表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝63外戚、を康帝の褚氏まで翻訳

4)中原を狙った外戚・褚裒

褚裒伝のハイライトです。
ところで「褚裒」って、なんて読むの(笑)?

謙遜の副作用

及石季龍死,裒上表請伐之,即日戒嚴,直指泗口。朝議以裒事任貴重,不宜深入,可先遣偏師。裒重陳前所遣前鋒督護王頤之等徑造彭城,示以威信,後遣督護麋嶷進軍下邳,賊即奔潰,嶷率所領據其城池,今宜速發,以成聲勢,於是除征討大都督青、揚、徐、兗、豫五州諸軍事。

石虎が死ぬと、褚裒は上表して、後趙を征伐したいと提案した。即日、戒嚴令を布き、ただちに泗口を目指した。朝議は、褚裒が皇后の父であり、貴い人なので、敵国に深入りさせるのは良くないと考えた。だから、はじめに先遣隊を送って、様子を探るのがいいと考えた。

朝廷は褚裒を、都に置きたい。理由は2つだ。まず外戚として貴ぶため。次に、素人に軍事を任せては危険だから。褚裒は、中央から遠ざかるために、地方にいる。そんな動機では、本当に地方を守れるか、怪しいものだ。

褚裒は、陣形を重ねた。前には、 前鋒督護の王頤之らを遣わし、彭城への通路を確保り、威信を示した。後には、督護の麋嶷に下邳へ進軍させた。後趙の賊は、すぐに潰走した。麋嶷が率いる兵たちは、下邳の城池に拠った。
速攻をかければ、声勢が高まり、後趙征伐が成功しそうに思われた。 褚裒は、征討大都督青、揚、徐、兗、豫五州諸軍事となった。

裒率眾三萬徑進彭城,河朔士庶歸降者日以千計,裒撫納之,甚得其歡心。先遣督護徐龕伐沛,獲偽相支重,郡中二千餘人歸降。魯郡山有五百餘家,亦建義請援,裒遣龕領銳卒三千迎之。龕違裒節度,軍次代陂,為石遵將李菟所敗,死傷太半,龕執節不撓,為賊所害。

褚裒は3万を率いて、彭城に進軍した。河朔の士人や庶民で、褚裒に投降した人は、1日に1000人を数えた。褚裒は、優しく投降を受け入れた。投降者たちの歡心を得た。
先に督護の徐龕に沛を討たせた。後趙の沛国相の支重を捕獲した。郡中の2000余人が投降してきた。
魯郡山には、500余家があった。褚裒は建義して、魯郡を救援したいと願い出た。褚裒は、徐龕に歩兵3000を与えて、魯郡を救援させた。しかし徐龕は、褚裒の命令に違反し、魯郡ではなく、代陂に軍を進めた。徐龕は、石遵の將・李菟に敗れた。徐龕の軍は、大半が死傷した。徐龕は、節(指揮権の象徴)を放さず、後趙の賊に殺された。

裒以《春秋》責帥,授任失所,威略虧損,上疏自貶,以征北將軍行事,求留鎮廣陵。詔以偏帥之責,不應引咎,逋寇未殄,方鎮任重,不宜貶降,使還鎮京口,解征討都督。

褚裒は『春秋』を参考にして、自ら降格を願い出た。褚裒は、征北將軍を(下位から)兼務して、廣陵に出鎮し続けたいと願った。詔があった。
「褚裒の、敗戦の罪は問わない。まだ外敵がウヨウヨしているから、広陵の守備は重要なポストである。褚裒を降格はしないが、京口に戻って守れ。褚裒を、征討都督から解任せよ」

位を下げてでも、広陵を守りたい褚裒。位を下げないが、広陵をもう褚裒に任せなかった朝廷。どっちが敗戦に対して厳しいのだろう?


時石季龍新死,其國大亂,遺戶二十萬口渡河,將歸順,乞師救援。會裒已旋,威勢不接,莫能自拔,皆為慕容皝及苻健之眾所掠,死亡鹹盡。裒以遠圖不就,憂慨發病。及至京口,聞哭聲甚眾,裒問:「何哭之多?」左右曰:「代陂之役也。」裒益慚恨。永和五年卒,年四十七,遠近嗟悼,吏士哀慕之。贈侍中、太傅,本官如故,諡曰元穆。子歆,字幼安,以學行知名,曆散騎常侍、秘書監。

石虎が新たに死んだとき、

日本語が変なのは分かってる。「新死」って何?

後趙は大いに乱れた。20万戸を遺して、難民が黄河を渡った。後趙は東晋に帰順のそぶりを見せ、東晋に援軍を求めた。褚裒は、すでに京口に戻っていたから、褚裒の軍事的影響力は、後趙に届かない。褚裒がいない東晋は、後趙の旧領を収めることができなかった。慕容皝と苻健の軍に、後趙の領土を掠め取られ、難民は殺しつくされた。
褚裒は、広陵から京口への移動中だ。後趙の混乱に、コミット出来ないことにストレスを溜めて、発病した。

褚裒が東晋の都に寄り付かなかったのは、謙虚だったからではない。中原の奪回に燃えていたから?それなら宮廷で潰しあっているヒマはないよね。けっきょく敗北はしたものの、北伐への熱心さは、東晋では群を抜く。

褚裒は京口に至り、兵士たちの泣く声を聞いた。褚裒は、
「なんでこんなに大勢が泣いているのか」
と尋ねた。左右の人は、
「代陂での戦役のことを、泣いています」
と答えた。褚裒はますます慚恨した。

褚裒の指揮ミスのことを、咎めて泣いたのではあるまい(笑)もしあのとき勝っていれば・・・と悔やんで泣いたのだ。だから褚裒は、さらに無念を強めた。

永和5年、褚裒は死んだ。47歳だった。
遠近の人は嗟悼し、吏士は褚裒を哀慕した。侍中、太傅を追贈し、生前の官はそのままとされた。「元穆」とおくり名された。
子の褚歆は、あざなを幼安という。學行を持って名を知られ、散騎常侍、秘書監を歴任した。

おわりに

まだ「外戚伝」は続きますが、もうちょっと東晋後期に興味が熟したら、やります。桓玄が気になってきた・・・090824