表紙 > 読書録 > 安田二郎「八王の乱をめぐって―人間学的考察の試み―」を怪しむ

01) ジコチュウ人間たちの時代

論文を読みます。
安田二郎「八王の乱をめぐって―人間学的考察の試み―」
初出は、『名古屋大学東洋史研究報告』四、1976年だそうです。

全体の感想

これを読んで思ったのは、
「安田氏は研究生活で、よっぽどつまらんことがあったのかなー」
ということです。きっと目の前にいるジコチュウな人間に苦しめられて、イライラしていたに違いない。安田氏がこの年代にどこで何をしていたかは、全く知りませんが。
こういう問題関心から史料を読むんだったら、一般企業で働いているぼくの方が、よほど上手いんじゃないかと思えるほどでした (笑)

安田氏の論文を、ぼくが勝手に要約すると、
「秦漢の共同体が壊れて、魏晋の人は自我を獲得した。秦漢では押さえ込まれていたジコチュウな部分があふれ出し、押さえが利かなくなった。ジコチュウの極みが、八王の乱である。異民族に華北を取られるという、痛い痛い教訓を得て、人々はちょっとは他人のことを思いやるようになった。人間的な成長である」

何だかねえ、小学校の道徳の教科書かよ、という話で。きっと魏晋の人はいい大人なので、本音と建前を使い分けていただろうし、上表するときはさらにお化粧をしたはずで。しかも『晋書』を編集するときにバイアスもかかった。いま読めるものを鵜呑みにして、西晋をジコチュウの時代と決め付けて良いものか。
1人の人間が生まれるとき、胎内で受精してから、生命が進化する過程をやり直すと言うじゃん。単細胞生物からスタートし…というやつです。これをひっくり返して当てはめ、歴史の過程は、子供が人格を形成する過程と同じであるとまで言っていいのか。話が荒っぽくなり過ぎないか。幼稚な理解になって、読者から失笑されないか。
文句ばかり言っても仕方ないので、論文を要約しつつ、ぼくの意見を挟んでいきます。論文のタイトルが非常に魅力的なだけに、惜しい内容だが。

はじめに

秦漢帝国と隋唐帝国が存在できた理由は、人間の秩序化への意志が、普遍化したからである。秩序とは何か。人間は社会的な存在だから、他者との関係の中で、生き方を見つけるってこと。

大仰な言葉は論文からの引用だが、大したことは言っていない (笑)
ひとは一人では生きられませんよ、世間の皆さまに生かされているのですよ、と。事実としては分かるのだが、相応に謙虚になるのは難しいが。

魏晋は、秦漢の秩序で生きられなくなった時代で、より高次な秩序の在り方を模索した過程である。

友達がケンカし、後でかえって仲良くなるというやつだ。
後漢までの人付き合いがシックリ来なくなり、西晋でジコチュウが暴走してしまったが、東晋で新たな人付き合いのスタイルを見出しましたよ、と。


八王の乱は、西晋の滅亡と、北方異民族の華北征圧と、300年間の南北朝の分裂を招いてしまった。
なぜ八王は、執拗に抗争したか。これまでは、政治、社会、封王制、軍制、異民族との関係から、その理由を論じたものはある。だが安田氏は、これでは不足だと言う。安田氏の八王への問題関心は、
「人間存在の普遍性を他者との連帯という質において問う」
である。

どうやってジコチュウを我慢するか、ですね。

王戎は、スモモの種子に穴を開けて売った。このケチぶりは、ジコチュウである。経済的にケチというだけでなく、美味いスモモを共有する気持ちに欠ける。
反対に庾道は、性質の悪い馬を他人に売ることを拒んだ。他人を思いやる優しさである。2人は対蹠的である。

凶馬を人に押し付けて、厄払いする。同じ構図は『演義』の劉備と徐庶に通じるものがあります。まあ、中古車ショップが、事故車であることを隠して売りつける話と同じである。

西晋は、ジコチュウと思いやりが混ざった時代だ。

注記の必要がないと思いますが、「ジコチュウ」の語は、ぼくが勝手に用いているだけです。安田氏は、もっといろんな漢語のボキャブラリで勝負しておられる。


魏晋の人が、個人としての性格を強く持っていることは、周知のことだ。

周知だったのか。勉強不足だった!

宇都宮清吉氏は「世説新語人」が、「真の人間性の認識」を目指して、主体的に生きたといった。だが「世説新語人」は、宇都宮氏曰く「温かい志操」があった。つまり他者に対する共感と思いやりがあった。安田氏は、八王の乱を説明するために、この部分は切り捨てる。
森三樹三郎氏は、西晋を「ほしいままな人欲の解放」だとして、イタリアのルネッサンスと同じだと言った。西晋は「享楽主義ないしはデカダニズムの全盛時代」だと言った。

今日は森氏の論文が手元にないので、この部分だけを批判して騒いでも仕方ないが、、安易な比喩は慎むべきだねえ。デカダニズムって何だ (笑)

森氏は、東晋は西晋への反省と克服の時期だと。安田氏は「森氏のこれらの所説に多くを負っている」んだって。

まさに、そのとおりで。森氏の議論を踏襲し、『晋書』から裏づけとなる事例をたくさん抜いてきたのが、安田氏のこの仕事の価値なのでしょう。

「八王」の権力集団

「八王」の権力手段には、2つの特質がある。
 ◆首領や構成員が、権力や爵賞をほしがる
 ◆血縁や私的関係で結ばれた私党だ
楊駿は武帝の死後、親党で固めた。司馬亮は専権した。賈后も司馬倫も司馬冏も、司馬頴も司馬顒も司馬越も、同じである。
司馬瑋に信任されたブレーンの公孫宏と岐盛や、司馬倫のブレーンの孫秀も、権勢を好んだ人たちである。
楊駿は、西晋創立や呉平定を上回るバラ撒きをやった。司馬倫も、恩沢を惜しまなかった。

身内にだけ褒美を偏らせると、私党としての性格が露骨に出てしまう。だから、党外の人にも爵賞を与えた。だが、もともと動機が、私欲のカムフラージュである。いくら党外の人を公平に爵賞を与えようとしても、やっぱりジコチュウの領域を出ない。
徳望の士を任用することも、私欲の克服につながるが、焼け石に水である。司馬倫は、海内の徳望の士を集めろと命じているが、けっきょくは私欲のゴマカしに過ぎない。

私欲を完全に廃した政治なんかなかろうに。動機が私欲だからって、それを批判したら、どんな聖代だってスポイルされるだろう。
どこまでが安田氏が言っているジコチュウで、どこからが公的な政権なのか、定義するのは至難だろうね。

爵賞が激しくなると、もっと欲しくなる。西晋の人々は、満足がいく爵賞がもらえないと寝返る。司馬冏は、せっかく司馬倫に味方して賈后を倒したのに、遊撃将軍を授けられただけだった。不満に思って司馬倫に敵対した。

安田氏は脚注しているが、八王の乱の渦中にあっても、上の2つの特質を持たない人もいる。
1人だけ忠慨ぶりを称えられた長沙王の司馬乂と、ほとんど白痴に近い成都王・司馬頴を適切に補佐したそのブレーンの盧志である。