表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝63外戚、を康帝の褚氏まで翻訳

2)王恂-東晋皇后の父たち

前回は羊琇を見ました。司馬師の外戚でした。
つぎ、司馬昭の外戚です。

王恂、ゼイタクな王愷

王恂,字良夫,文明皇后之弟也。父肅,魏蘭陵侯。恂文義通博,在朝忠正,累遷河南尹,建立二學,崇明《五經》。鬲令袁毅嘗饋以駿馬,恂不受。及毅敗,受貨者皆被廢黜焉。魏氏給公卿已下租牛客戶數各有差,自後小人憚役,多樂為之,貴勢之門動有百數。又太原諸部亦以匈奴胡人為田客,多者數千。武帝踐位,詔禁募客,恂明峻其防,所部莫敢犯者。咸寧四年卒,贈車騎將軍。恂弟虔、愷。

王恂は、あざなを良夫という。文明皇后の弟である。父の王肅は、魏で蘭陵侯となった。

『晋書』は教えてくれないが、王粛の父は、あの王朗である。

王恂は、文義に通博し、朝勤では忠正だった。かさねて河南尹に遷り、2つの大学を建立し、『五經』を崇んで明らかにした。
鬲令の袁毅は、かつて王恂に駿馬をプレゼントしたが、王恂は受け取らなかった。袁毅が失脚すると、袁毅からプレゼントをもらった人は、みな失職した。

汚職に加担しなかった、という美談。だが王恂は外戚だから、お近づきになるニーズは袁毅の方にあったのでしょう。

魏朝は、公卿以下に、それぞれ穀物、耕牛、人口を支給した。これ以後、小人は賦役を逃れたから、裕福となった。貴勢な一族が、百数十も生まれた。
また太原諸部では、匈奴や胡人に、田を耕させていた。多い人は、数千人を使った。武帝が踐位すると詔して、異民族に耕作させることを禁じた。王恂はきっちりと手を打ったから、王恂の下で異民族を使い続けた人はいなかった。
咸寧四年に死んだ。車騎將軍を贈られた。
王恂の弟には、王虔と王愷がいる。

虔字恭祖。以功幹見稱,累遷衛尉,封安壽亭侯,拜平東將軍、假節、監青州諸軍事。征為光祿勳,轉尚書,卒。子士文嗣,曆右衛將軍、南中郎將,鎮許昌,為劉聰所害。

王虔は、あざなを恭祖という。功績を評価されて、衛尉となり、安壽亭侯に封じられた。平東將軍を拝し、假節、監青州諸軍事。光祿勳となり、轉尚書に転じて、死んだ。子の王士文が嗣いだ。
王士文は、右衛將軍、南中郎將を歴任し、許昌を鎮った。王士文は、劉聰に殺害された。

愷字君夫。少有才力,曆位清顯,雖無細行,有在公之稱。以討楊駿勳,封山都縣公,邑千八百戶。遷龍驤將軍,領驍騎將軍,加散騎常侍,尋坐事免官。起為射聲校尉,久之,轉後將軍。愷既世族國戚,性複豪侈,用赤石脂泥壁。石崇與愷將為鴆毒之事,司隸校尉傅祗劾之,有司皆論正重罪,詔特原之。由是眾人僉畏愷,故敢肆其意,所欲之事無所顧憚焉。及卒,諡曰醜。

王愷は、あざなを君夫という。若くして才力があり、高位を歴任した。細かい仕事はしなかったが、朝廷での評判は良かった。
楊駿を討った勲功により、山都縣公に封じられ、邑1800戸。
龍驤將軍となり、驍騎將軍を領ね、散騎常侍を加えられたが、連座して免官された。射聲校尉を長く務め、後將軍に転じた。
王愷は、家が代々外戚で、性格が豪侈だったから、赤石脂泥壁を用いた。

具体的なモノは分からんが、とてもゼイタクなものと認識すれば良いでしょう。

石崇と王與が鴆毒の事件を起こしそうになると、司隸校尉の傅祗が弾劾した。有司たちはみな、石崇と王愷に重罪を課そうとした。だが恵帝が、詔で特別に許した。これにより、人々は王愷の権勢を畏れた。王愷は好き勝手にふるまって、さっぱり反省しなかった。
死ぬと、「醜」とおくり名された。

楊修の親戚、楊文宗

楊文宗,武元皇后父也。其先事漢,四世為三公。文宗為魏通事郎,襲封{艸務}亭侯。早卒,以後父,追贈車騎將軍,諡曰穆。

楊文宗は、武元皇后の父である。はじめは漢に仕え、四世三公を輩出した。文宗は、魏で通事郎となり、{艸務}亭侯を継承した。早くに死んだ。皇后の父だから、車騎將軍を追贈された。「穆」とおくり名された。

名が、唐代の皇帝の名に障ったらしく、書いてない。誰?四世三公なら、楊震の子孫の家系だろうが。

羊氏、虞氏、庾氏、杜氏

羊玄之,惠皇后父,尚書右僕射瑾之子也。玄之初為尚書郎,以後父,拜光祿大夫、特進、散騎常侍,更封興晉侯。遷尚書右僕射,加侍中,進爵為公。成都王穎之攻長沙王乂也,以討玄之為名,遂憂懼而卒。追贈車騎將軍、開府儀同三司。

羊玄之は、惠皇后の父である。

恵帝の皇后は、賈氏じゃないの?ううん・・・勉強不足だ。分からん。

尚書右僕射である羊瑾の子だ。羊玄之は、はじめ尚書郎となった。皇后の父だから、光祿大夫、特進、散騎常侍を拝した。さらに羊玄之は、興晉侯に封じられた。 尚書右僕射に遷り、侍中を加えられ、公に爵位が進んだ。
成都王・司馬穎が長沙王・司馬乂を攻めた。司馬頴は、羊玄之を討つことを名目にした。羊玄之は、憂い懼れて死んだ。
羊玄之は車騎將軍を追贈され、開府儀同三司。

虞豫,元敬皇后父也。少有美稱,州郡禮辟,並不就。拜南陽王文學。早卒。明帝即位,追贈散騎常侍、驃騎大將軍、開府儀同三司、平山縣侯。子胤嗣。
胤,敬後弟也。初拜散騎常侍,遷步兵校尉。太寧末,追贈豫官,以胤襲侯爵,轉右衛將軍。與南頓王宗俱為明帝所昵,並典禁兵。及帝不豫,宗以陰謀發覺,事連胤,帝隱忍不問,徙胤為宗正卿,加散騎常侍。咸和二年,宗伏誅,左遷胤為桂陽太守,秩中二千石。頻徙琅邪、盧陵太守。咸康元所卒,追贈衛將軍,加散騎常侍。子洪襲爵。

虞豫は、元敬皇后の父である。若くして美稱があり、州郡で禮辟されたが、就職しなかった。南陽王の文學となった。早くに卒した。
明帝が即位すると、散騎常侍を追贈され、驃騎大將軍、開府儀同三司、平山縣侯。子の虞胤が嗣いだ。
虞胤は、元敬皇后の弟である。

明帝の叔父にあたる。

虞胤は散騎常侍を拝し、歩兵校尉に移った。
太寧末、父に散騎常侍、驃騎大將軍、開府儀同三司、平山縣侯が追贈されると、虞胤は侯爵を嗣いで、右衛將軍に転じた。
南頓王の司馬宗とともに、明帝と昵懇となり、一緒に禁兵を典じた。 明帝が倒れると、司馬宗の陰謀が発覚した。司馬宗の陰謀は、虞胤も繋がっていた。だが明帝は隱忍して、虞胤を不問とした。虞胤は、宗正卿に遷されただけだった。虞胤は、散騎常侍となった。
咸和二年、一族が誅に伏した。虞胤は左遷されて、桂陽太守となり、秩は中二千石となった。琅邪郡に徙され、盧陵太守となった。
咸康元年、虞胤は死んだ。衛將軍を追贈され、散騎常侍を加えられた。子の虞洪が、虞胤の爵位を嗣いだ。
  

庾琛,字子美,明穆皇后父也。兄袞,在《孝友傳》。琛永嘉初為建威將軍,過江,為會稽太守,征為丞相軍諮祭酒。卒官,以後父追贈左將軍,妻毌丘氏追封鄉君,子亮陳先志不受。咸和中,成帝又下詔追贈琛驃騎將軍、儀同三司,亮又辭焉。亮在列傳。

庾琛は、あざなを子美という。明穆皇后の父である。兄の庾袞は、『孝友傳』に記述がある。
庾琛は、永嘉初に建威將軍となった。長江を渡り、會稽太守となり、丞相軍諮祭酒となった。在官のまま死んだ。
皇后の父だから、左將軍を追贈された。妻の毌丘氏は、死後に鄉君に封じられた。 子の庾亮は、父母への追封を断った。咸和年間、成帝は詔して、庾琛に驃騎將軍、儀同三司を追贈した。庾亮はまた辞退した。庾亮は、列伝に記事がある。

杜乂,字弘理,成恭皇后父,鎮南將軍預孫,尚書左丞錫之子也。性純和,美姿容,有盛名于江左。王羲之見而目之曰:「膚若凝脂,眼如點漆,此神仙人也。」桓彝亦曰:「衛玠神清,杜乂形清。」襲封當陽侯,辟公府掾,為丹陽丞。早卒,無男,生後而乂終,妻裴氏嫠居養後,以禮自防,甚有德音。咸康初,追贈金紫光祿大夫,諡曰穆。封裴氏為高安鄉君,邑五百戶。至孝武帝時,崇進為廣德縣君。裴氏壽考,百姓號曰杜姥。初,司徒蔡謨甚器重乂,嘗言於朝曰:「恨諸君不見杜乂也。」其為名流所重如此。

杜乂は、あざなを弘理という。成恭皇后の父である。鎮南將軍の杜預の孫であり、尚書左丞の杜錫の子である。
杜乂は、性質が純和で、姿容は美しく、江左で盛名があった。王羲之が杜乂と会って、言った。
「杜乂の皮膚は、凝固した脂のようだ。眼は、點漆のようだ。杜乂は、神仙の人である」
また桓彝は、杜乂についてこう言った。
「衛玠神清、杜乂のルックスは清である」

逸話がひとつもなく、外見の話だけかよ・・・

當陽侯を嗣ぎ、公府の掾に辟召され、丹陽丞となった。早くに卒した。杜乂は男子がいなかった。杜皇后が生まれたが、父の杜乂が死んでしまったので、妻の裴氏が皇后を養育した。礼を守り、徳の評判があった。
咸康初、金紫光祿大夫を追贈されて、「穆」とおくり名された。妻の裴氏は高安鄉君に封じられ、邑五百戸。孝武帝のとき、廣德縣君に進んだ。裴氏は長生きしたので、万民は彼女を「杜姥」と呼んだ。
はじめ司徒の蔡謨は、杜乂の器量を評価して、重用した。かつて蔡謨は、朝日(地名?)で言った。
「諸君らが、杜乂と会っていないのが残念だ」
杜乂が名をなして重んじられたのは、こんな感じである。