2)孫呉と日本の共通点
前回、「歴史とは?」という、根本的な問題について、今さら考えました。歴史とは、歴史家が動機を持って遺してくれた文字列のことです。
ぼくが三国志を好きな理由
前回、大阪の大学に日本史学を学びに行ったと書きました。昔話をもう少しさせて下さい。
3回生の2月にトラブルを起こしました。ぼくは、
「建国記念の日はなぜ祝日か」
という文章を書いて、学内の人目に触れるところに載せました。ぼくが込めたメッセージとしては、
「学校や会社が休みになることはラッキーです。せっかくなのでラッキーの由来を知っておきませんか。日本史に関する雑学です」
という程度だ。
だが悪いことに、勉強不足による事実誤認があった。また、あまり歴史に興味のない読者を想定して、細かいところを省略したり単純化したりしました。
自分の研究室の院生から、猛抗議が入りました。
「日本史学徒として、嘆かわしい」
というわけです。勉強しなおして、まず事実誤認を謝りました。省略や単純化については、ぼくの意図を説明しました。何回も謝罪の場が設けられて、閉塞した小さな講義室で、憂鬱な会合が行なわれました。
でも、途中で違和感に気づいた。
学徒としてのミスは、よく知りもしないことを誤記した、誇張して誤解を招く表現をした、ということに尽きるはずです。でも、それについて訂正と説明が済んだのに、話が収束しない。
「あなたが勉強し直したことは、いちおうは分かった。レジュメは、まあこれでいい。だが・・・」
何か別の怒りが、ぼくに向けられている。
院生には、いわゆる左翼の雰囲気が蔓延してました。
ぼくが建国記念の日という、「右翼的な」テーマを論じたことに対して怒っている。勉強不足とか、そういう話はもういいから、ここで異分子を叩いておかなければ、気が済まない。
そんなだ。
ぼくは日本の建国神話を礼賛したつもりはない。というか、攻撃をするつもりもない。意見がない。というより、関心が薄い。ぼくはただ、
「記紀(古事記と日本書紀)の真偽や可否はともかくとして、そういう祝日がありますよ。現実に、学校や会社が休みですよ」
というテーブルに付いただけだ。
当時のぼくは本音で、
「建国記念の日にそんなに反対ならば、2月11日にも学校に来て、平日どおり振る舞えばいいじゃん。祝日の反対集会に参加している時点で、祝日の恩恵に与っているわけだから、矛盾してないか」
と思っていました。ぼくの関心は、カレンダーの文字が赤いか黒いかだけです。だから、反発心の内容もこんなんです。
毎年この時期になると、院生たちは楽しそうに、
「あれに行きますか」
「行きましたか」
と、楽しそうに会話していた。運動会やクリスマスと同じように、抗議集会を年中行事として楽しんでいるようであり・・・。
ぼくは彼らに、学徒としての未熟さ以外の部分で、叩かれる必要があったのか。未だに違和感は解けていません。
生まれ育ったのが日本だから、日本史に興味を持ちました。でも、ぼくの興味は歴史学そのものに移りました。日本の歴史は、中国の模倣&アレンジです。ぼくは日本史の中でも、古代・中世に興味があったから、見てきた史料は中国の影響を濃く受けていた。
「本場の歴史をやりたい」
と思ったとき、ぼくの興味の範囲では、中国が本場でした。また、上記の建国記念の日の一件から、
「右翼とか左翼とかと関係なく、歴史学をやりたい」
とも思いました。もっと幼稚な発想で、
「日本史学から離れたい。でも歴史学から離れたくない」
と思っていたところもあります。当時のぼくにとって、日本史イコール自分が属している研究室でした。あの空気の中に馴染めない。これ以上、人間関係にストレスを味わいたくない。院生たちに同調して、建国記念の日の抗議集会に、いそいそと出かける甲斐性がない。彼らと対決するエネルギーもない。むしろ必要性を感じない。
「日本史とはギリギリ交わらず、でも、今まで熱心に学んできた日本史と関わりの深い分野はどこか」
と考えていたとき、たまたま『真・三國無双』にハマりました(笑)ぼくは吉川英治を読み、『三国志』のファンになりました。4回生の夏にファンになり、以来5年間ずっと好きです。
三国志は、日本史の前身だ
『三国志』は日本史の一部である。ぼくがそう考える理由を書きます。
日本史が始まるのは、7世紀です。年号を作って、君主の称号を決めて、歴史書を作って、国の正当性を確認する。これは国が独立するときの、中国文化圏の作法です。
三国時代には卑弥呼が使者を送った。五胡十六国時代には倭の五王が朝見した。中国の正史にあります。列島の有力者だったから、海外に人を遣れた。だが彼らは日本史の主役ではなく、中国史の脇役です。日本列島で「歴史」が生まれる前の人たちです。
聖徳太子、天智天皇、天武天皇あたりの人は、隋から分離独立して、「日本史」を始めた。彼ら以降が、日本史の人物です。
魏初、辺境だった江東で孫権が「呉」を建国した。同じように、7世紀の辺境の列島で、「日本」は中夏から分化しました。
孫呉は、漢の影響を受けています。漢の子孫と言ってもいい。こじつけているつもりはありませんが、孫呉にとって後漢は、自王朝の前身です。後漢の歴史を継いで、孫呉は成立しました。後漢について知ることは、孫呉を理解する助けとなります。
注意点があります。
包含関係を間違えてはいけない。漢がもっている歴史的意義が100あったとしたら、その中に1くらい、呉の前身として役割が含まれているのかもね、という話です。孫呉の誕生を期待して、後漢までの歴史が営まれてきたのではない。・・・ここに異を唱える人は少ないでしょう。
同じことが日本にも言える。
隋唐が成立するまでの中国の歴史は、日本の前史でもある。
考古学の人たちと対立しそうですが(笑)今日の日本の領土を掘って出てくる石片や金属は、日本の「歴史」ではない。前回見たように「歴史」とは、文字文化を持った人が生み育てるものです。考古学が見つけるのは、「事実」の断片的な遺品だ。
さっき、なぜわざわざ孫呉の話をしたかと言えば、
「7世紀に日本を建国させるために、隋唐までの大陸の人たちが文化を生み育てた。日本のため、お膳立て&ご奉仕をした」
なんて話に、流したくなかったから。同じことを言うけど、包含関係を間違えてはいけない。
孫呉が後漢の枝葉であったことは、日本人の感覚にストンと落ちると思う。同じように、日本が隋唐にとっての枝葉であったことを、ヒステリックにならずに確認したい。同時に、日本のルーツを知るためには、隋唐までの歴史を勉強することが有効だとも、確認したい。
『三国志』は、日本史の一部であるとは、ぼくの中でこういう意味です。