表紙 > 読書録 > 安田二郎「八王の乱をめぐって―人間学的考察の試み―」を怪しむ

03) 反省文を真に受けますか

前回で、八王の乱についての安田氏の結論が出てしまった。
次は、ジコチュウを反省する動きです。

八王の乱の克服

荊州刺史の劉弘は、あるべき姿を再建した人だ。
司馬越と司馬顒が対立した。304年、司馬越は豫州を手に入れたいと思った。司馬越は、豫州刺史の劉喬を冀州に飛ばし、代わりに従弟の司馬虓を任じた。だが劉喬が拒否した。司馬顒は、劉喬を支持した。

司馬顒-劉喬(いまの豫州刺史)
司馬越-司馬虓(わりこんだ豫州刺史)

劉弘は司馬顒の下に属していたが、双方に手紙を書いた。異民族が中原を狙っているのに、いがみ合っている場合ではないのだよ、と公義を説いた。劉弘は、長安の恵帝に仲裁させた。

劉弘は自領の荊州でも、真摯に公義を追求した。
老人をいたわり、飢えた百姓に漁獲を許可し、苦境に陥った益州刺史の羅尚に食料を送った。
張昌の乱のあと、劉弘は寒門の皮初を襄陽太守に申請した。
中央の回答は、
「襄陽は名郡だから、血筋の貴い人がいい。皮初はダメである。劉弘の婿である夏侯チョクにせよ」
であった。だが劉弘は、
「天下のためには、実力のある人を任じるべきだ。私の血縁だからと夏侯チョクを特別扱いして、襄陽太守にするわけにはいかない」
と退けた。劉弘は、公義の使命を自覚している。

前広漢太守の辛冉が、劉弘に提案した。
「司馬越と司馬顒の対立が激しく、どっちも疲れてきた。いま劉弘さんが名乗りを上げれば、勝てるんじゃないか」
劉弘は大怒して、辛冉を斬った。

劉弘のことを再び調べる必要がありますが、手放しに褒めちゃっていいのか。劉弘なりの野心や主義があったと思う。立ち回りが八王と違う=公義に生きた人だ、では安直だ。人が何か喋るときには、必ず天命や公益に適っていると主張するでしょ。八王ですら言ってる。劉弘がそれを口にしたからと言って、鵜呑みにするのはどうかと。

劉弘は、残暴な張方を用いる司馬顒を見限り、司馬越に転向した。だが司馬越からの信頼は充分ではない。南陽太守の衛展は、
「司馬顒の腹心・張光を斬ると、司馬越に信頼されますよ」
と劉弘に耳打ちした。だが劉弘は、
「他人を危うくして、自分を安んじるのは、君子のやることではない」
と言って却下した。賈后や孫秀や李含が、他人を手段として見なしたのとは真逆である。劉弘は、君子としてのあり方を目指したのだ。

だーかーらー、額面どおりに受け取っていいのか?
冷徹な計算で、劉弘は張光を斬ることを辞めたとする。でも口から出る言葉は「君子ならば」であろうよ。


劉弘の他に、庾コンと祖逖も、他者との共感と連帯に生きた人だ。

安田氏の言葉をそのまま引いたが、どうも幼稚くさい。初めにも書いたが、安田氏はこの時期の実生活で、共感と連帯に飢えていたのだろう (笑)

庾コンは、禹山に自衛集団を組織した。なぜ自衛したか。司馬冏が司馬倫を討つとき、この地域の住民が司馬倫の将軍に略奪されたからである。
庾コンはリーダーに選ばれて、平等に労働を割り振った。個人の適性に合わせて、仕事が与えられた。個人の違いを認め合ったのである。

祖逖は、洛陽が壊乱すると「親党数百家」を率いて淮泗地方に非難した。老人や病人に車馬を譲り、薬を分け合った。
のちに中原を回復するため、祖逖は豫州刺史になり、石勒と戦った。八王の破局を教訓にした生き方である。

東晋初期の外戚

元帝・司馬睿が死に、明帝が即位した。皇后の兄・庾亮は、中書監に任命されかけた。だが庾亮は辞退した。
至公こそが政治の根本原則です。外戚に重い官位を与えるのは、天子の私情によるものです。外戚だからと言って私を、中書監に就けてはいけません。私は欲望のある人間ですから、もし中書監になったら、きっと王朝にご迷惑をかけます」
安田氏は、庾亮のこの言い分を、絶賛してます。ちゃんと西晋の反省をしているから。

方便を割り引くことを、なぜしないんだ!
自分の欲望を庾亮が認めて、その上で辞退している。安田氏はこれが嬉しくて仕方ないようだが、、謙遜の修辞じゃん。
ぼくが勘ぐれば、東晋の皇帝権力は弱いから、庾亮が気づかったのだと思う。皇帝の親族(付属品)が偉ぶれるのは、皇帝が圧倒的に偉くなった後である。社長の輔佐は威張れるが、課長の輔佐は威張れないのだ。
この段階での東晋皇帝の強さは、課長みたいなものです。

庾亮はけっきょく中書監になった。

ほーら、ポーズだけだったじゃないか (笑)
「庾亮が上のような辞退文を思いつくような前提があった。辞退文がそれなりに支持される土壌があると、少なくとも庾亮は思っていた。庾亮その人が本心から西晋を反省していなくても、反省の概念だけは存在していた」
と逃げられたら、ぼくは返す言葉もございませんが。

たった3年足らずで明帝が死んだ。325年に5歳の成帝が即位すると、庾亮は心ならずも国政を担当した。

庾亮と元勲の王導は、対立しつつも補完した。王導は、自由放任して時の流れに任せた、待ちの政治。王導のやり方は、軍閥や貴族が好き勝手に振る舞い、緩み乱れた。
庾亮は、法という客観的規範を使った。政治がワタクシに流れるのを防いだ。庾亮は、凶馬を売り払えと殷浩に言われると、
「自分によくないものを、どうして他人に移せるか」
と反論した。政治姿勢と性格が共通する。

馬の話は、人格を示すエピソードの定番ですね。オークションに出品するときは、ぼくらは購入者からの星の数だけではなく、後世の史書からの評価を気にして、慎重になるべきだ (笑)

庾亮の強攻策に対して、蘇峻と祖約が叛乱した。これを悔いた庾亮は、329年に豫州刺史となり、334年に陶侃を継いで江荊豫州の刺史になった。中央には5年しかいなかった。西晋と違い、東晋の外戚は中央から距離を取る。
庾亮は、荊州の西府で王導を牽制した。

ゆるい北府と、きつい西府。こうやって単純化したら、東晋の歴史が分かりやすいかも知れない。
西府は軍事的な前線で、権力が集中する。北府は強い貴族が多くて、分散する。バランスを取らねば回らないから、法規制は甘い。