評価されるタイプのおじさんを用いたのだ。


冬,作銅雀臺。

建安15年冬、銅雀台をつくった。

『水経注』濁ショウ注はいう。前漢の高帝12年、魏郡をおき、鄴県を治所とした。のちに魏郡をわけて、東西部都尉とした。ゆえに「三魏」という。曹操は、ショウ流を鄴県の城西から東に入れて、銅雀台の下をめぐらせた。これを長明溝という。以下、場所や建物の場所や構成について。はぶく。
ぼくは思う。「魏郡」という名前をつくったのは、前漢の初代だったのか。因縁めいたものがあるなあ。戦国時代の魏にちなむから、そんなに因縁でもないか? 戦国の魏の版図と、魏郡のかたちを比べなくちゃ。


『魏武故事』曹操が本志をかたる

魏武故事載公十二月己亥令曰:「孤始舉孝廉,年少,自以本非巖穴知名之士,恐為海內人之所見凡愚,欲為一郡 守,好作政教,以建立名譽,使世士明知之;故在濟南,始除殘去穢,平心選舉,違迕諸常侍。以為彊豪所忿,恐 致家禍,故以病還。去官之後,年紀尚少,顧視同歲中,年有五十,未名為老,內自圖之,從此卻去二十年,待天下 清,乃與同歲中始舉者等耳。故以四時歸鄉里,於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,求底下之地,欲以 泥水自蔽,絕賓客往來之望,然不能得如意。

『魏武故事』は、曹操の建安15年12月己亥の令を載せる。

『魏武故事』は建安4年に注釈した。厳可均『全三国文』では、これのタイトルを「譲県自明本志令」とする。

(20歳で)孝廉にあげられ、凡愚に見られたくないので、太守として名を売りたいと思った。済南相と改革したが、諸常侍を怒らせたので、曹氏に禍いが及ばぬように帰郷した。同年に孝廉にあげれらた者には、50歳でも現役っぽい人がいた。宦官をさけて20年もぐっても、自分は現役でいられると計算した。

曹操と韓遂の父は、同年に孝廉にあげられた。
ぼくは思う。宦官と正面から対決するよりも、「とりあえず20年待ってみよう」という選択肢のほうが、合理的で魅力的だったらしい。それほど、宦官=霊帝の権限が絶大だったということだ。50歳は老人とされるが、50歳でも若く見える人がいるから、自分が50歳になるまで待ってもいいかなー、って、どういう感覚だろう。そりゃ、20代で死ぬよりは、50代でも生き残って、50歳から再出発したほうがいいのか。済南相であばれた曹操が、宦官に族滅される危機を味わったということだ。
ちなみに曹操は、210-155=55歳くらいです、いま。

秋夏に読書して、冬春には射猟をした。

ぼくは思う。春日直樹『「遅れ」の思考―ポスト近代を生きる』東京大学出版会2007、を県図書で借りてきて、会社の食堂で読んだ。フリーターが「待つ」人々で云々と書いてあった。ふーん、と思って読んだけど、忘れちゃった。近代は「待たない」「待てない」が基本だったが、きちんと待つフリーターは、近代の価値観では計測できない新種という話だったかな。「待つ」のは、近代の効率性から見たら、まるっきり不利益だ。職業経験をせずに、年齢ばかり食って、可能性をせばめる。本人は、さらに可能性をせばめるような行動しかしない。引きこもりとか。このバカな非効率にも、市民権を! とか言ってたかな。あー、手許にあったら読み返すのに。
読書と射猟は自分さがし。
曹操の時間感覚がおもしろい。いま宦官が吹き荒れている。20年たって、天下が清くなるまで待ってもいいかな! という大らかさ。曹操は「ポストモダン」だなあ。なぜ20年かといえば、曹操が50歳でギリギリの現役でいられるタイミングから逆算した、曹操に都合のよい年月なんだけど。おー、根拠がない! しかし、20年という「約1世代の長い時間」に対する、なんとなしの期待は、分からなくもない。近代的合理性とか、金利計算に基づいた「将来価値」とか、そういう期待や予測ではなく、何となくの変化への期待。おそらく霊帝が退場して、時代も変わるでしょーと。
曹操はセッカチなイメージがあるけど、劉備や孫権が残っていても、わりと大らかに対処できたのかも知れない。袁紹の子たちを北伐するもの、10年かけた。禅譲が曹丕に持ち越されたのも、曹操に特有の大らかな時間感覚のおかげかも。袁紹と袁術が、彼ら自身の寿命に焦ってムチャをしたから、いっそう曹操は大らかになる。「董卓の乱から、10年では漢室は滅びない。しかし、いくらなんでも、30年たてば、漢室は消えていくだろう」という、長期ビジョン。「時間が解決してくれるさ」を有言実行できる人。すなわち、ガチャガチャせずに、待てる人。
曹操は、多動的でセッカチなイメージがあるけど(じつは、このイメージは根拠が怪しい。どこからきたイメージだっけ、遠征距離が長いことからか)、曹操は大らかだ。急ぐときは急げるけど、急がないほうがいいタイミングを見極められる。

賓客も絶ちきるつもりだった。

やったあ。「積極的な」ひきこもり。


後徵為都尉,遷典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,欲望封侯作 征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。而遭值董卓之難,興舉義兵。是時合兵能多得 耳,然常自損,不欲多之;所以然者,多兵意盛,與彊敵爭,倘更為禍始。故汴水之戰數千,後還到揚州更募,亦 復不過三千人,此其本志有限也。後領兗州,破降黃巾三十萬眾。

のちに徵され、都尉、典軍校尉。封侯、征西将軍になりたかった。墓に「漢故征西將軍曹侯之墓」と刻んでほしかった。董卓と汴水で戦い、黄巾と兗州で戦った。

このへんは、盧弼も武帝紀の前半とひもづけるだけ。


又袁術僭號于九江,下皆稱臣,名門曰建號 門,衣被皆為天子之制,兩婦預爭為皇后。志計已定,人有勸術使遂即帝位,露布天下,答言『曹公尚在,未可也』。 後孤討禽其四將,獲其人眾,遂使術窮亡解沮,發病而死。

袁術が九江で僭号した。袁術の下官は、みな「臣」と称した。門を「建号門」と名づけ、衣服は天子之制とした。2婦人が、皇后の地位を争った。袁術の計画が定まった。袁術に「帝位に即け」と勧める者があり、天下に「袁術は帝位に即け」と露布した。袁術は「曹操がまだ生きている、帝位は早い」と答えた。

ぼくは思う。「建号門」とか、固有名詞が具体的。そして2婦人が皇后を争うのは、馮氏のことを言っているのか。袁術伝よりも、具体的で嬉しいなあ。
「曹公、なお在り」と答えたのは、袁術ということで良いのか? そのわりに袁術は、帝位に就いてしまった。まるで、勝手に「臣」と称した人に押し切られたような印象すらある。露布で、既成事実を作ってしまい、後戻りを防いだ。まるで酒の席で、「袁術くんが、おもしろいことをするそうです!」、「えー、やらないよ」、「さっき、準備してきたって言っただろ」、「えー、しぶしぶ」という感じである。これを、袁術側の史料が「謙譲の美徳」として称えているならウソくさいが、曹操が令しているのだ。
曹操は袁術その人を、コキおろしていない。普通? であれば、袁術の横暴をせめるべきだ。しかし袁術は「曹操を尊重しとこうよ」と穏便である。なんだか、袁術よりも、揚州の人々が悪いような言い方だ。
もしかして曹操は、揚州の人々に怒ってる? 袁術の死後、孫権とともに曹操を追い返して、合肥をおびやかすから。曹操にとっては、袁術という過去の強者より、揚州という現在の抵抗分子のほうがイライラする。
さらに言えば、争った2婦人が醜いのであって、袁術はオロオロするという設定だ。曹操の叙述だと、「預」という文字から、袁術が皇帝になる前に、皇后の地位が争われている。「私が皇后になるから、あんたは皇帝になってよ」という脅迫である。まるで、発行されてもいない約束手形をめぐって闘争が起きちゃったから、本来なら約束手形を発行する必然性のない人が、手形を発行させられるようなものだ。2婦人に惑わされる袁術。これは同人誌になるぞ。いや、ならないか。そういうの、ぼくは、やってません。
まとめると。
揚州人は、袁術に向けて「臣」を称し、「袁術は皇帝になれ」と天下にバラまく。袁術の2婦人は、袁術が皇帝になる前に、皇后の地位を争う。袁術は「まだ曹公がいるから早いよ」と、皇帝即位をこばむが、揚州人や皇后に押し切られる。ウソくさいが、ここにそう書いてある気がする。またぼくが読み間違ったかな。

のちに私は、袁術の4将と、袁術軍をとらえた。袁術は病死した。

盧弼はいう。橋ズイ、李豊、梁綱、楽就である。
袁術が病死したのは、建安4年である。ぼくは思う。すでに11年前のことを言っている。いま2012年から11年前は、2001年だ。世界水泳で、イアンソープが、ウルトラソウル! とか言っているころだ。昔のような、そうでもないような。いまはロンドン五輪。


及至袁紹據河北,兵勢彊盛,孤自度勢,實不敵之,但 計投死為國,以義滅身,足垂於後。幸而破紹,梟其二子。又劉表自以為宗室,包藏姦心,乍前乍卻,以觀世事, 據有當州,孤復定之,遂平天下。

河北で袁紹と2子をきった。

建安5年に袁紹をやぶり、建安10年に袁譚をきり、建安12年に袁尚をきった。こんなにスッキリ年代をまとめてもらえると、『三国志集解』を読んでいるカイがある。

劉表が宗室だから、姦心をもった。荊州を平定して、天下が平らいだ。

何焯はいう。孫権と劉備がのこっている。
ぼくは思う。曹操がこの令を出した意図は、どこにあるのか。天下が平定されたという、到達点をいうのか。これから、目指すところの計画を述べるのか。以降を読んで、判定せねば。「平らいだ」というが、平らいでないじゃん!というツッコミは、あんまり面白くないので、却下。なぜこんなことを書いたのか、定型文なだけか、ほかに意図が?


身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。今孤言此,若為自大,欲人言盡,故無 諱耳。設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王。或者人見孤彊盛,又性不信天命之事,恐私心相評,言有 不遜之志,妄相忖度,每用耿耿。齊桓、晉文所以垂稱至今日者,以其兵勢廣大,猶能奉事周室也。論語云『三分 天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德矣』,夫能以大事小也。

わたしは宰相となった。もし私がいなければ、何人が「帝」「王」を称しただろうか。

『漢書』百官公卿表には、相国と丞相があるが、宰相がない。だが、『漢書』曹参伝、何武伝、『後漢書』李通伝にある。これは、三公を宰相とよんだ証拠である。『漢書』鮑宣伝、公孫賀らの列伝の賛、朱博伝などで、三公を宰相とよぶ。
銭大昭はいう。御史大夫は、また宰相とも称する。

わたしが簒奪するという人がいる。だが、齊桓と晉文は、兵勢がつよいが、周室につかえた。『論語』にある。天下の3分の2を有しても、周は殷に仕えたのが徳だと。

ぼくは思う。天下の3分の2は、出典が『論語』だったのか。袁術の皇帝即位を思い留まらせる人も、曹丕が皇帝即位を断るときも、天下の3分の2の話をする。
でも、、と邪悪なことを思いつく。曹操が孫権と劉備を残してしまったが、これこそ「天下の3分の2を有する」である。故事にピタリとはまった。南方は人口が少なかったから、曹操は3分の2以上を持っているともいう。3分の2以上をもって、「わたしは3分の2をもつ」と謙遜するのは、ちょうど心地よい。曹氏は、周室に自分をなぞらえたくなってしまうなあ。まあ、完全一致のためには、のこりの3分の1が、周にとっての殷である必要がある。つまり、魏にとっての漢である必要がある。そこはちょっと違う。


昔樂毅走趙,趙王欲與之圖燕,樂毅伏而垂泣, 對曰:『臣事昭王,猶事天王;臣若獲戾,放在他國,沒世然後已,不忍謀趙之徒隸,況燕後嗣乎!』胡亥之殺蒙恬 也,恬曰:『自吾先人及至子孫,積信於秦三世矣;今臣將兵三十餘萬,其勢足以背叛,然自知必死而守義者,不 敢辱先人之教以忘先王也。』孤每讀此二人書,未嘗不愴然流涕也。

楽毅と蒙恬の記述を読むたび、主君の理解がなかったことに、泣いてしまう。

姚範によると、楽毅が泣きながら言ったことは、出典が分からないらしい。詳しく知らないから信じてしまうが、意外にノリで言っているのかも知れない。


孤祖父以至孤身,皆當親重之任,可謂見信 者矣,以及子建(子桓),過于三世矣。孤非徒對諸君說此也,常以語妻妾,皆令深知此意。孤謂之言:『顧 我萬年之後,汝曹皆當出嫁,欲令傳道我心,使他人皆知之。』孤此言皆肝鬲之要也。所以勤勤懇懇敍心腹者, 見周公有金縢之書以自明,恐人不信之故。然欲孤便爾委捐所典兵眾以還執事,歸就武平侯國,實不可也。何 者?誠恐己離兵為人所禍也。既為子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍,此所不得為也。

祖父は孤身だったが、皇帝に親しまれた。曹植(曹丕)の代で、3世代をこえて、後漢からお世話になる。

銭大昕はいう。陳景雲によると、この令で曹操は「まえに3子を侯爵にしてもらった」という。翌年に3子が侯爵になる。この3子のなかでは、曹植が筆頭だった。曹植を曹丕に改めるほどでなく、彼ら兄弟という意味であろう。曹丕は曹操の爵位をつぐのだから、曹植が筆頭である。
潘眉はいう。このとき封じられたのは、曹植、曹璩、曹豹である。これが「前に3子を侯爵にしてくれて」である。曹植でよい。曹丕でない。曹丕は、建安15年にまだ朝職を受けない。建安16年に、はじめて五官中郎将となる。曹丕は、曹操の爵位をもらうことが建安15年時点で確定していたから、侯爵をもらわなかった。
周寿昌はいう。建安16年春の注釈で、曹植らが侯爵に封じられる。沈家本はいう。この令の翌月に曹植が封じられると決まっていたから、ここは曹植でよい。兄弟の順序と、封爵の順序がちがうのだ。
盧弼はいう。前後にひく故事と整合させようとすると、曹丕がただしい。
ぼくは思う。過渡的な対応とはいえ、爵位のある弟と、官位も爵位もない兄って、微妙な気分かなあ。 曹丕か曹植か、もう結論はヤブのなかということで。
@Golden_hamster さんはいう。列侯の場合は世継ぎは「世子」と呼ばれる一応決まった地位ですから、それほど微妙に感じてはいなかったかも。しかし魏公・王になっても太子になっていないのは内心穏やかではなかったはず。

わたしは妻子に「漢室につかえよ」と言い聞かせてある。わたしの簒奪をうたがい、「武平侯国に帰れ」と命じられても、応じられない。

武平は、建安元年にある。
ぼくは補う。武帝紀の建安元年(196)にある。九月,車駕出轘轅而東,以太祖為大將軍,封武平侯。と。曹操はこのとき、武平侯という爵位だった。曹丕が世子となったのはいつだ? 曹昂は、建安二年まで生きている。
@bb_sabure さんはいう。丁氏と離縁して卞氏が正妻となるまでは曹丕が後継になることは考え難い気がします。ただ、その時機も建安の初め頃ということしかわからないので確定するのは難しそうですね。
ぼくは思う。「曹昂が死んでから、丁氏と正式に離縁するまでのあいだ、世子が不在だった」ということは、推論できるんでしょうか。
@bb_sabure さんはいう。世子の在期間が生じることをすっかり忘れてました。必ず世子がいるとなれば確かに曹丕以外の誰かがいなければいけませんよね。逆に不在もあるとすれば曹昴戦死の頃、曹操は特に決めてないのかもしれません。世子は伝統的に留守番ですし。
@Golden_hamster さんはいう。列侯の世子はどうも当主の申告制だったっぽいですね。『漢書』韋玄成伝によると。ただ列侯の世子が引き継げるのは列侯だけなので、曹操の後継候補としては五官中郎将・副丞相になったことの方が重要なんでしょうね。

兵権を返上したら、わたしが殺される。わたしがいない漢室も傾く。ほんとだよ。

ぼくは思う。曹操は脅迫してるのね。丞相という官位をのぞいて、曹操は生きられない。丞相の曹操をのぞいて、漢室は生きられない。どちらが優位ということもない。関係性が、生成的だなあ。


前朝恩封三子為侯,固辭不受,今更欲受之,非欲復以為榮,欲以為外援,為萬安計。孤聞介推之避晉封。申胥之逃 楚賞,未嘗不舍書而歎,有以自省也。奉國威靈,仗鉞征伐,推弱以克彊,處小而禽大,意之所圖,動無違事,心之 所慮,何向不濟,遂蕩平天下,不辱主命,可謂天助漢室,非人力也。然封兼四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未 靜,不可讓位;至于邑土,可得而辭。今上還陽夏、柘、苦三縣戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之 責也。」

まえに3子を侯爵に封じられたが、固辞した。いま私は、4県をあわせて3万子を食むのはしんどい。孫権と劉備が残ったので、夏県、柘県、苦県の2万戸を返却する。ただ武平県1万戸だけにしてほしいと。

『郡国志』はいう。豫州の陳国にある、陽夏県、柘県、苦県である。
李安渓はいう。すばらしい文章だが、惜しむらくは著者が曹操であることである。曹操が書いたのだから、読んだ人をイラッとさせる。えー。
ぼくは思う。曹操は、3県を返上するために、これを書いている。若いころの本志とか、袁術と袁紹とか、天下を平定するとか、簒奪するしないとか、息子の爵位がどうとか、すべて3県を返上するための口実だった。けっきょくは、「赤壁で負けちゃいました、すみません」である。さきに謝って、先手をとる作戦である。赤壁で負けたとか、簒奪を疑われたとか、いろんな理由をつけて曹操を排除する勢力がありえる。だから先手をとって、脅迫しちゃう。曹操が危機であることだけは、よくわかった。というギリギリの状態で、建安15年は暮れるのでした。
もしぼくが曹操だったら、つぎに何をしたら良いか分からない。どこを攻めるのか、政策をどうするのか、漢室と自分の関係をどうするのか。てづまり。まったく暗中模索。ほんのり先の歴史を知っていても、何をしたら良いか見当がつかない。だが、武帝紀の曹操が動かねば、なにも始まらない。ここから、建安16年を「立案」するのだから、やっぱり曹操はすごいなあ。

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建安16年、馬超を撃ち、楊秋を封じる open

春正月、曹丕が五官中郎将、3弟が封侯

十六年春正月,

魏書曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戶。

建安16年(211)、春正月、
『魏書』はいう。正月庚辰、天子は曹操から5千戸をへらした。さらに曹操が返上した3県=1万5千戸を、曹操の3子に分けた。曹植を平原侯、曹據を范陽侯、曹豹を饒陽侯とした。それぞれ食邑5千石。

曹豹とは、沛穆王の曹林のことである。曹豹は、曹林の初名である。『三国志』武文世王公伝をみよ。
平原は初平3年にある。『郡国志』はいう。范陽は幽州の涿郡である。饒陽は冀州の安平国である。
ぼくは補う。曹操は3万戸のうち、2万戸を返上し、1万戸にしてくれと言った。献帝は、この要望を聞き入れた。曹操から2万を召し上げた。だが、1万5千を3子に分配した。つまり純減は、たった5千戸である。さきに曹操は、3子の封爵を辞退していた。献帝は、曹操からの返上をキッカケに、曹操の辞退を却下し、子供たちを封じてしまった。複式簿記とおなじで、計算のプロセスを相殺して、結果だけ「マイナス5千」と書いてはいけない。名前が書いていない貨幣すら、持主の霊が宿っているのだから、まして封爵の戸数には、すごい呪いがかかっている。


天子命公世子丕為五官中郎將,置官屬,為丞相副。太原商曜等以 大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。

献帝は、曹操の世子である曹丕を、五官中郎將として、五官中郎将に官屬をおき、丞相の副とした。

『続百官志』はいう。五官中郎将は1名、比2千石。胡三省はいう。五官郎をつかさどるのみで、官属が置かれない。光禄勲に領属する。丞相の副官ではない。
趙一清はいう。魏晋に、(属官をもつ?) 五官中郎将はいない。曹丕だけのために設置され、曹丕がやめたら廃止された。
洪飴孫はいう。建安16年、曹丕は五官中郎将となり、官属をおいた。長史の涼茂、邴原、呉質がいた。『魏略』で文学の徐幹、応瑒がいた。王粲伝で、劉廙、蘇林がいた。劉劭伝で、夏侯尚、司馬の趙シンがいた。『蜀志』にひく『魏書』で、門下賊曹の盧毓、郭淮がいた。功曹の常林がいた。践祚のあと、(官属が?) おかれず。
盧弼はいう。『三国志』裴潛にひく『魏略』で厳幹は、黄初のとき五官中郎将に転じた。梁習伝にひく『魏略』で、司馬懿は弘農太守の劉類をめして、五官中郎将とした。黄初のあと、漢魏革命のあとも、五官中郎将はあった。魏晋に五官中郎将がないというのは誤りである。
ぼくは補う。魏晋になくなるのは、「官属をもつ五官中郎将」だと思い、かってにカッコ内を補足した。これであっているのか。史料を見れば分かるだろうけど、後日の宿題、、と言ってもやらなさそう。


春3月、鍾繇が張魯を攻め、馬超がそむく

太原商曜等以 大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。張魯據漢中,
三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。遣曹仁討之。超等 屯潼關,公敕諸將:「關西兵精悍,堅壁勿與戰。」

太原の商曜らは、大陵でそむいた。夏侯淵と徐晃に、商曜を囲んで破らせた。

『郡国志』はいう。并州の太原郡の大陵である。呉増僅はいう。『晋書』北狄伝はいう。建安のとき、曹操は匈奴の中部を、大陵におらせた。
盧弼はいう。『三国志』徐晃伝では、太陵とある。
ぼくは思う。商曜について注釈がなかった。盧弼さん、がんばってください。『晋書』の注釈とあわせると、匈奴の地域の反乱である。商曜が、匈奴系なのか知らん。「商」姓って、ほかに誰がいたっけ。ちくま8巻によると、商鞅、商瞿、商升、商容。商鞅はムカシのエライヒトだけど。

張魯は漢中による。

『郡国志』はいう。益州の漢中郡である。治所は南鄭。
『元和志』はいう。張魯は漢中により、漢中を「漢寧郡」と改めた。曹操が漢中郡にもどした。劉備は夏侯淵をやぶり、そこを重鎮とした。魏延、蒋琬、姜維が駐屯した。漢中は守りの要地だから、劉備は「曹操がきても守れる」といった。
南鄭は、張魯伝に注釈した。

3月、鍾繇に張魯をうたせた。曹操は、夏侯淵を河東からだし、鍾繇にあわせた。

『郡国志』はいう。司隷の河東郡である。治所は安邑。
ぼくは思う。夏侯淵は、并州で商曜をうち、河東にいた。曹操が、夏侯淵をどういう使い方をしてきたのか、夏侯淵伝でちゃんと追いたい。いちど西方に向かえば、もう夏侯淵は死んじゃうから。前やった列伝は、途中で終わっている。。
巻9・夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、曹休、曹真伝・初期の曹操軍

このとき関中の諸将は、鍾繇に襲われると思い、そむいた。

李マンとする史料もあるが、李堪がただしい。馬超伝、張魯伝で、李堪である。
『三国志』高柔伝はいう。高柔は曹操をいさめた。「西方には、韓遂と馬超がいる。まず三方を平らげ、漢中に檄文を伝えれば、韓遂と馬超はおさまる」と。鍾繇が関中に入ると、はたして韓遂と馬超がそむいた。
胡三省はいう。曹操が関中をすて、張魯を遠征すると言ったのは、「伐虢取虞」の計である。ほんとうは馬超を討ちたいが、張魯を討つと言い、速やかに馬超にそむかせた。
ぼくは思う。曹操の意図は、どちらにあったか。高柔は常識的な意見である。高柔という「定点」があるから、安心できる。ぼくにとっての「合理的で無難」な意見が、当時においても「合理的で無難」だったのだと確認できる。いちおう馬超たちは曹操に敵対しないのに、いたずらに刺激するのは、良くないよと。
ウラのウラをかく計略の渦中では、本人にも、どちらがオモテか分かっていない。曹操の真意を、胡三省のいう計略のように言うこともできないだろう。
たしかに漢中を名指しして、関中を刺激するのは、奇手である。しかし、荊州を平らげ、合肥にゆき、こんどは関中にゆき、、という戦略は、残っている勢力を順番に攻撃しているだけで、凡手である。曹操の奇手や創造性を、評価しすぎるのは、いかんなあ。赤壁で敗れ、封県を返却して膠着した。膠着したから、曹丕や曹植に肩書をつけた。なにか揺さぶって、変化を期待してみよう! というノリではなかったか。

曹操は、曹仁に馬超らを討たせた。馬超らは潼関に屯した。

『三国志』馬超伝にひく『典略』に、馬超の10将、10万がある。
『左伝』に「桃林之塞」がある。杜預はいう。桃林は、華陰県の東にあり、潼関である。あとは土地の説明。はぶく。
ぼくは思う。曹操軍の役割を整理する。鍾繇と夏侯淵は、張魯をうつ人。曹仁は、馬超をうつ人。鍾繇と夏侯淵と、曹仁とは、どうやって合流するのかな。鍾繇に「張魯はまだ攻めない」という連絡は、どういうかたちで届いたのか。もしくは、初めからニシキのフクロで伝言されていたか。笑

曹操は諸将に勅した。「関西の兵をつよい。戦うな」と。

ぼくは思う。「戦うな」って何だよ。「オレさまが行くから待ってろ」という意味なのか。どうも、この戦いの必然性が分からない。曹操から徴発しておき、討伐にやった曹仁に「戦うな」って、矛盾している。駐屯にコストがかかるのは、曹操が詳しいはずなのに。たんなる「膠着の打破」にしか見えない! 求心力の低下には、外敵が有効なのは、いつでもどこでも同じ。
もしくは「何か功績をつくりたいなあ」という動機なのか。曹操は「官位を返上して、封地に引っこめ」と言われても仕方がない状況。本人が令でそう言ってた。曹操は「私は軍権がないとヤバい(殺される)けど、私がいないと漢室の軍事もヤバい(滅びるよ)」と、印象づけたい。曹操と漢室の、不幸な相互依存を、より深く後戻りできないところに持ちこむため、馬超を徴発したのかな。あえて、高柔のいう定石をやぶった。迷惑なマッチポンプである。
これなら理解が成り立つ?
もし目的が「膠着をやぶる」「功績をたてる」なら、この戦いには、必ず曹操が参加しなければならない。曹操が軍事の天才で、勝率が上がるからではない。むしろ馬超に痛めつけられている記述が出てくる、戦さ下手。
そうでなく、曹操が参加しなければ、膠着が打破されないし、功績もたたない。もし負けたとき、曹操が参加してれば、良くも悪くも膠着はくずれるし、功績がなくても諦めがつく。納得して、封地に閉じこめられる。王莽が新都(だっけ?) に閉じこもったように。参加せずに負ければ、曹操は鄴県でヤルコトがないし、失脚を悔やみきれない。曹操は、活躍するのが大好きだから。
「苦戦のすえ、馬超をくだした。ハアハア」と汗を拭うから、曹操はつぎに進める。『三国演義』好みの曹操の苦戦が、やたら詳しいのは、じつは曹操のためである。進むべき「つぎ」とは、魏公だ。曹操が進むために、馬超が実態以上に政治的に宣伝された。その宣伝効果をつかうのが、劉備さんだった、という皮肉。劉璋をびびらせた。曹操と劉備は、乱世の「共犯」みたいだ。ライバルは、みんな共犯関係。


秋7月、潼関で馬超に襲われ、渭水に浮橋つくる

秋七月,公西征,

魏書曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」。公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習 長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。」

建安16年秋7月、曹操は西にゆく。
『魏書』はいう。議者は「関西の兵は、長矛がうまい。勝てない」という。曹操は「勝てる。見てろよ」という。

ぼくは思う。なんじゃこりゃ。もう発言の内容なんて、どうでもいいから、「曹操がなぜこんなこと言ったか」「どうして、こんなにドーデモイイ台詞が、わざわざ史料に記されたか」を考えたほうがいい。
ここは武帝紀の見せ場なんだなー。それだけ。


與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、朱靈等夜渡蒲阪津,據河西為營。公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰。 校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡,

曹瞞傳曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡牀不起。張郃等見事急,共引公入船。河水急,比渡,流四 五里,超等騎追射之,矢下如雨。諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕。公大笑曰:「今日幾為小賊所困乎!」

曹操は、潼関をはさんで馬超とむきあう。ひそかに、徐晃や朱霊らに蒲阪津を渡らせ、黄河の西に軍営をつくらせた。

『郡国志』はいう。河東郡の蒲阪である。
『通鑑考異』はいう。徐晃伝では、蒲阪津をわたるのは徐晃のアイディアである。盧弼はいう。徐晃を渡らせたのは曹操だから、武帝紀と徐晃伝は矛盾しない。

曹操が潼関を北に渡るとき、馬超に攻められた。校尉の丁斐が牛馬をはなった。曹操は渡れた。

丁斐は、あざなを文侯という。丁謐の父である。曹爽伝にひく『魏略』にある。許褚伝に、このときの様子がある。

『曹瞞伝』はいう。馬超がきたのに曹操が立たないから、張郃が乗船させた。曹操は笑って「今日は小賊に困らされた」と。

沈欽韓はいう。これは光武帝の台詞である。曹操は、光武帝の台詞を知っていて、自分も同じことを言ったのだ。姚範はいう。曹操は死にかけた。


循河為甬道而南。賊退,拒渭口,公 乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,為浮橋,夜,分兵結營于渭南。賊夜攻營,伏兵擊破之。超 等屯渭南,遣信求割河以西請和,公不許。

曹操は甬道をつくり、南にゆく。馬超はしりぞき、渭口でふせぐ。

『水経注』渭水篇に『春秋』が注釈される。『左伝』閔公2年、虢公は犬戎に渭汭(イゼイ)で敗れた。杜預はいう。水が曲がるのを汭という。王粛はいう。汭とは入ること。
胡三省はいう。渭水は、船司空に到りて黄河に入る。後漢は船司空をはぶいた。華陰県に属する。渭口の東が、潼関である。
ぼくは思う。「虢」という漢字を、生まれて初めて見て、同じ日に2回目を見た。初めは、曹操が張魯を討つぞと宣伝した計略を、胡三省が「伐虢取虞」といった。いま『左伝』から虢公が出てきた。かるくググった感触では、関係がなさそうだが。
曹操の馬超攻めは、『左伝』閔公2年の虢公の戦いと、オーバーラップしている? もちろん曹操は前例を知っていただろう。そして、虢公と同じことをしたら、犬戎=馬超に負けることも知っていたはず。どういう対策をしたんだろう。さっきの「桃林之塞」といい、曹操が潼関に向かうときに、どんな気持ちだったか知るため『春秋』を読まねばなあ。

曹操は兵を渭水にいれて、浮橋をつくった。

趙一清はいう。『水経』渭水注はいう。渭橋である。秦が置いた。また「便門橋」ともいう。もとは、忖留神の像があった。董卓が焼いたので、曹操が修復した。橋の広さは3丈6尺ある。曹操は乗馬してきて、忖留神の像を見て驚いて、橋を修復させた。
ぼくは思う。なにこの愉快なエピソード。曹操は信心ぶかいなあ!
盧弼はいう。渭橋は長安にある橋のことである。趙一清は『水経』を誤って引用してきた。長安からとおい関中で戦いながら、浮橋をかけて渭水をわたったのである。

曹操は馬超を夜襲した。馬超らは渭水の南にゆき、「黄河の西を割譲せよ」と請和の使者をよこした。曹操はみとめず。

秋9月、馬超の撃破と、黄河の西の戦略的価値

九月,進軍渡渭。

曹瞞傳曰:時公軍每渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯說公曰:「今天寒,可起沙為 城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。
或疑于時九月,水未應凍。臣松之按魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!

秋9月、曹操は渭水をわたった。
『曹瞞伝』はいう。婁子伯が氷城をつくったから、曹操は渭水を渡れた。裴松之はいう。9月に水は氷らないという人がいるが、曹操は潼関に8月にきて、閏8月に渡河した。この歳には閏月があるのだ。だから9月はもう寒い。

婁圭は、あざなを子伯という。
『官本考証』は「可一夜而成」5文字を、べつの24文字で表現している。ぼくが見るに、だいたい同じような意味だと思う。より詳しい。
ぼくは思う。閏月をはさんだ9月なら氷るとか、こうやって「合理的」に考えるんだなあ。曹操は、3月に張魯を攻めろといい、自分が出陣するまで待たせたので、もう寒くなってしまった。ムダな滞陣かと思いきや、たまたま気温に味方してもらった。曹操が時間をかけてまで、みずから出陣するのは、これが「戦闘」でなくて「政治」だからだろうが。時間の経過が、たまたま「戦闘」の役にたった。天命があるなあ。笑
崔琰伝にひく『呉書』はいう。馬超を破ったのは、婁圭の功績がおおきい。曹操はいつも嘆いた。「私の計略は、婁圭に及ばなかった」と。ぼくは思う。なんで、こんな曹魏のドメスティックな会話が『呉書』にあるのさ。
ぼくは思う。ともあれ曹操の出陣は、とくに「曹操がいるほうが、軍事的に有利だから」ではなかったことが分かる。偶然に助けられ、脚色があるかも知れないが命が危ぶまれつつ、寒さのおかげで馬超に勝った。


超等數挑戰,又不許;固請 割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。既罷,超等問遂:「公何言?」 遂曰:「無所言也。」超等疑之。

馬超は「任子を送るから、ぜひ黄河より西をくれ」という。

『三国志』董卓伝はいう。韓遂と馬騰は涼州にかえって争った。馬騰が衛尉となり、馬超が部曲をついだ。建安16年、韓遂は金城で部将に殺された。馬超は漢陽にいて、馬騰は夷三族された。『三国志』馬超伝にひく『典略』で、馬騰の家属はみな鄴県にゆき、ただ馬超だけがのこったという。馬超の上疏で「門宗200余口を曹操に殺された」とある。
盧弼はいう。馬超はだれを任子に出すのか。また馬超は、馬騰を顧みないし、父の代わりとした韓約(韓遂)を顧みない。張既伝にひく『魏略』より。もし馬超が任子を出しても、見殺しにするに決まっている。
ぼくは思う。ひどい家族歴だなー!(馬超に興味がない)

賈詡の計略で、いつわって馬超に割譲をゆるした。

ぼくは思う。馬超がノコノコ出てきたのは、黄河より西を割譲してもらえるという返事を、もらったからなのか。クドクド、しつこく要求すれば、戦局は曹操が有利でも、曹操が割譲してくれると思ったらしい。あまいなー。

韓遂の父は、曹操と同年に孝廉にあがった。馬超に、曹操と韓遂の交馬語を見せた。軍事を話題とせず、洛陽の昔話だけして、手をうって笑った。

胡三省はいう。韓遂は、樊稠と交馬語をして、樊稠をたおした。韓遂は、曹操と交馬語をして、曹操に倒された。韓遂は計略によって樊稠を倒したのでなく、たまたま樊稠を倒せたことが判明する。馬超が韓遂を疑えば、李傕が樊稠を疑ったのと同じである。
ぼくは思う。韓遂は、交馬語の怖さを認識してなかった!
盧弼はいう。交馬語のとき、うしろに閻行がいた。曹操は閻行に孝子となれと念じた? 閻行のことは、張既伝にひく『魏略』にある。韓遂と樊稠の交馬語は、『三国志』董卓伝にひく『九州春秋』にある。

馬超は韓遂に「曹操はなんと?」と聞いたが、韓遂は「べつに」と答えた。馬超は、韓遂を疑った。

ぼくは思う。この文脈でいうと、馬超が聞き出したかったのは、陳寿のいうような「軍事」でない。黄河より西の割譲の条件だろう。韓遂が、かってに広い領土をもらう約束をしてきたのでは? と疑ったのだ。凡人だなあ。わかるけどもさ。 『通鑑考異』はいう。許褚伝では、韓遂、馬超、曹操が会って、曹操は許褚だけを従える。馬超は「虎侯はどこに」と聞くと、曹操は許褚を指さした。馬超はそばにいたじゃん。武帝紀はウソか。
盧弼はいう。馬超伝でも、馬超は会話に参加する。曹操と韓遂が話したとき、馬超はちょっと遠くにいたので、聞こえなかったのではないか。
ぼくは思う。もっとも重要な政治的な会見で、おそらく馬術にすぐれた馬超が、うっかり「ちょっと離れる」って、なんやねん。ともあれ、小説に書こうとするとウソになることが、本紀と各列伝に散らばっているのは確かかなー。
ぼくは思う。韓遂と曹操の交馬語を、馬超が「軍事の密談では」と疑って、韓遂と馬超が対立したという理解が一般的か。これは不充分かも。韓遂と曹操は「オレたちは孝廉を出すような家柄。馬超と違う」と、格の違いを見せつけた。馬超は排除された気がして憤った。露骨すぎる、ディスタンクシオン=仲間はずれ!
ぼくは思う。馬超は交馬語を「オレを排除する軍事の密談か」と憤るが、その憤り方をした時点ですでに兵士レベル。曹操が内外に「馬超と韓遂は家柄が違う」という事実を示すだけで、たとえ韓遂と軍事の話をしなくても、馬超と韓遂は分裂する。曹操は分裂の原因を知ることができ、馬超は意識不明で、韓遂は半々かな。


魏書曰:公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可為木行馬以為防遏。」公然之。賊將見公,悉 于馬上拜,秦、胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「汝欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後 大觀。又列鐵騎五千為十重陳,精光耀日,賊益震懼。

『魏書』はいう。後日また曹操は、韓遂と会語した。秦胡にいう。「曹操が見たいか。目が4つ、口が2あるか。ただ智が多いだけだ」と。
鉄騎5千で秦胡をおどした。

他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑 遂。公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。 遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。

ふたたび曹操は韓遂に文書をおくり、改竄の痕跡をのこして、馬超に韓遂を疑わせた。弱兵で敵をさそい、強兵を後から出して成宜や李堪らを斬った。韓遂と馬超は、涼州に逃げた。楊秋は安定ににげ、関中が平らいだ。

諸將或問公曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東 擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」公曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸 津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉眾南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後 引軍北渡,賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也。連車樹柵,為甬道而南,既為不可 勝,且以示弱。渡渭為堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。吾順言許 之,所以從其意,使自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳,兵之變 化,固非一道也。」
始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。公答曰:「關中 長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其眾雖多,莫相歸服,軍無適 主,一舉可滅,為功差易,吾是以喜。」

臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京、索之間,築甬道屬河以取敖倉粟。應劭曰:「恐敵鈔輜重,故築垣牆如街 巷也。」今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面。

諸将が曹操に聞いた。「はじめ馬超は潼関にいて、渭北は道を塞いでいなかった。河東から馮翊を撃たずに、潼関にゆき、のちに黄河を北渡したのはなぜか」と。

『郡国志』司隷の左馮翊である。治所は高陵。『漢官解詁』によると、「馮輔翊蕃」という役割から名前がついた。
潘岳『関中記』はいう。三輔の治所は、もとは長安の城中にあった。長吏は長安のなかにいて、県民を統治した。光武帝が洛陽に遷都してから、扶風は槐里に、馮翊は高陵に治所が出された。王先謙はいう。曹魏の馮翊郡の治所は、すでに建安から臨晋に移されていた。
ぼくは思う。ふつうに考えれば、わざわざ危険な潼関にゆかず、河東から回りこんで、馮翊を撃てば良かったのだ。曹操は、むやみに危険となる戦い方を選んでいる。上で書いた、膠着の打破とか、功績の獲得とか、そういう理由と整合する。自暴自棄だったとか、寿命を焦っていたとか、ではあるまい。また「確固たる軍略があり、敵の動きを上空から見おろした」という答えも、あり得ないだろう。毎回ギリギリだから。

曹操はいう。「わたしが河東にゆけば、馬超らは、私が黄河を西に渡れぬようブロックするだろう。ゆえに私は潼関にいった。馬超が潼関で南を守れば、黄河を西に渡るスキができる。徐晃と朱霊を西に渡らせた」

黄河の西を占めてしまうことが、戦略のカギだとは分かった。つぎに曹操は、「私が黄河を北渡したあと、馬超らは朱霊がいるから、黄河の西を争えない」と言ってる。黄河の西にいくのが重要なのは分かったが、曹操が黄河を北渡する理由が示されていない。なんでだっけ。危ないめに遭ったのに、ムダだったか。

甬道をほって南に向かったのは、わたしが弱いフリをして、敵を油断させるためである。裴松之はいう。高祖二年のマネである。
曹操は、敵軍が集結すると喜んだ。遠方に籠もられると厄介で、1年や2年では片づかないが、集まってくれたので片づいた。

ぼくは思う。ぜんぶ、あとからの強がりである。結果オーライを、あとから勝者&権力者の都合よく振り返ると、なにが起きるかを、生々しく載せてくれてある。
胡三省はいう。関西の兵が強いのに曹操に負けたのは、法制が一でなかった(統制が取れていなかった)からである。


冬、楊秋をくだし、夏侯淵を長安にのこす

冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民人。

冬10月、曹操は長安から北にゆき、楊秋を征めて、安定をかこむ。楊秋がくだると、爵位をもどした。楊秋を安定に留め、民人を撫でさせた。

ぼくは思う。当然だけど、曹操は関中の人々を、全滅させるのが目的でない。曹操とは関係なく、現地で有力だった人を、「曹操に権限を与えられた人」に置き換えてゆけば、それでいい。楊秋を動かさなかったことから明らか。
今回の曹操の関中攻めも、討伐というよりは、示威行動という感じかなあ。袁術と袁紹が滅んだから、「漢室は終わった」なんてホザく有力勢力はない。曹操が、軍事的にも名目的にも最強である。
むしろ、馬超と韓遂が根強く抵抗した理由が、ぎゃくに分からないほど。だと思ったけど、彼らは、後漢をつうじて、ずっと離叛をしてきた地域の人だった。べつに「曹操」と戦っているのでなく、「中原の権力」と戦っているだけか。このあたり、「曹操」に敵対した劉備とはちがう。孫権とも違うのかな。彼らは、後漢を否定しないが、「後漢に巣くう逆臣」曹操を否定した。抵抗のモデルが、馬超たちは違うのだ。


魏略曰:楊秋,黃初中遷討寇將軍,位特進,封臨涇侯,以壽終。

『魏略』はいう。

『旧唐書』経籍志はいう。『魏略』38巻は、魚豢の撰。以下『魏略』の史料としての注釈がある。はぶく。上海戸籍147頁。本紀、志、列伝があり、正史の体裁だった。どんな列伝があったかなど。西戎伝がある! とか。建安20年の『典略』にも注釈あり。

楊秋は、黄初のとき、討寇將軍となり、位は特進。臨涇侯に封ぜられ、寿命で死んだ。

趙一清はいう。楊秋は、延康のとき、冠軍将軍となった。張郃とともに、山賊や、盧水の胡族をうった。郭淮伝にある。『宋書』百官志はいう。討寇将軍は、40ばんめの列である。後漢および曹魏がおいた。
盧弼はいう。『上尊号奏』に、冠軍将軍・好畤侯の楊秋がいる。
『晋書』百官志はいう。特進は漢官である。両漢と曹魏と、晋代でも加官であった。本官の車服のままで、吏卒はプラスされない。
ぼくは思う。楊秋は、曹魏から官爵をもらう立場になった。曹操が「関係をむすぶ」をやり、それが曹丕に受け継がれた結果である。関中を攻めた一番の成果は、馬超を破ったことではなく、楊秋のような成功例をつくったことである。馬超との戦いは史料が華やかだけど、「だからナニ?」という次元のできごとである。しかし、楊秋を囲んで降し、現地に残して味方にして、曹丕の禅譲に協力させたというのは、すばらしい。もし可能なら、関中の諸将は、すべてこのパタンなら嬉しかったのに。楊秋のように、寿命で死んでもらうのがベスト。 理想には例外がつきものだから、反乱が生きガイの、韓遂と馬超ぐらいは斬るべきだろうが。
諸将は、韓遂と馬超に引きずられたが、根っからの反乱者じゃない。自衛のために、潼関に集まっただけである。「馬超の集団が団結してない」のは、馬超にとって不幸だったかも知れないが、「馬超のような反乱者には、まとめられない」諸将がいることが、漢魏の秩序をつくる者にとっては幸福である。
ぼくは、残念な勢力のファンなので、馬超に心を寄せないでもないが、いまは曹丕がつくる秩序のあり方のほうに興味があるなあ。馬超には、政治も思想もない。軍事とか興味がない。
建安16年に記事が、華々しい馬超との戦いでなく、きっちり楊秋の記事で占められているところが、しびれるなあ。史家が言いたかったのは、この結末だったんだよ、それまでの賑やかしは、客引きのピエロだよと。


十二月,自 安定還,留夏侯淵屯長安。

12月、曹操は安定より還り、夏侯淵を長安にとどめた。

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