表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋初期政治史試論」を読み、司馬攸を悩む

02) 司馬昭が冒した禁断の策略

前回、司馬昭は初めから司馬炎を後継にするつもりだったと分かりました。司馬攸は、ダミーだった。群臣から自発的に、
「司馬炎を支持します」
と言い出してもらうために作った、選ばれるわけのない選択肢だった。ディベートをするときにさあ、
「もしあなたが愚か者でなければ、この説を支持するでしょうが」
と牽制するのと同じ構図だ。

司馬炎の策立とその時代背景

わざわざ司馬攸のようなダミーを設定した理由は何か。まずは司馬昭の健康問題。あわせて、司馬昭が第二の鍾会の出現を恐れたからだ。
鍾会は、司馬氏の権力安泰に、とても大きな功績がある。だが、蜀で裏切った。だから司馬昭は旧臣連中から、献身と忠誠の確約をとりつけねばならなかった。踏み絵が必要だった。八百長に参加してくれるか、司馬昭は観察していた。
賈充は司馬昭の思惑を見抜いた。何曾や裴秀や山濤は、司馬炎の身体的特徴を敬異して、嫡長主義から、司馬炎を推した。
賈充とその他の人々が、司馬炎を支持した論拠は異なる。だが議論のヴァリエーションは、司馬炎の正当性を確認させるのに役立った。

司馬炎と司馬攸には、性格の相違があった。二者択一のどちらを支持するか問えば、司馬昭と臣下の間で、
「晋をどのような王朝にしたいか」
という認識合わせをすることができた。

もし司馬昭にその意図があれば、最高の良問を用意したねえ。

司馬炎の性格は「寛恵仁厚」で、おおらかで包容力があった。司馬攸は「性急」だった。2人の性格は、実母の王氏が死の直前に言ったことなので、真実かつ臣下の共通理解だろう。
賈充は「寛仁」を第一の理由にして、司馬炎を支持した。「性急」な人が最高権力者になると、自信過剰から独善主義に陥る。目的への猪突をもたらして、独裁する危険がある。

論文の後半にありますが、賈充が期待した司馬炎の「寛仁」は、のちに失われる。孫呉と司馬攸の2つの心配事が失われて、独裁者に変貌する。


賈充や山濤たちは、司馬炎の性格を支持した。だが、私的に迎合したばかりではない。
司馬昭は264年7月に、五等爵制を定めた。同時に、鄭沖に礼儀、律令、官制をリニュアルさせた。律令は、賈充が妻の郭槐とともに、267年に完成させた。晋律では、魏の厳しすぎる刑罰を緩めることが、緊要の政治課題として取り組まれた。
司馬攸より司馬炎が選ばれたのは、王朝の方針とも一致する。

司馬攸の列伝を読んだとき、ぼくの印象は違った。司馬攸の「性急」とは、感情に制御が利かないことを言い当てていたと思うが、根底には儒教道徳があった。極端なまでに、儒教に突っ走ってしまう人だ。
司馬攸がバリバリの法家なら、安田氏に話は成り立つと思うが、ちょっと違う気がする。司馬攸伝を読み直さねば。

司馬衷の立太子と斉王攸

265年8月に司馬昭が死んだ。直前の5月、司馬炎が晋王になった。晋王の顕職を占めた人たちは、論功行賞で官位をもらっただけではない。旧臣が献身的に司馬炎を支える体制だ。司馬昭の策略はヒットした。

だが司馬昭の謀略は、次世代に火種を残した。
謀略は、ソコが割れると効力が失われる。司馬昭は、本気で司馬炎を退けようとする必要があった。旧臣たちには、本気で司馬炎を支持してもらわねばならない。
司馬炎は裴秀に泣きついた。羊琇から口移しで模範解答を教わり、司馬昭に答えた。司馬炎は山濤に謝礼を述べたし、羊琇に破格の抜擢をした。
司馬炎は本気で、ダミーでしかない司馬攸を、確かなライバルとして認識した。司馬昭がさかんに司馬攸を称揚したから、司馬炎の心は屈折した鬱積が残った。

ところでさあ、他人から見たとき、司馬昭が「本気で司馬炎を廃そうとする」と、「じつは司馬炎を支持するが、策略として本気で司馬炎を廃す演技をする」とは何が違うんだろう?
真の動機なんて、本人しか分からないこと。周囲に見える姿は同じである。もし本人が存命していれば、「あれはね、ウソなんだ」と弁解すればひっくり返る。過去に遡ってウソを吐いても良い。言いたい放題である。
だが司馬昭は死んだ。人々の記憶に残ったのは、目に見えた司馬昭の振る舞いだけだね。司馬昭は自分の死後のために、安田氏の言う「策略」をやったわけだが、死後には絶対に修正できない司馬炎VS司馬攸という対立図式を遺した。王朝永続という視点から見れば、採ってはいけない策略ではなかったか? 人を騙しても、穴ふたつ。ご利用は計画的に。

司馬昭は不治に臥したとき、司馬攸の未来に心を痛めた。策略による犠牲の大きさを痛感したのだろう。

安田氏が言うように、司馬昭は、可愛い次男坊1人の運命を嘆いたんだ。八王の乱の火種を残すなんて、見通しちゃいない。見通していたら、物語がつまらなくなるんだけど。


司馬炎は、司馬攸を斉王にした。安平国王の司馬孚と並んで、特別の恩典を受けた。司馬攸は辞退した。司馬昭の涙の訓戒が効いているようだ。
だが平穏は、1年余を経過した267年正月に破られる。9歳の司馬衷が立太子された。
年初の大赦のついでに、詔書の後半でオマケっぽく太子が指名されただけだ。司馬昭の喪中という理由で、漢魏なみの祝賀はなかった。大会も大赦もなかった。時期尚早なのに、ムリに太子が立てられたのは、司馬攸の位置づけを明確化することが目的だったからだ。
なぜこの時期に明確化を急いだか。
司馬攸が20歳になったからだ。九品官人法で起家すべき標準年齢が、20歳だった。自立した人格が社会に公認される年齢なので、
「司馬攸は藩王、臣下に過ぎない」
とアピールする必要が、司馬炎にあった。

母の王氏は、司馬師と司馬昭を前例として、司馬炎から司馬攸に移譲されることを願った。王氏ですら、司馬昭の策略を秘匿されていた。
司馬昭の本意を諒解している賈充ら親臣と、司馬昭の本意を知らない大多数(司馬炎と司馬攸も含まれる)との間で、ギャップが生まれた。悲劇を招きそうである。