表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝63外戚、を康帝の褚氏まで翻訳

3)慎み深い?奇蹟の外戚

次にやる褚氏は、今回のいちばんの楽しみです。
たびたび臨朝して、東晋の皇統を守った。

謙遜の美徳

褚裒,字季野,康獻皇后父也。祖,有局量,以幹用稱。嘗為縣吏,事有不合,令欲鞭之,曰:「物各有所施,榱椽之材不合以為籓落也,願明府垂察。」乃舍之。家貧,辭吏。年垂五十,鎮南將軍羊祜與有舊,言于武帝,始被升用,官至安東將軍。父洽,武昌太守。

褚裒は、あざなを季野という。康獻皇后の父である。祖父の褚□は、局量があり、幹用を称えられた。かつて褚□は県吏となった。法理に合わないことをした人を、鞭で打たせようとした。褚□は言った。
「物各有所施,榱椽之材不合以為籓落也,願明府垂察。」乃舍之。
家が貧しかったので、辞職した。50歳のとき、鎮南將軍の羊祜と褚□は旧友だったので、羊祜は武帝にそれを伝えた。褚□は登用されて、安東將軍にまでなった。
父の褚洽は、武昌太守になった。

裒少有簡貴之風,與京兆杜乂俱有盛名,冠于中興。譙國桓彝見而目之曰:「季野有皮裏春秋。」言其外無臧否,而內有所褒貶也。謝安亦雅重之,恆雲:「裒雖不言,而四時之氣亦備矣。」初辟西陽王掾、吳王文學。蘇峻之構逆也,車騎將軍郗鑒以裒為參軍。峻平,以功封都鄉亭侯,稍遷司徒從事中郎,除給事黃門侍郎。康帝為琅邪王時,將納妃,妙選素望,詔娉裒女為妃,於是出為豫章太守。及康帝即位,征拜侍中,遷尚書。以後父,苦求外出,除建威將軍、江州刺史,鎮半洲。在官清約,雖居方伯,恆使私童樵采。頃之,征為衛將軍,領中書令。裒以中書銓管詔命,不宜以姻戚居之,固讓,詔以為左將卦、兗州刺史、都督兗州徐州之琅邪諸軍事、假節,鎮金城,又領琅邪內史。

褚裒は、若くして簡貴之風があり、京兆の杜乂とともに盛名があり、中興さえた東晋で評判がトップだった。譙國の桓彝は、褚裒に会って言った。
「季野(褚裒)の皮膚の下には、春秋がある」
この言葉には、外にはプラスやマイナスのニュアンスがないが、内には褒貶のニュアンスがあった。
謝安も褚裒を雅重して、つねに言った。
「褚裒は何を言わなくても、四時之氣が備わっているなあ」

内側からにじみ出る、趣きがあったらしい。外見の特異を書いた記事は多いが、褚裒はなにか違う。

はじめ辟召されて西陽王掾となり、つぎに呉王の文學となった。蘇峻が叛逆すると、車騎將軍の郗鑒は、褚裒を參軍にした。蘇峻が平定されると、その功績により、褚裒は都鄉亭侯に封じられた。
褚裒は司徒從事中郎に遷り、給事黃門侍郎になった。
康帝が琅邪王のとき、妃を娶ろうとした。康帝はふだんから目をつけていた、褚裒の娘を妃とした。娘が瑯邪王の妃になったので、褚裒は豫章太守に出された。
康帝が即位すると、侍中を拝し、尚書に遷った。皇后の父なので、中央から去ることを求め、建威將軍、江州刺史に除せられて、半洲に出鎮した。
褚裒の勤めぶりは清約で、地方の高官であったが、つねに私童に木材を調達させ、公のものを流用しなかった。
このころ褚裒は、衛將軍となり、中書令を領ねた。褚裒は、中書は詔命を管理できるポジションだから、外戚の自分が務めるのは良くないとして、固辞した。

後漢の外戚に聞かせてやりたい言葉です。

褚裒の申し出は認められ、左將卦、兗州刺史、都督兗州徐州之琅邪諸軍事、假節となり、金城に出鎮した。また、琅邪内史を領ねた。

臣下じゃない卦

初,裒總角詣庾亮,亮使郭璞筮之。卦成,璞駭然,亮曰:「有不祥乎?」璞曰:「此非人臣卦,不知此年少何以乃表斯祥?二十年外,吾言方驗。」及此二十九年而康獻皇太后臨朝,有司以裒皇太后父,議加不臣之禮,拜侍中、衛將軍、錄尚書事,持節、都督、刺史如故。裒以近戚,懼獲譏嫌,上疏固請居籓,曰:「臣以虛鄙,才不周用,過蒙國恩,累忝非據。無勞受寵,負愧實深,豈可複加殊特之命,顯號重疊!臣有何勳可以克堪?何顏可以冒進?委身聖世,豈複遺力,實懼顛墜,所誤者大。今王略未振,萬機至殷,陛下宜委誠宰輔,一遵先帝任賢之道,虛己受成,坦平心於天下,無宜內示私親之舉,朝野失望,所損豈少!」於是改授都督徐兗青揚州之晉陵吳國諸軍事、衛將軍、徐兗二州刺史、假節、鎮京口。

はじめ褚裒は、庾亮を訪問した。庾亮は郭璞に、筮竹で褚裒について占わせた。卦が成って、郭璞は駭然とした。庾亮は訊いた。
「不祥の卦なのか?」
郭璞は言った。
「これは、人臣の卦ではありません。この若者(褚裒)に対して、なぜ君主の卦が出てしまったのか、分かりません。20年以上経てば、この卦の意味が現実のものとなるでしょう」
この29年後、康獻皇太后(褚裒の娘)が臨朝した。有司は、褚裒が皇太后の父だから、不臣之禮を加えることを提案した。

郭璞の占いが的中したのである。

褚裒は侍中、衛將軍、録尚書事を拝し、持節、都督、刺史は元のままとするよう、辞令が出た。褚裒は、皇太后と血縁が近いから、讒言を受けることを懼れた。褚裒は上疏して、出鎮先に留まりたいと願った。
「私は虚鄙な人間で、才覚は使い物になりません。國恩を実力以上に蒙り、高官を頂きましたが、職務に堪えません。どんな顔して、高位に昇ったものでしょうか。もし私に政治を任せてしまっては、うまくいきません。いま皇帝は幼いので、先帝の方針を守って、任賢之道を維持してください。ただ外戚という理由で、私なんかが政権を主催したら、朝野が失望して、王朝を損耗させてしまいますから」
褚裒の言い分は認められた。褚裒は改めて、都督徐兗青揚州之晉陵吳國諸軍事、衛將軍、徐兗二州刺史、假節となり、京口に出鎮した。

『晋書』の外戚伝の序文が言っていた、外戚が家を保って成功できるやり方だ。


永和初,複征裒,將以為揚州、錄尚書事。吏部尚書劉遐說裒曰:「會稽王令德,國之周公也,足下宜以大政付之。」裒長史王胡之亦勸焉,於是固辭歸籓,朝野鹹嘆服之。進號征北大將軍、開府儀同三司,固辭開府。裒又以政道在於得才,宜委賢任能,升敬舊齒,乃薦前光祿大夫顧和、侍中殷浩。疏奏,即以和為尚書令,浩為揚州刺史。

永和初、また褚裒は揚州、録尚書事を命じられた。吏部尚書の劉遐は、褚裒に言った。
會稽王の令德は、周公旦のようだ。あなたも中央政府に戻って、政権参加すべきだ」
褚裒の長史・王胡も、褚裒に中央に戻ることを勧めた。だが褚裒は固辞して、帰藩した。朝野の人は、褚裒の慎み深さに嘆服した。
褚裒は征北大將軍に進み、開府儀同三司とされたが、開府は固辞した。褚裒は、政道のポイントは人材登用にあると考え、賢人に委ね、能力のある人を任じた。褚裒は老人を敬い、前の光祿大夫・顧和、侍中・殷浩を推薦した。疏奏して、顧和を尚書令とし、殷浩を揚州刺史にしてもらった。