表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋初期政治史試論」を読み、司馬攸を悩む

01) 司馬攸は皇位のダミーである

論文を読みながら、思ったことを突っ込んでゆきます。
初出は1995年『東北大学東洋史論集』六だそうです。

論文の要点

ぼくが印象に残った安田氏の指摘が、
 ◆司馬昭は初めから司馬炎を後継に選んだ(司馬攸でない)
 ◆賈充は司馬炎を牽制するため、孫呉と司馬攸を残したかった
です。
それでは、本論に入っていきましょう!

はじめに

西晋の天下統一はわずか30年だ。三国の収束と、八王による発散が、短期間で起きた。唯一の資料たる『晋書』の図式的理解から抜け出し、西晋を捉えるべきだ。

確かにそのとおりだ。ぼくに『晋書』をしっかり批判する切り口がない。
「時代を隔てた唐代に成立した。小説も見境なく取り込んだ。だから信憑性の低い史書なんだ」
と思っている。批判の視角ですら、図式的で甘っちょろい。唐代の房玄齢がどういう状況におかれていたか、朝廷がどんな政治的ニーズを持っていたか、少しは知るべきだね。

司馬炎と司馬攸の深刻の関係、へつらいを痛罵される賈充のあり方を中心に、『晋書』とは違う理解を試みる。

なぜ賈充は『晋書』で、ケチを付けられなければならなかったか。
安田氏の論文は、それを明らかにしていない(ネタバレ)。だが、ぼくが取り組むべきテーマだなあ。

晋王国世子の策定

司馬昭が晋王になったのは、264年3月。司馬炎が世子に指名されるのは、264年10月。7ヶ月も間が空いているのは、同母弟の司馬攸と悩んだからだという。
司馬昭の悩みの理由とは、『晋書』が述べるには、
 ◆才能、道徳性、名聞とも、いずれも炎より攸が上
 ◆司馬昭は、炎より攸を評価している
 ◆司馬昭は司馬師のレールを歩んだだけ(司馬攸は司馬師の後嗣)
3つ目について司馬昭の自己評価は、
「私は積極的な役割を、何も果たしていない」
である。もともと司馬昭は、司馬師の系統に譲り渡すつもりだったと。

今言っても仕方ないが、司馬師が男子を遺さなかったのって、不自然だ。反対派の呪いではあるまいが。
王朝が衰微する原因は、得てして初代の周辺にあると思うんだけど、司馬師も同じである。司馬師のせいで、司馬炎と司馬攸、司馬衷と司馬攸と、2代に渡って後継争いが祟った。八王が決起した。

ところが、曹爽と抗争したときから司馬氏に味方した人たちが、司馬炎を支持した。何曾、裴秀、賈充、山濤らに説得されて、司馬昭は翻意した。一転して、司馬炎を選んだ。
以上が『晋書』のストーリーだ。

『晋書』の描く司馬昭の本心は、司馬攸である。だが安田氏は、昭の本心は初めから炎だと考える。その理由は3つある。
1つ。司馬昭の貢献度は、司馬師に比べて決して小さくない。
司馬懿からの評価は、司馬師に偏った。曹爽を討つクーデターのとき、司馬昭は関わらせてもらえなかった。師は、毌丘倹と文欽を征伐に行って、壮絶な最期だった。「景王の天下」と司馬昭が思ったのももっともだ。

景王とは、もちろん司馬師。

だが司馬師の当権は3年半で、司馬昭は10年余だ。諸葛誕、曹髦、蜀平定、鍾会など、司馬昭の仕事も大きい。司馬昭に勝りこそすれ、劣らない。司馬昭の自己評価が低いのは、別の目的があったからではないか。

晋の世子を選ぶとき「司馬攸は司馬師の後嗣だから」という言い分が出てきた。安田氏はこれを、所与のこととして前提に据えるのみだ。『晋書』の言いなりである。だが司馬昭の思惑を探るなら、司馬攸を継嗣に送り込んだ時点まで遡らないと!

なぜ司馬昭は、司馬攸を司馬師の後嗣にしたのか?
司馬師に幼子がいれば、司馬昭は中継ぎに徹する。分かりやすい。まさに周公旦である。しかし司馬昭は状況が違う。司馬昭は、平和裏に家長となった。だがわざわざ、兄の家に次男を送り込んだ。いらんことだ。
「子のない兄の家を絶やさない」
ことは、自明でも義務でも必然でもないことに注意。
司馬昭は、司馬師の後嗣に、誰も置かないことだって出来たはずだ。祭祀を絶やしてはいけないだろうが、司馬昭が自ら兄を祭れば良かろう。

いま貧困な知識をフル検索したが、兄弟相続をした後に、兄の家を守り立て続けた弟というのを、ぼくは知らない。後漢の安帝は、和帝と殤帝の家を残したか。順帝は少帝の家を残したか。霊帝は桓帝の家を残したか。曹髦は曹芳の家を残したか。いずれもNOだ。
逆のパタンで、弟の子孫が家長となり、弟をさかのぼって追尊したという話は、後漢の皇室で頻繁にあったけれども。

これはぼくの仮説ですが。
例えば司馬昭は、何としても我が子に天下を継がせたかった。司馬師の後嗣に傍系から人が入れば、師の系統VS昭の系統という戦争が起こる。弟である昭は、絶対に勝てない。それなら予め、兄の家に我が子を送り込めばどうだろう。どちらに転んでも自分の血が残る。必然性はないくせに、司馬攸が送り込まれた理由が、1つ組み立てられたかも?
だが司馬昭は神ではないから、余計な火種を子孫に残してしまった。八王の乱の遠因だ。人が、欲望の実現のために余計な小細工をして、思わぬしっぺ返しを受ける。とても楽しいパタンだ。


2つ。司馬昭の手口は、不自然である。
司馬昭は、旧臣や親臣に司馬炎を勧めさせ、その都度に却下した。だが最終的には、司馬攸という選択肢を完全撤回して、司馬炎を後継にした。考えや性向を熟知した相手と、出来レースを演じていた可能性がある。

王莽や曹丕と同じである。
自分の思惑とは別のことを言い、周囲に進められるカタチで思惑を実現する。王莽は、娘を漢帝の妃に送り込むときや、官位を昇るときに、この手続きを踏んだ。禅譲するとき以外にも、いくらでも転用が利く。
『晋書』で読めるとおり、司馬昭の本心は司馬攸にあったと鵜呑みにしたら、司馬昭の術中にハマって躍らされていることになる。安田氏の指摘に、ぼくは賛成です。


3つ。炎と攸の年齢だ。2人は12歳の差がある。なお『晋書』には、司馬師が死んだとき司馬攸が10歳だと書いてあるが、7歳の誤り。

安田氏の論文を読むまで、ぼくは司馬攸の年齢を間違えていた。『晋書』を鵜呑みにしていた。ダサいなあ。

晋王の世子を選ぶとき、司馬炎は29歳で、ナナヒカリ以外にも実績があった。だが司馬攸は17歳で、早くとも前年に閑任である員外散騎常侍になったばかり。歩兵校尉となり、
「営部を綏撫して甚だ威恵あり」
と非凡の資質を示すのは、世子指名の翌年から。政治経験の差は歴然としており、司馬炎が圧倒的に有利だ。
司馬昭は、疾病や突発事故による急死や暴死ではない。前進悪化の病で死んだ。司馬昭は身体の変調を自覚していたはずだ。にも関わらず7ヶ月も世子選びに費やした。なぜか。司馬炎を支援する体制を確立するための策略だったからだ。司馬攸は、体制整備のために設定されたダミーだ。
経験豊富な29歳を廃して、経験皆無の17歳を指名するなど、司馬昭が本気で考えていたはずがない。

ちゃんと『晋書』を読み直す前から、何も言うべきではないが、、
2人は12歳差ではなく、9歳差と読んでもいいんだよね。それなら司馬攸の、18歳の勤務ぶりがすでに表出していたかも知れず。安田氏が自説の補強のために、読み方を偏らせた可能性はないのかなあ。